小野麻利江 12年2月12日放送

dhistory
おやこの話 お父さんの日記

漫画家で作家の小林エリカは、
実家の本棚で、
父親が16歳の時の日記を見つけた。

戦後すぐの金沢。
なかなか勉強が進まず、
やきもきしている高校生。
友達の名前は旭(あきら)。
好きな女の子は内緒。


「父」でしかなかったその人は、
「小林司」という名を持つ、
ひとりの少年でもあった。

あなたのお父さんがどんな子どもだったか、
あなたは、知っていますか?

topへ

石橋涼子 12年2月12日放送

ゆき
おやこの話 おぐにあやこ

新聞記者おぐにあやこは
32歳のとき子どもを産んだ。

思い通りに進まない育児生活のなか、
出産によって失った「自由」と
「キャリア」のことばかり考えてしまう自分に
いらだっていた。

このままじゃいけない。
おぐには考えた。

子どもがいるから何も自由にできないと思う自分から、
自由になろう。


そして彼女はなんと、バックパックをかついで
6か月の赤ちゃんと一緒にスペインへと旅立ったのだった。

子連れだから諦めることを数えるより、
子連れだから楽しめることを探す。
それは意外と難しいけれど、
想像以上に楽しいことだ。

topへ

熊埜御堂由香 12年2月12日放送


大おやこの話 お父さんになるまで

結婚して10年。
気の合う妻と、気楽な生活を送っていた。
そんな時、子どもができて、こう思った。
もうすぐ父親になる。
すごく、怖い。


「クドカン」の愛称で人気の演出家、宮藤官九郎。
2005年に35歳で女の子の父親になった。
いまいち気持ちがついていかない中、
はじめたことがある。
自分から企画を持ち込み、
週刊誌で育児日記をはじめたのだ。

気がついたら毎日娘のおむつを替え、
お風呂に入れている自分がいた。
そして毎週コラムを書き続けた。

娘が3歳になる最終回で誓った。
これからも、怠けず、気張らず、普通の
お父さんであり続けようと思います。


その連載のタイトルは、
俺だって子供だ!
最初は、そう思っていたはずなのに。
連載の終わりには、
立派なお父さんがそこにいた。

topへ

薄景子 12年2月12日放送


おやこの話 母がくれたもの

児童文学作家、松谷みよ子。
戦後の「働くお母さん」の先駆けとなり、
小さな子どもを保育園にあずけながら
数々の絵本や童話のロングセラーを生み出した。

そんな松谷を育てた母親は、
戦前・戦中という時代に、
こう言い切ったという。

うちのことは嫁に行けばできるようになるから今はせんでよろしい
だから本を読みなさい


母がくれた豊かな時間は、
彼女の絵本とともに、新しい世代へと受け継がれている。




おやこの話 やっちゃんの詩

おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい

この詩の作者は、やっちゃんこと山田康文くん。
重い脳性マヒだったやっちゃんは、
話すことも書くこともできなかったけれど。

養護学校の先生があげる言葉と
やっちゃんが表現したいことが一致したら、目をぎゅっと閉じ、
違っていれば舌をだすという方法で詩を完成させ、
その2ヵ月後、やっちゃんは15歳でこの世を去った。

やさしさこそが 大切で

悲しさこそが美しい

そんな 人の生き方を

教えてくれた おかあさん


自分を生み育ててくれた人に、あふれる想いを伝えたい。
時に、全身に汗をためながら言葉を選び、
生涯かけて、お母さんへの感謝を詩に託したやっちゃん。

生きることは、伝えること。
そう、やっちゃんに教えられる。

私はちゃんと、伝えられているだろうか。


topへ

茂木彩海 12年2月12日放送

Jensk369
おやこの話 親子であること

ベルリン動物園のホッキョクグマ、クヌート。
母グマに育児放棄された小さな命は、
飼育員トーマス・デルフラインの献身的な愛で育てられた。

泥遊びは楽しいけれど、口に入れるとまずいこと。
水に身を任せれば、自然と泳げることを、ひとつひとつ教えた。

こらっ!
やるじゃないか。
大丈夫か。
重くなったね。
こっちにおいで。


投げかける言葉のひとつひとつは、あまりにも父親で、
誰がなんと言おうと、2人は親子だったに違いない。



5 ENGINE
おやこの話 宮部みゆきの言葉

ミステリー作家の女王、宮部みゆき。

たとえ子供向けの物語であろうとも
登場する子供を一人の人格としてとらえ、
現代をリアルに描くことを忘れない。

そんな宮部が小説の中に残した言葉。

親はなくても子は育つが、子供がいないと親は育たねぇ。

topへ

小野麻利江 12年2月12日放送


おやこの話 母と描く花の絵

1日に1時間。
絵を描くために、
ベッドの上で、体を横にする。
それ以上つづけると、平衡感覚が保てず、
体に負担がかかってしまう。

星野富弘。
口に筆をくわえて、野の花の絵を描く。

中学校の体育教師になって、2ヶ月足らず。
クラブ活動の指導中に、頸髄を損傷。
首から下の運動機能を失った。

色をつくるのは、彼の母。
彼が発する小さなニュアンスの違いを聞き逃さず、
たんねんに、絵の具をまぜる。

母子で描いた、花の絵たち。
その中の1枚「なずな」には、
こんな言葉が添えられている。

神様がたった一度だけ
この腕を動かしてくださるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう

topへ

大友美有紀 12年2月11日放送


大島育雄「自然と生きる美学」1

グリーンランドにある地球最北の村・シオラパルク。
そこに住む日本人がいる。大島育雄。

1972年、彼は極地最高峰への遠征の準備のため、
この村を訪れた。
到着した初めて夜、彼は村の歓待をうけた。
すべてイヌイットの料理だ。
胃袋が悲鳴をあげた。外に出て夜空を見上げた。

 星が冷たくきらめいていた。
 北斗七星の位置が高い。
 北極星は、ほぼ真上に近い。
 いま、これ以上北に人間は一人もいない。


大島はブルッと胴震いした。
最北の村との出会いだった。





大島育雄「自然と生きる美学」2

大島がシオラパルクを訪れた理由は、
かの冒険家・植村直己だった。

植村は犬ぞり訓練のために村に滞在していた。
大島は極地環境を体験するために植村の協力を仰いだ。
植村とともに村で暮らし、猟を体験し、
その魅力に取りつかれていった。

やがて植村直己は、村を離れ冒険と旅立ち、
さらにその先へと行ってしまった。
大島は、今なおシオラパルクで暮らしている。

 冒険に来て、また帰る。
 それは何か違うと感じた。
 すぐそこにある宝に目を向けず、
 通り過ぎていく気がしたんだよ。




ちづ
大島育雄「自然と生きる美学」3

いったん日本に帰った大島は
シオラパルクでの暮らしが忘れられなかった。
その生活は、人に命令されることもなければ、
命令することもない。

電気もなく娯楽も少ない。
けれど、それを超える狩猟の興奮がある。
また、狩猟を中心とした豊かな文化がある。
単純で豊富な生活。

 とてつもないスケールの自然のなかで猟をして、
 自分の手でとったその獲物を主食とし、衣類とする。
 生活の機構が単純で、自分の働きが
 そのまま生活に直結する。
 良くも悪くも、完全に自分が人生の主人公だ。





大島育雄「自然と生きる美学」4

大島は日本のテレビ局の取材班に同行する形で
シオラパルクに戻ってきた。
取材が終わったあとも、村に残った。
自分の好きなことを、とことんやってみようと
思ったからだ。

8月のある日、住んでいた小屋の外にラジオを持ち出し
無線連絡を聞いていた。
当時、村間の連絡は無線で行なわれていた。
「きのう、どこそこの村ではクジラがたくさん捕れた」という報告や
「誰々が病気だから、親族は行ってやったほうがいい」という個人向けの
連絡までもが放送される。

大島がのんびりラジオを聞いていると
大変な情報がとびこんできた。
「長老イニューツァッソワが、カナックの教会の牧師に
 8月某日に結婚式をしたいから
シオラパルクに来てほしいと要請している」というのだ。

そして、その結婚する2人は、大島とシオラパルク村の娘だった。

 人は驚くと仰天してしまうものだな。
 見上げる空の紺碧の中にチラチラと
 光のようなものが 踊っていたよ。
 でも、ためらいはなかった。
 このなりゆきに身をまかせることにしたんだ。





大島育雄「自然と生きる美学」5

大島とシオラパルクの娘・アンナは結婚して
1男4女をもうけた。

結婚して何年かした頃だった。
世界最北の村、しかも犬ぞりによる伝統的な狩猟で
暮らす村ということで、観光客も訪れようなった。
大島にガイドを頼んでくることもあった。
けれど大島はなるべくガイドを断りたかった。
それよりも好きな猟をしていたかった。

 私は猟が好きで猟師になった。
 金のために自分がやりたくもないことを
 やるのは、つまらない。
 金がなければ物質的な生活レベルを落とせばいいのだ。




Mike Chien
大島育雄「自然と生きる美学」6

大島が幼いこどもを連れて日本へ帰ったことがあった。
198年代時のことだ。彼の生家は東京郊外にあった。
それでも彼の目には、昔小魚をとって遊んだ用水路や川が
汚れてしまって無惨な印象だった。
ちょっとした浦島太郎の感覚だった。

 東京にいると何か世界が縮まってしまった錯覚があった。
 シオラパルクとは風景の尺度が違い過ぎるのだ。
 東京はあまりにも何もかもがひしめきあっているように見えた。





大島育雄「自然と生きる美学」7

今、大島は還暦を過ぎてなお、
グリーンランド、世界最北の村・シオラパルクに住んでいる、
長男と長女は猟師になり、一緒に村で暮らしている。

彼は「腕のいい猟師」として一目置かれる存在になった。
朝7時に起きて約2時間でウミガラスを百羽以上捕獲。
それも柄の長い網一本で、だ。
そのあとは、数日前にとったイッカクを解体、
アザラシ肉の薫製づくりなど一日中体を動かしている。

 猟は動物とのだまし合い。英語で猟をゲームと呼ぶけど、
 こんなに面白いゲームはないね。


自然の余剰分で命をつなぐ、
自給自足に近い生活を送っている。
狩猟は生態系の一部、とさえ誇っている。
そんな生活にも危機が訪れている。
海氷のとける時期と速度が早く、広くなっている。
氷が溶けてしまうと、猟はできない。

 若者には「文明」がひときわ、きらびやかな物に見える。
 自分たちの環境との、あまりの隔たり。
 しかし焦るな、と言いたい。
 とにかくここから始めるしかないのだ。
 焦らず、地に足をつけていかなければならない。


かつてシオラパルクに初めて電気入ったときの、大島の言葉だ。

topへ

三國菜恵 12年2月5日放送

寿
野球をおもしろくした男たち/高畠導宏

落合博満選手、イチロー選手、小久保裕紀選手。
プロと呼ばれる人たちは
何か特別な才能に恵まれているように見える。

けれども、
彼らをずっと育ててきたバッティングコーチ
高畠導弘(たかばたけ みちひろ)は
「才能」というものについて、ただひと言、こんなふうにあらわした。

才能とは、決してあきらめないこと。




野球をおもしろくした男たち/ある少年

異なる野球リーグの人気選手同士が
一晩限りのドリームチームを結成するオールスター戦。

このイベントは
1933年、シカゴ万博のスポーツ記念行事としてはじまった。
そのきっかけは、ある一人の少年のこんな手紙だったとされている。

カール・ハッベルが投げて、ベーブ・ルースが打つ。
そんな夢のような試合が見たいのです。

この手紙に心を動かされた
当時の担当者アーチ・ウォード氏は、実現に向けて尽力。
結果、5万人もの観客を集める大イベントになった。

少年の素直な願望は、野球の世界に
新しいたのしみをもたらしたのだった。

topへ

中村直史 12年2月5日放送


野球をおもしろくした男たち/福本豊

現役時代、名捕手として知られた野村克也は、
キャッチャーの技術を鍛えてくれた人、として
福本豊の名前を挙げる。

福本豊
通算盗塁数1065
最高シーズン盗塁数106
日本が世界に誇る盗塁王。

「福本は・・・」と野村は困ったように言う。
「走ると思えば走らないし、走らないと思えば走る」

福本豊の長所はまさにそこにあった。
つまり、次にどうくるか、「読めない」。

そして解説者になった今も、福本豊は、
持ち前の「読めなさ」で、プロ野球中継を盛り上げている。

盗塁のコツを聞かれて、
「まず塁に出なあかんなぁ」

さらには試合の解説中、アナウンサーにいまのピッチャーの心理は?と聞かれ、
「わからん」

キャッチャー泣かせだった男は、
いま、実況アナウンサーを泣かせている。




k_haruna
野球をおもしろくした男たち/赤星憲広

赤星憲広(あかほし のりひろ)
「赤い彗星」のニックネームで愛された
元・阪神タイガースのスピードスター。

得意としたのは盗塁。
あるとき「盗塁の秘訣」について質問された。

インタビュアーは赤星らしい独特の理論を期待したが、
意外な答えが返ってきた。
盗塁のコツは「勇気」。赤星は言った。

僕にとって盗塁の数は勇気の証です。

topへ

三島邦彦 12年2月5日放送


野球をおもしろくした男たち/新庄剛志

プロ野球選手にとってグローブは大事な商売道具。
一流選手はオーダーメイドの一品を、職人と一緒に作り上げる。
しかし、激しい消耗のため、ほとんどの選手は毎年グローブを変えることになる。

1990年に阪神タイガース入団。
メジャーリーグを経て、2006年に日本ハムファイターズで引退を迎えた新庄剛志は、
その17年間のプロ野球生活を通じ、たった1つのグローブを使い続けた。

それは、18歳の時、プロ入りして初めての給料で買った7500円のグローブ。
壊れても、壊れても、何度も補修を重ねて使い続けた。

グローブの形が微妙に変わるからと、自分以外の誰もそのグローブに指を通すことを許さなかった。メジャーリーグ時代、チームメイトがそのグローブに触れてケンカになったこともあったという。

引退会見の場に現れた新庄はテーブルにそのグラブを置き、こう言った。

こいつがもうプレーできないといってました。

その華麗な守備でファンを魅了した野球人生は、
まさに、グローブと生きた日々だった。




野球をおもしろくした男たち/藤田元司

実力はあるのにピンチになると動揺し、自滅してしまう。
その気の小ささから「ノミの心臓」と呼ばれるピッチャーが
かつてジャイアンツにいた。

平成元年、藤田元司(ふじたもとし)監督が就任。
春先、藤田監督はその投手にやさしく声をかけた。

  おまえは気が小さいんじゃない、優しいんだ。
だからもっと自信を持てばいいんだ。

その投手の名前は、斎藤雅樹(さいとうまさき)。
この年、連続完投勝利の日本記録を樹立し、一躍巨人のエースの座へ。
欠点を長所に変えるひと言が、平成の大投手を生んだ。




野球をおもしろくした男たち/足立光宏

1976年11月2日。
後楽園球場では巨人対阪急の日本シリーズ第7戦が行われていた。
阪急ブレーブスの先発は、足立光宏(あだちみつひろ)。
巨人ファンの声援が轟くマウンドで静かにつぶやいた。

 騒げ・・もっと騒げ。

結果は足立の完投勝利。阪急が日本一を勝ち取った。

命までは取られはしない。
その冷静さが、勝利を呼んだ。

topへ


login