3月12日と13日のVision



今回の大震災を受けて
急遽特別編成対応を敷いた関係で、
昨日(3/12土)と本日(3/13日)については両日とも、
「VISION」のゾーンを「ニュース情報枠」に差し替えて
放送させていただきました。

*3月12日:八木田杏子 3月13日:古居利康


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蛭田瑞穂 11年03月06日放送



バルガス・リョサ

2010年のノーベル文学賞を受賞した
ペルー出身の作家バルガス・リョサ。

『都会と犬ども』、『緑の家』、『世界終末戦争』などの
著書で知られるリョサは、作品を通じて
社会の偽善や腐敗を告発し、南米の多様な文化を描いてきた。

バルガス・リョサをノーベル文学賞に選考した理由として、
スウェーデン・アカデミーは次のように発表した。

権力の構造を明確に描き、
個人の抵抗、反抗や敗北を鋭く表現した。









サミュエル・ベケット

舞台の上に男がふたり立っている。
ふたりはゴドーという人物を待っている。

劇作家サミュエル・ベケットが発表した戯曲
『ゴドーを待ちながら』。

ふたりの男はしかし、ゴドーという人物を知らない。
会ったこともない。来るかどうかもわからない。
なぜふたりはゴドーを待ち続けるのか。

この戯曲によって、ベケットは
「不条理劇」というスタイルを完成させ、
のちの演劇界に多大な影響を与えた。

文学や戯曲の分野で新しい表現方法を切り拓いた。


その理由により、サミュエル・ベケットは
1969年のノーベル文学賞を受賞した。





ガルシア・マルケス

コロンビアの作家ガルシア・マルケスが
1967年に発表した小説『百年の孤独』。

南米の架空の町マコンドを舞台に、
町を開拓したブエンディア一族の繁栄と滅亡を描いた100年の物語。

チョコレートを飲んで空中浮遊する神父。
遠く離れた場所からテレパシーで手術をする医者。
4年と11カ月も降り続く雨。

ブエンディア一族の歴史が、
次々と繰り出される奇想天外なエピソードによって
神話的に語られる。

日常と非日常が混ざり合う「マジック・リアリズム」
という手法を巧みに使った小説は各国でベストセラーになり、
世界中でラテンアメリカ文学ブームを巻き起こした。

『百年の孤独』の発表から15年後、
スウェーデン・アカデミーはガルシア・マルケスに
ノーベル文学賞を授与する。その選考の理由は、

幻想と現実を結びつけ、ひとつの大陸に生きる葛藤を
豊かな想像の世界で表現した。


というものだった。





パブロ・ネルーダ

1971年のノーベル文学賞を受賞した
チリの詩人、パブロ・ネルーダ。

彼にとってはこの世界に存在するもの
すべてが詩作の対象だった。

チリの美しい自然。女性のからだ。妻への愛。政治。戦争。
パンを讃える詩をつくったこともある。

同じく南米出身の小説家ガルシア・マルケスは、
ネルーダを「詩のミダース王」と表現した。

ミダース王とは触るものすべてを黄金に変える力を持つ
ギリシャ神話の登場人物。

目に触れるものすべてを詩に変えた。
ガルシア・マルケスはネルーダをそう讃えたのである。





トーマス・マン

20世紀の文学界の巨匠トーマス・マンが
1901年に発表した小説『ブッデンブローク家の人々』。

商人の一族、ブッデンブローク家の4代に渡る繁栄と没落を描き、
生まれたばかりの近代市民社会と、
そこに生きる人々の姿をユーモアとアイロニーを交えて表現した。

のちにトーマス・マンはノーベル文学賞を受賞するが、
その理由は、

現代の古典として広く知られる偉大な小説、
『ブッデンブローク家の人々』に対して。



というものだった。

作家本人の功績を讃えて授与されることの多いノーベル文学賞が、
特定の作品を評価することは珍しい。

しかも『ブッデンブローク家の人々』は、
トーマス・マンが執筆した事実上初めての長編小説。

弱冠25歳の時の作品であった。





ロマン・ロラン


ノーベル賞作家ロマン・ロランの代表作『ジャン・クリストフ』。

貧しい音楽一家に生まれた主人公ジャン・クリストフが、
人間や芸術家としての真実を追求しつづける物語。

傷つきやすくも、闘うことを決してやめない
ジャン・クリストフの不屈の生涯を描き、
人間のあるべき姿を示したロマン・ロラン。
彼は一生を通じて、理想主義的ヒューマニズムを表現した。

『ジャン・クリストフ』を書き上げたあとで、
ロランはこう記している。

 今日の人々よ、若い人々よ、今度はきみたちの番だ!
 われわれのからだを踏み台として、前進したまえ。
 われわれよりも、さらに偉大に、さらに幸福になるのだ。






ウィリアム・フォークナー


『響きと怒り』、『八月の光』などの作品で知られる、
アメリカ人作家ウィリアム・フォークナー。

自らの出生地であるアメリカ南部を
小説の題材として繰り返し取り上げ、
土地の因習や人間の深い業を描き続けた。

アメリカ現代小説に対する、強力かつ独創的な貢献が評価され、
1949年にフォークナーはノーベル文学賞を受賞する。

その文学は後世の作家たちにも大きな影響を与えた。
同じくノーベル文学賞したガルシア・マルケスも、
「フォークナーを父として殺すことが自分の文学観だった」
という表現でフォークナーの偉業を讃えている。





ヘルマン・ヘッセ


作家ヘルマン・ヘッセの代表作『車輪の下』。

エリートの集まる神学校に入学した主人公ハンスが、
詰め込み教育と寄宿舎生活に疲れ、学校から脱走するという、
少年の苦悩と挫折を描いた物語。

主人公の少年時代は、作者自身の少年時代とほぼ重なる。

宣教師の父親の仕事を継ぐため、
14才で神学校に入学したヘッセはわずか半年で学校から逃げ出す。
その後、職を転々とし、自殺未遂も起こした。

作家としてデビューするまで長い苦難の時期を過ごしたが、
彼には「詩人になるか、さもなくば何者にもならない」という
強い決意があった。

のちにノーベル文学賞を受賞したヘルマン・ヘッセ。
彼はこんな言葉を残している。

 過ちも失敗も多かった。だが、後悔する余地はない。

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佐藤延夫 11年03月05日放送



エディット・ピアフ1

彼女は、生まれたときから街角に立っていた。
大道芸人の父と、クスリに溺れる母。
街から街を流れ歩く毎日。
母は彼女を産んで2ヶ月後に蒸発し、
同棲相手の家で、あっけなく死んだ。

フランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフは、
自分の生い立ちについて、こう語っている。

   もし、あんなふうにして生きてこなかったら
   私は、ピアフになれなかったもの

運命を受け入れるほどの優しさを、
彼女はどこで手に入れたんだろう。





エディット・ピアフ2

十代の恋というのは
パッと燃え上がりやすいけど
その多くは独りよがりで
先のことなど考えず、
小さなことですぐひび割れてしまう。

エディット・ピアフは、
17歳の少年、ルイ・デュポンに恋をした。
小さな部屋でともに暮らし、
小さな命を授かった。
それでも物足りなさを感じ、
外人部隊の兵隊に恋をする。

その兵隊は戦地で命を失い、
一人娘も病気で亡くなった。

それでも十代のような恋を重ねながら、
ピアフは、うたをうたう。








エディット・ピアフ3

どんなに才能に恵まれていても
誰かが発掘してくれなければ、
土の中に埋もれてしまう。

その点、エディット・ピアフは幸運だった。
道路標識のように待ち構える、正しい大人たちがいた。

道で歌っていたピアフをパリのキャバレーに雇い入れた、ルイ・ルプレ。
三年もかけてピアフを磨きあげた、レーモン・アッソ。
そして、偶然キャバレーに来ていた客は、
フランスのスター歌手、モーリス・シュヴァリエだった。

   ブラボー。あの娘は身体で歌っている。

その一言で、ピアフの人生が動き出す。
運を味方につけるもの、才能のひとつ。





エディット・ピアフ4

   あのひとが私を腕に抱いてくれるとき
   そっと、話しかけてくれるとき
   私の目にうつるのはバラ色の人生・・・

エディット・ピアフの大ヒット曲、
la vie en rose「バラ色の人生」。

現実の彼女の人生は、
決してバラ色とは言い難い。
売春、殺人容疑、麻薬、
アルコール中毒、自殺未遂、
いくつもの自動車事故、
そして、愛する人の死。

恋人のマルセル・セルダンを
飛行機事故で亡くした夜、
ピアフはステージに立ち、客席に向かって言った。

   今夜、私はマルセル・セルダンのために歌います。
   誰のためでもありません。彼のために歌います。

せっかく開きかけた薔薇の花が、
また静かに枯れていった。





エディット・ピアフ5

恋をすれば破れ、
愛されると逃げたくなる。
こちらが本気になった相手は、
ことごとく不幸な目に遭う。

そんな人生を送っていたら、
エディット・ピアフじゃなくても
なにかに溺れてしまいそうだ。

でも彼女は、必ず立ち直った。
新曲を手に、ステージに上がった。

ピアフの曲、
「Non, Je ne regrette rien」(水に流して)には、こんな言葉がある。

  いいえ、私は何も後悔してない
  私のいろいろな過去を束にして
  火をつけて焼いてしまった

この世の愛を余さず歌うために、彼女は生まれたのだろう。





エディット・ピアフ6

有名になればなるほど、
外野の声がうるさく響く。
エディット・ピアフもまた然り。
シャンソンに批判的な作家、ボリス・ヴィアンは言った。

   曲は恐るべき通俗に思える。
   だがマダム・ピアフ、脱帽だ。
   電話帳を読み上げても、ピアフは人を泣かせるだろう。

彼にそう言わしめた曲、Bravo pour le clown「道化師万歳」。
ピアフの叫びは、涙腺を刺激する。






エディット・ピアフ7

フランスの映画監督、サシャ・ギトリは
エディット・ピアフについて、こう語っている。

   彼女の人生はあまりに悲しかったので
   真実であるためには美しすぎるほどだ。

ピアフは、生涯でいくつもの愛を紡いだ。
配達夫の少年、キャバレーに出入りする男、
水夫、トルコの奇兵隊、炭坑夫。
それらは全て成就せずに、泡のように消えた。
47歳で亡くなるまで、
いつも彼女は誰かのぬくもりを探していた。

大ヒット曲「愛の賛歌」は、
最愛の人を飛行機事故で失ったあとに録音されている。


   青空だって、私たちの上に落ちてくるかもしれない
   地球だって、ひっくり返るかもしれない
   でも大した事じゃない あなたが愛してくれれば・・・


hymne à l’amour・・・
一生のうち一度でも、これほど誰かを愛せたら。

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蛭田瑞穂 11年2月27日放送



デジタル時代の天才たち①
「マーク・ザッカーバーグ1」


世界最大の
ソーシャルネットワーキングサービス「Facebook」。

2004年にハーバード大学の学生
マーク・ザッカーバーグが「Facebook」を設立すると、
さまざまな投資家が彼に近づき、買収の話を持ちかけた。

しかし、どんな金額を提示されても、
ザッカ―バーグに会社を売る気はなかった。

彼は言う。

 別にお金が欲しいわけじゃない。
 僕にとってFacebookはニ度と思いつくことのない
 素晴らしいアイデアなんだ。






デジタル時代の天才たち②
「ジェフ・ベゾス」


伝説はガレージからはじまる。

「Hewlett-Packard」は1938年、
ウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカードが
カルフォルニア州パロアルトの小さなガレージではじめた。

「Apple Computer」は76年、
スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが
ジョブズの実家のガレージではじめた。

「Google」は98年、
セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジが
カリフォルニア州メンローパークのガレージからはじめた。

インターネットショッピングの「Amazon」も
1994年にシアトルのガレージからはじまった。
だがそれにはこんな裏話がある。

創業者のジェフ・ベゾスが、事業が成功したあとで
「うちの会社もガレージからはじまった」と言うために
わざとガレージを選んだのだという。





デジタル時代の天才たち③
「マーク・ザッカーバーグ2」


ウェブ上でユーザー同士が自由に交流を楽しむ

ソーシャル・ネットワーキングサービス。

中でも世界最大のユーザー数を誇るのが、「Facebook」。

2004年、当時ハーバード大学の学生だった
マーク・ザッカーバーグと数人の仲間が
大学内の学生交流のためにはじめた。

すると、そのサイトが学生の間で評判になり、
他の大学にも次々と公開されるようになった。

そして2006年、一般の人々にも公開が及ぶと人気は爆発し、
世界中の人々が「Facebook」に自分のページを開きはじめた。

現在の会員数は5億人を超える。
設立からわずか6年でアメリカ合衆国の総人口をも上回る
ユーザーを集めたモンスターサイト「Facebook」。

マーク・ザッカーバーグはこう語る。

 ぼくたちはFacebookを
 単なるウェブ上のコミュニティとは考えていない。
 Facebookはリアルライフの映し鏡。
 リアルライフそのものなんだ。





デジタル時代の天才たち④
「サーゲイ・ブリンとラリー・ペイジ」


2004年のある日、シリコンバレーの中心を走る
ハイウェイ沿いに奇妙なビルボードが設置された。

書いてあるのは難解な数学の問題と、
ウェブサイトのアドレスを思わせる「.com」の文字だけ。
企業名は何も書いていない。

じつはそのビルボードは「Google」の求人広告。

数式の解答をアドレスバーに打ち込むと、
「我々が探しているのは世界最高のエンジニア。
 あなたこそその人です」と書かれたページにたどり着く。

セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ。
ふたりの天才がつくった革新的な検索エンジン
「Google」は求人の方法もまた革新的である。





デジタル時代の天才たち⑤
「ラリー・ペイジ」


1996年、スタンフォード大学の大学院生、
ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンは
どんな検索サイトよりも正確に情報を探し出せる
検索システムの研究に没頭していた。

あるとき、ラリー・ペイジは
サイトとサイトを結びつける「リンク」が
重要な鍵を握ることに気づいた。

そこで、彼はリンクの解析をするために、
インターネットに存在するすべてのサイトを
自分のコンピュータにダウンロードすることを試みた。

「そんな馬鹿な」。指導教官も驚くほどの
大それた考えだったが、ラリーは実行する。

そしてついに、すべてのウェブサイトの
リンク構造を解析し、「ページランク」と呼ばれる
独自の検索アルゴリズムの開発に成功した。

この「ページランク」がのちに世界最大の検索エンジン
「Google」の誕生につながるのである。

ラリー・ペイジは語る。
 
 できるはずがないと思われることに挑戦すべきなんだ。
 こうしようと決めた目標に向かうときは、
 ちょっとまぬけでなくちゃいけないのさ。





デジタル時代の天才たち⑥
「スコット・ファールマン」


パソコンや携帯電話のメールで使われる「絵文字」。

世界で最初の絵文字は1982年、当時IBMの技術者だった
スコット・ファールマンによってつくられた。

コロンとハイフン、カッコを組み合わせ、
横向きにすると人の笑顔に見えることから
「スマイリー」と名づけられた。

それ以来、さまざまな人の手によって
多くの絵文字がつくられ、
文字が整然と並ぶコンピュータのテキストは、
人間の豊かな感情に彩られるようになった。

スコット・ファールマンは言う。

 良かったのか悪かったのかわかりませんが、
 これは私が世界に上げた贈り物です。








デジタル時代の天才たち⑦
「ビズ・ストーン」


今起きていることを140字以内の短い文章で投稿する
コミュニケーションサービス「twitter」。

投稿することを“tweet”というが、
それは鳥のさえずりという意味。

2006年の創業からわずか3年でユーザーは1億人を超え、
1日に5000万もの投稿が世界中を飛び交う。

「Twitter」の共同創業者、ビズ・ストーンは語る。

 世界中の人々がつながれば、思いを分かち合えます。
 鳥の群れが、隣同士つつきあいながら、
 全体で美しいうねりをつくるようにね。
 僕たちはその流れを支えたいのです。





デジタル時代の天才たち⑧
「スティーブ&スティーブ」



「Apple Computer」はふたりのスティーブによってつくられた。

ひとりはスティーブ・ジョブズ。
もうひとりはスティーブ・ウォズニアック。

ジョブズとウォズニアックが出会ったのは1971年。
ウォズニアックの自作したコンピュータを
ジョブズが見に訪れたことから交遊がはじまる。

ウォズニアックは振り返る。

 いやー、似てるなあって思ったよ。
 コンピュータの設計について話さなくてもわかってくれたし。
 すぐに仲良くなってエレクトロニクスや音楽について、
 いろいろと話し合ったんだ。


パーソナルコンピュータの革命は、
ビジネスではなく少年同士の友情からはじまった。

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厚焼玉子 11年02月26日放送



岡本太郎 明日の神話

2008年11月、渋谷駅にあらわれた巨大な壁画に人々は驚き
カメラを向けた。

縦5.5メートル、幅30メートルのその壁画は
「明日の神話(あすのしんわ)」と名付けられた岡本太郎の作品だが
展示されている場所はJRと京王線の連絡通路で
人通りは激しく、気温も湿度もコントロールされてはいない。
作品を保護するためのガラスもない。

20世紀でもっとも人気のあった芸術家といわれる岡本太郎だが
彼は自分の作品がガラスのなかに展示されるのを極度に嫌った。
もし作品が傷つけられたら自分が直すとまでいっていた。

その考えに従って
本当にむきだしのまま展示された岡本太郎の「明日の神話」は
夏の重い湿気に耐え、冬の乾燥にも負けず
渋谷のランドマークとして、
24時間、誰でも見ることができる。

美術館で、ただ人の訪れを待つ芸術作品より
それはもしかして、幸せなことなのかもしれない。







岡本太郎 太陽の塔

岡本太郎の代表作といえば
1970年の大阪万博のシンボルタワー、太陽の塔。

しかし万博当時は
3つの顔を持ち、両手をひろげたその姿は
「醜悪」「不気味」といわれ
「あまりに岡本太郎的」という非難まで浴びた。

しかし、岡本太郎は自分の著書にこんなことを書いている。

 うまくあってはならない きれいであってはならない 
 ここちよくあってはならない

たとえ不快であっても見る人を惹きつけ、圧倒するのが
真の芸術だと説いているのだ。

批判の多かった太陽の塔だが
万博が終わってみたら署名運動が起こり
万博公園に永久保存されることになった。

その代表作をいつでも誰でも見ることができるというのは
いかにも岡本太郎らしい。





岡本太郎 こどもの樹

青山の「こどもの城」の入り口には
岡本太郎の「こどもの樹」が立っている。
「こどもの樹」もまた、24時間誰でもみることのできる
岡本太郎の作品だ。

「こどもの樹」は真ん中の幹から腕のような枝が生え
その先端には顔がある。

怒った顔、笑った顔、泣いた顔にベロを出した顔
それは本当に子供の表情だ。
大人になって忘れてしまった顔がそこにある。

岡本太郎は自分のことを子供の代表といっていたそうだ。
既成概念と戦い、束縛には反抗し、反逆児と呼ばれたが
岡本太郎本人としては
素直に自分を表現していたということなのだろう。

子供はひとりひとりが自分の顔を持っていないといけない。
隣の子と同じ顔ではいけない。
「こどもの樹」にはそんなメッセージが込められている。





岡本太郎  若い時計台

岡本太郎が「若い時計台」をつくったのは1966年、
55歳のときだった。
数寄屋橋公園に立つそれを見た人は
誰もが万博の「太陽の塔」を連想するけれど
実は「若い時計台」の方が4年も早い。

同じ1966年にソニービルがオープンしたが
マリオンができるのは18年後だし
数寄屋橋あたりにはまだ古いビルが建ち並んでいた。
岡本太郎の「若い時計台」は
そんな時代に数寄屋橋公園に出現したのだ。

顔の文字盤を支える胴体からはいくつもの腕が
四方八方に伸びている。
それは角度によって踊っているようにも見えるし
握手を求めているようにも見える。
日が暮れるとネオンの仕掛けで色が変化する。

しかし、いちばん驚くのは
この時計台、どこから見てもどんな新しいビルを背景にしても
斬新な存在感を主張していることだ。

そばに寄ったときと、道路を隔てて眺めたときでは印象が違う。
角度や時間帯によっても違う。
誰もが24時間見ることのできる作品だから
いつ見ても面白く新しく。
それが「若い時計台」の若さなのかもしれない。





岡本太郎 午後の日

岡本太郎の墓は多磨霊園にある。
その墓標は「午後の日」という太郎の作品で
大きく無邪気な子供の顔だ。

作品は顔と両頬に当てた手だけだけれど
この子はたぶん、暖かい日の当たる座敷で
畳に腹ばいになっているに違いない。
そして、そばにいるお母さんと楽しい話をしているに違いない。

そんな風におもえてくるほど
かわいらしく、あたたかい作品なのだ。

そして、それから、ひとつの思いが浮かんでくる。
これはもしかして、岡本太郎本人なのではないか.
自分がこうありたいと願っていた子供の姿ではないか。

あとひと月もすると桜の便りも聞けるだろう。
1600本の桜が咲く多磨霊園の桜並木のすぐそばに
岡本太郎は子供の顔をして眠っている。





岡本太郎 顔

大正から昭和のはじめにかけて一世を風靡した漫画家
岡本一平の墓は、多磨霊園にある。

墓標は埴輪に似ているが、
顔はまん丸で無邪気に笑っている。
それは一平の長男岡本太郎の「顔」という作品で
母岡本かの子をモデルにしたといわれている。

両親の複雑な夫婦関係や
母にかまわれなかった太郎の幼少時代は
誰知らぬものとてないけれど

それでも、太郎も父も
岡本かの子を愛していたのだな、と
この墓標を見るとつくづく思う。






岡本太郎 

岡本太郎が創造したものは
絵画や彫刻だけではなかった。

椅子、灰皿、スキー板
デパートのショーウインドーのディスプレイ
果ては鯉のぼりのデザインにまで手を染めている。

生活のなかに生命感あふれる遊びを創造することは
彼の喜びでもあったし
また芸術を社会に広げていくための空間的な広がりを求めていた。
そのひとつは、みんなが手に取れる大量生産のものをつくることであり、
もうひとつは銀座の空に絵を描くといった物理的な空間の占有である。

そういえば…
岡本太郎は飛行船のデザインまで手がけている。
戦後二番めの飛行船として1973年に空を飛んだレインボー号は
岡本太郎によって魚のような原色の絵が描かれ
日本の空を飛びまわった。

レインボー号には本当なら
スポンサーである企業の名前が入るはずだったのだが
岡本太郎は「大空はみんなのもの」という理由で猛反対。
もともと宣伝活動のための飛行船だったにもかかわらず
企業もその意見を受け入れた。

原色の絵で飛びまわる飛行船は話題になり
岡本太郎と、それから名前を消した企業の名を
世の中に広めることになった。

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石橋涼子 11年02月20日放送



あの人の詩 永瀬清子

女であり妻であり母であり、
勤め人であり土を耕す人でもあった詩人、永瀬清子。

彼女は
心の底を隠したがる人間には詩は書けない、と言い
生涯、自分と向き合い続け、学び続けた。

晩年の学びを、彼女はこう語った。

 人々のさまざまな忠告は、
 常に私自身の発見と事実とに反していることが多い。
 たとえば「安静に」「脂肪をとるな」「塩をとるな」「働くな」。
 私自身の生命はつねに私に教えてくれる。
 「悩め」「力をつくせ」「戦え」「一歩出ろ」。





あの人の詩 茨木(いばらぎ)のり子

戦争の真っただ中で、少女は疑問を抱いていた。

美しいものを楽しむことが、なぜ悪いことなのだろうか。
一億玉砕で死ぬことが、なぜ良いことなのだろうか。

もちろん、そんなことは誰にも言えなかった。
戦争が終わり、大人になって、
あの頃の疑問は正しかったということに気づいた。
同時に、人から思想を植えつけられた自分に腹が立った。

少女の名は、茨木のり子。
自分の言葉に対して潔いほどまっすぐな詩人になった。

後に発表した詩は、こんな一節で締めくくられている。

 自分の感受性くらい
 自分で守れ
 ばかものよ





あの人の詩 石垣りん

銀行員詩人と呼ばれた石垣りんは
昭和9年、満14歳で銀行に就職し
家族の生活を支えながら定年まで働いた。

幼いころに母と死に別れ、
ふたりめの母も若くして亡くなり、
18歳までに4人の母を持った。

戦争が終わり、30歳を迎えた石垣りんは、
臨終の床にある祖父と、こんな会話をした。

「私は、ひとりでもやっていけるかな?」
「やっていけるよ。」
「私のところで人間やめてもいい?」
「いいよ。人間、そんなに幸せなものじゃないから。」

こうして、彼女は生涯、
妻にも母にもならない道を選んだ。

しかし、そんな彼女の書く詩には
人間の生活への深い思いが溢れている。

銀行員詩人石垣りんの別名は、生活詩人。
その名言集にはこんなことばもある。

 齢三十とあれば
 くるしみも三十
 かなしみも三十

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薄 景子 11年02月20日放送



あの人の詩 柴田トヨ

柴田トヨさんが詩を書きはじめたのは、
90歳を超えてから。
趣味の日本舞踊が踊れなくなり、
新聞の詩の投稿欄に応募したのがはじまりだった。

その詩は、たちまち読者をひきつけ、
処女作品集はベストセラーとなる。

 98歳でも
 恋はするのよ
 夢だってみるわ
 雲にだって乗りたいわ

もうすぐ100歳になるトヨさんの中には
永遠の少女が生きている。


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熊埜御堂由香 11年02月20日放送



あの人の詩 草間彌生

長野県松本市の裕福な家庭に生まれた少女は
小さなころから、幻聴や幻覚に悩まされていた。
その異常な日常を受け入れるためだろうか。
彼女は自分に見えている世界を鉛筆や絵の具で書きとめはじめた。

アーティスト、草間彌生。

10歳の時に描いた母の肖像画には顔の上に
着物の上に無数の水玉が描かれていた。


草間は60年代後半には
ニューヨークでハプニング・アーティストとして
知られるようになった。
やがて創作の形式として、小説や詩も用いはじめる。
過激で性的な作品群は、草間自身の屈折した人生と重ね合わされ
マスコミを騒がせた。

そんな中、草間彌生は言い切った。

 私の小説はすべて私の想像から創出されたものであり、自叙伝ではない。
 ただし、詩集は別格である。


小さな頃描いた、幻覚を現実として認めるためのドローイングの
ように。幼く澄んだ言葉で紡がれた「すみれ強迫」という詩がある。

 ある日 突然 わたしの声は
 すみれの声になっているの
 心しずめて 息をつめて
 ほんとうなのね、みんな
 今日に おこったことたちは

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薄 景子 11年02月20日放送



あの人の詩 佐藤初女

悩みを抱える人が彼女のおむすびを食べると、
自然と自分を取り戻していく。

「森のイスキア」主催、佐藤初女さん。

10代で胸を患い、30代まで闘病生活。
治りたい。でも、だめかもしれない。
若き日に、祈る思いで歩いた海辺に、
87歳の初女さんが立ったとき。
色も模様もちがう貝殻を見つめてこう言った。

 神様でしょうか、これを作ったのは。

佐藤初女さん。
その言葉にも、おむすびにも、
命の詩(うた)が流れている。

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熊埜御堂由香 11年02月20日放送



あの人の詩 谷川俊太郎と佐野洋子

谷川俊太郎の詩に
画家・佐野洋子が絵をつけた詩集「女に」。
その詩集はふたりが結婚した翌年に出版された。

その中の一節、
 もう何も欲しいとは思わないのに
 まだあなたが欲しい。

詩とはパーソナルな芸術だ。
この美しい詩集はそう教えてくれる。





あの人の詩

詩人、小池昌代(こいけまさよ)の代表詩集。
ババ、バサラ、サラバ

20篇ほどの詩がおさめられているが、
最後までその言葉の意味は明かされない。


読者すべてが抱くであろう
ババ、バサラ、サラバって何?という
問いの答えだろうか。
小池はこう言う。

 現代詩を書いていると唇が寒くなる。
 濁った音はあたたかい。
 唇の破裂と爆発を、そこに生じる摩擦熱を
 寒いわたしは求めていた。



ババ、バサラ、サラバ。
口だしてみると、不思議な呪文のように
ちょっと切ない、じわっと心が熱をもつ。
そんな感覚になるのはなぜだろう。

「意味」を伝えることを超えて
詩人、小池昌代は言葉と格闘する。

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