大友美有紀 12年1月14日放送

Elke Wetzig
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」1

青春の詩人として知られるヘルマン・ヘッセは、
幼少時代、空想力が豊かで、聡明で、音楽好きだった。
そして動物や植物を愛していた。
その一方で、とてもわがままで反抗心が強かった。

14歳で神学校に入るが、教員と衝突して寄宿舎を脱走。そして自殺未遂。
次に入った高等学校も退学、商店員や父の仕事の手伝い、
機械工、どれも長くは続かなかった。

のちに『デミアン』で書いている。
 
 僕は、僕の内部からひとりでに出てこようとするものだけを、
 生きてみようとしたにすぎない。


 それがなぜ、あれほど難しかったのだろうか。


複雑で傷つきやすい。
夭折してもおかしくない気質だ。

けれども、彼は違った。



Ako
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」2

26歳の時『郷愁』で大きな成功を収めたヘッセは、
結婚をし、こどもにも恵まれた。
そして『車輪の下』など青春文学を世に出していく。
その平和は、第一次世界大戦によって一変。
二度の徴兵検査に落ち、兵役不適格者となる。
戦時奉仕した新聞でも寄稿した論説が非難される。
父の死、こどもの病気、妻の精神病、自身の神経障害。
ついには、座骨神経痛とリューマチを患ってしまう。

ところが治療のために訪れた湯治場・バーデンでの新しい生活が、
ヘッセにとって興味深い、新しい経験となり、発見をもたらした。
 
 彼は待つことを学ぶ。
 彼は沈黙することを学ぶ。
 彼は耳を傾けることを学ぶ。
 そしてこれらのよき賜物を
 幾つかの身体的欠陥や衰弱という犠牲を払って
 得なくてはならないにしても、
 彼はこの買い物を利益と見なすべきである。


ヘッセ46歳の秋のことだった。





ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」3

ある夏、ヘッセはスイスの森を散歩していた。
ふと感じる。
美しく輝かしかった夏が、
何日も続く、たちのわるい雷雨の後、劇的な終焉を迎える。
それは、たくましく元気に見えた50代の男が、
ある病気のあと、ある苦しみのあと、ある失望のあと、
突然、筋ばった、すべてのしわの中に風雪に耐えたあとのある顔に
なってしまうのと似ていると。

そして思う。
侵入してくる衰弱と死に抵抗し、
ささやかな生にしがみつき、
おののきながら死を迎える技術を学ぶのだと。
 
 再び冬が来る前に、私たちの行く手には、
 まだ多くのよいことが待っている。
 次の満月を楽しめる事を期待しよう。
 そして、たしかにみるみるうちに老いるけれど、
 やはり死はまだかなり遠方にあるのを知ろう。


その時、ヘッセ。49歳。





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ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」4

1924年、スイス国籍を得たヘッセは、別居中の妻と離婚。
その後スイスの女性と結婚するも、3年で離婚してしまう。
この時の苦悩を吐露した作品が『荒野の狼』である。

心身ともに危機を迎えていたこの時期、
ヘッセにはひとりの女友達がいた。
彼女の名は、ニーナ。ヘッセより30ほど年上だった。
彼が住むスイス・ティッスーンの、辺鄙な小さな村に住んでいる。
ニーナの家に向かう道は美しい。
ブドウ山と森を通って山を下り、緑の狭い谷を横切って、
谷の向こう側の、急な斜面を登っていく、
そこは、
夏はシクラメンの花でいっぱいになり、
冬はクリスマスローズに満ちあふれる。

ニーナの家は朽ち果て、台所の中をヤギやニワトリたちが歩き回っている。
魔女やおとぎ話に近い場所。
ゆがんだブリキのやかんで淹れるコーヒは、たき木の煙でほのかに苦い。
ここで2人は、世界と時代の外側に生きている。
 
 情熱は美しいものである。
 若い人には情熱がとてもよく似あう。
 年配の人々には、ユーモアが、微笑みが、
 深刻に考えないことが、
 世界をひとつの絵に変えることが、
 ものごとをまるではかない夕雲のたわむれで
 あるかのように眺めることが、
 はるかにずっとふさわしい。




unbekannt
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」5

ヘッセが53歳で出版した『知と愛』は、
それまでの彼の苦悩に和解を示すことが出来た作品だった。
そして再びの結婚を経て、ようやく彼の安定した晩年がはじまる。

ある時、妻に無理矢理カーニバル見物に連れ出される。
笑いさざめく顔、人々が笑ったり叫んだりする楽しげな様子。
ひときわ目を引いたのは、ひとつの美しい姿だった。
自分が仮装していることも、周囲の雑踏も忘れて、
カーニバルの何かに心奪われて、静かに立っている少年。
ヘッセは、カーニバルの喧噪のただ中にいる少年のあどけなさ、
美しいものに対する感受性に魅了されていた。

 成熟するにつれて人はますます若くなる。
 すべての人に当てはまるとはいえないけれど、
 私の場合は、とにかくその通りなのだ。
 私は自分の少年時代の生活感情を
 心の底にずっと持ち続けてきたし、
 私が成人になり老人になることを
 いつも一種の喜劇と感じていたからだ。




FlickrLickr
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」6

戦争も終わり、経済が発展すると、
ヘッセの住む穏やかな村にも開発の大きな波がやってくる。
住みはじめた頃の自然と平和は奪われ、
無傷ではいられないと嘆いている。

 
 老境に至ってはじめて人は
 美しいものが稀であることを知り、
 工場と大砲の間にも花が咲いたり、
 新聞と相場表の間にも、まだ詩が生きていたりすれば、
 それがどんな奇跡であるかを知るようになる。




Kiril Kapustin
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」7

75歳を間近に迎えた時期、ヘッセは少年時代の友人の訪問を受ける。
その人は『車輪の下』で描いた修道院時代の友だった。
友人の土産は、ヘッセが姉にあてた手紙。
それをきっかけに、過去の生活の記憶が鮮やかによみがえり、
語り合い、亡くなった人たちと再会を果たした気持ちを味わう。
おたがい白髪で、しわのよった瞼を持ちながら、
その奥にいる14歳の仲間を見つけだす。
教室の机に座っていた姿、目を輝かせて球技や競争をした姿、
そして精神と美に初めて出会ったときの
興奮、感動、畏敬の念の最初の暁光を見つけだした。

 私たち老人がこれをもたなければ、
 追憶の絵本を、体験したものの宝庫を持たなければ、
 私たちは何であろうか!


友人は帰郷後、知人やヘッセの妹に訪問の報告の葉書を書き、
ヘッセにも便りを送った。そして日々の仕事に戻った。
数日後、苦しむこともなくあっさり亡くなってしまった。

ヘッセはその損失を悲しみはしたが、
友人が最後の日まで誠実に仕事をし、
病床にもつかず、あっさりと穏やかに息をひきとったことを、
立派な調和ある終末として受け止めた。

 老いた人びとにとってすばらしいものは
 暖炉とブルゴーニュの赤ワインと
 そして最後におだやかな死だ
 しかし もっとあとで 今日ではなく!


ヘッセは85歳のある日、モーツァルトのピアノソナタを聴いて床につき、
そのまま翌朝、脳溢血で永遠の眠りについた。

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薄景子 12年1月8日放送


表現する男 レオ・レオーニ

芸術家、レオ・レオーニが生んだ初の絵本作品
「Little Blue and Little Yellow」

幼いブルーとイエローの玉が遊んでいるうちに、
グリーンになってしまうというシンプルなストーリーは、
彼が孫たちをあやそうとして
紙と絵具で遊んでいるうちに、偶然生まれたもの。

やがて世界中のロングセラーになった
絵本の元本にはこう記されている。

ピポとアンとその友達に捧げる

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小野麻利江 12年1月8日放送

Ako
表現する男 アル・ジョルスン

1927年に公開された、
史上初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』。

主演のアル・ジョルスンが発した冒頭のセリフは、
その後のジョルスンの舞台でも挨拶がわりに使われ、
終生、彼のトレードマークとなった。

“You Ain’t Heard Nothin’ Yet”
「お楽しみは、これからだ」


トーキー映画時代の幕開けを告げた、このひと言。
映画という「お楽しみ」は、
ここから本当にはじまったと言っても
言い過ぎではないかもしれない。






表現する男 周防正行

「困ったら伊丹さんを撮っとけ」
と思って、撮影していました。
現場にいる監督の姿は
何の抑えにでもなるだろうと思っていたからです。


映画監督の周防正行が
伊丹十三の「マルサの女」の現場に入り、
メイキング番組「マルサの女をマルサする」を監督したのは、
デビュー作を撮って、少し経ったぐらいの頃。
ドキュメンタリー性と娯楽性を見事に融合させた
この番組は、高い評価を得た。

それから、20年あまり。
周防は映画「ダンシング・チャップリン」の中で、
世界的な振付家ローラン・プティに
演出を拒否されて困惑する自分自身の姿を登場させた。

現場にいる監督の姿は
何の抑えにでもなるだろうと思っていたからです。


「抑え」とは、つまり素材のこと。
現場にあるものはすべて、自分自身さえ
映画をつくるための素材とみなすクールな眼が
美しく叙情的な「ダンシング・チャップリン」に
サスペンスな風味をもたらしている。

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茂木彩海 12年1月8日放送


表現する男 志村喬

ニューヨークタイムズで「世界一の名優」と評された男、志村喬。
黒澤映画のほぼすべてに出演し、
映画『生きる』では胃ガンを宣告される市役所員を
頬骨が浮き出るまで減量して熱演。
撮影中は自身も胃潰瘍になるほどその身を追いこんでいた。

そんな志村の言葉。

役者に完成はない。

どんな自分にも満足しないストイックな一面が
黒澤に愛された理由なのかもしれない。



theseanster93
表現する男 ライアン・ラーキン

25歳で、アカデミー賞短編アニメーション賞、ノミネート。
28歳で、メルボルン映画祭グランプリ獲得など、
瞬く間にその名を轟かせたアニメーション作家、
ライアン・ラーキン。

7年間で、たった4本の短編映画を残し、ホームレスとなった伝説の男。

彼が再びアニメをつくる勇気を取り戻したのは
映画祭のディレクターが、彼の路上生活を偶然知り、
審査員として呼び寄せたことがきっかけだった。

他の審査員たちは年老いたライアンを不審に思っていたが、
ある晩、審査員自身が作った作品を互いに鑑賞する上映会で事態は一変。
ただ人が歩くだけの、わずか5分の短編に、全員が感動のあまり言葉を失った。

その作品こそラーキンの傑作、『ウォーキング』だった。

私は永遠に生きたいんだ。
自分の身体でなくてもいい。
みんなの心のなかでいい。


彼が亡くなってもうすぐ5年。
その願いは、今でもちゃんと叶っている。



うっち~
表現する男 笹井宏之

その男は、短歌という短い詩を書いた。

寒いねと言ふとき君はあつさりと北極熊の目をしてみせる

魂がいつかかたちを成すとして あなたははっさくになりなさい

午前五時 すべてのマンホールのふたが吹き飛んでとなりと入れ替わる

清いものになりたいといういっしんでピアニカを吹き野菜を食べる


歌人、笹井宏之。26歳の若さで突然この世を去った。

ありがとう。
ことばで世界がつくれることを、あなたは教えてくれました。

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小野麻利江 12年1月8日放送


表現する男 円谷英二

映画の公開前に、
フィクションが現実になることもざらだった、
昭和30年代。

映画監督・円谷英二はそんな中で、
新しい特撮アイデアを考え続けた。

「できますか?」と聞かれたら、
とりあえず「できます」と答えちゃうんだよ。
その後で頭が痛くなるくらい考え抜けば
たいていのことは出来てしまうものなんだ。





表現する男 井上陽水


「『今日は・・・いい・・・・お天気・・・でしたね・・』
それを言うだけで、2分くらいかかってる」
落語家の立川志の輔は、
シンガーソングライター・井上陽水の
ライブでのおしゃべりを評して、こう言った。

井上陽水は、会話の中で沈黙が生まれることを、
まったく恐れていないのだという。
彼は言う。

僕は意識的にというか無意識にというか、
喋らない時間というのを
ときどき持ちたいなと思うんです。
全部言葉で埋めたくない。


「傘がない」「氷の世界」「少年時代」。
独特の感覚で歌詞を紡いでいくことにかけては
日本でおそらく右に出るもののいない、井上陽水。
彼は、言葉を発さない瞬間が、
言葉を浮かび上がらせることを、知っている。

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蛭田瑞穂 12年1月7日放送


引き際の美学①江夏豊

 おれはキラキラ光る外角線が見えなくなったら現役引退するよ。

プロ野球史上屈指の左腕、江夏豊は現役時代、記者にそう語った。

左投手でありながら、江夏が得意としていたのは右打者だった。
その秘密が江夏の言う「キラキラ光る外角線」である。

不思議なことに江夏には右打者が打席に立った時にだけ、
外角のストライクゾーン際に光輝く線が見えたという。

その線を頼りに江夏はボールを投げ、
長嶋茂雄など並み居る強打者を手玉に取った。

江夏豊が現役を退いたのはプロ入り18年目の1984年。
成績は1勝2敗8セーブ。

その時の江夏の目にはもう、キラキラと光る外角線は見えなかった。





Ako
引き際の美学②山本浩二

ミスター赤ヘル、山本浩二。
現役最後の年、彼は126試合に出場。
27本のホームランを打ち、チームをリーグ優勝に導いた。

燃え尽きて灰になるか、花のあるうちに潔く散るか。
男の引き際についてはふたつの見解があるが、
山本浩二は間違いなく後者だった。

その年の日本シリーズ、
第8戦までもつれこんだ戦いは西武ライオンズが制し、
広島カープは惜しくも日本一を逃した。

すると、試合後に広島ナインが山本浩二を取り巻き、胴上げを始めた。
その体は8度宙に舞い、山本浩二は男泣きに泣いた。

それは日本シリーズ史上初めておこなわれた、
負けたチームによる胴上げだった。


引き際の美学③平松政次

「巨人キラー」と呼ばれた男、平松政次。
平松のプロ野球人生は「打倒巨人」の言葉とともにあった。

通算201勝のうち、巨人から挙げた勝ち星は51。
歴代の投手の中でその比率はずば抜けている。

その平松が引退を決意したのはプロ18年目の1984年。
巨人戦に先発した彼は7回まで1失点に抑えながら敗戦投手になった。

それまでの平松であればグラブを叩きつけて悔しがるはずだった。
しかし、その時は不思議と無念さがこみ上げてこない。

巨人に負けて冷静でいられる自分を見て、
平松は自らの引き際を決意したという。


引き際の美学④大杉勝男

東映フライヤーズとヤクルトスワローズで活躍し、
多くのファンから愛された大杉勝男。

プロ入り4年目のある試合、
1本もヒットの出ていなかった大杉を見て監督はこうアドバイスした。
「レフトスタンドに月が見えるでしょう。あの月に向かって打ちなさい」。
その言葉で打撃に開眼した大杉はその後2度のホームラン王を獲得した。

大杉が現役を退いたのは1983年、
両リーグ200本塁打という前人未到の記録まで
わずか1本というところでの引退だった。

引退試合で大杉はファンに言った。

 最後にわがままなお願いですが、
 あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、
 この1本をファンの皆さまの夢の中で打たせていただければ、
 これに優る喜びはございません。


theseanster93
引き際の美学⑤村田兆治

「人生先発完投」を座右の銘に掲げた村田兆治。

プロ入り14年目に初の最多勝を獲得した村田は、
その翌年、肘の故障に見舞われた。

再起不能もささやかれる中、
当時タブーとされていた肘の腱の移植手術をおこない、
村田兆治は再びマウンドに戻ってきた。
その3年後には17勝を挙げ、カムバック賞を受賞した。

村田兆治が引退したのはプロ22年目の1990年。
史上ふたり目となる、40代での10勝という記録を
彼は自らの花道とした。

先発完投を貫いた男の見事な引き際だった。

うっち~
引き際の美学⑥王貞治

「世界のホームラン王」王貞治が引退したのは
プロ入り22年目の1980年。

その年に王は129試合に出場し、30本のホームランを打っている。
とても引退する選手の成績とは思えない。

しかし、868本のホームランを打った王にしてみると、
それはもう自分の姿ではなかった。

 王貞治としてのバッティングができなくなった。

王は最後にそう言って、静かにバットを置いた。


引き際の美学⑦長嶋茂雄

現役時代の長嶋茂雄は打席に立つと、
あえて相手投手の決め球を狙いにいった。

決め球を打つことで相手投手の自信を打ち砕く。
長嶋はそう説明した。
しかし本音はそれだけではなかった。

 決め球を打つと体がゾクゾクと震えるんです。
 それが快感なんですね。


その長嶋にもやがて引退を決意する時がくる。
1974年5月22日のことだった。

相手投手は江夏豊。互いに相手の腹は読んでいる。
長嶋は江夏のカーブを待ち、江夏は長嶋の待つカーブを投げた。
バットは空を切り、長嶋は三振に倒れた。

自らの限界を悟った長嶋はそれから5カ月後、
「巨人軍は永久に不滅です」という言葉を残し、
ユニフォームを脱いだ。

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佐藤延夫 12年1月1日放送

Ilikethenight
それぞれの昨日、今日、明日/桑田佳祐

      M〜「明日へのマーチ」

「今日は、“みんなで元気になろうぜ!!”の会です」

9月に宮城で行われた復興ライヴで、桑田佳祐は言った。

自らも食道がんを克服し、
それを「キャンサー・オブ・ダイニングキッチン」と
笑いに変えてしまう男。

昨日の大晦日、
彼は、4年ぶりに年越しライヴのステージに立った。

そのタイトルは、「年忘れ!!みんなで元気になろうぜ!!の会」。

ありがとう。あなたの歌声は、日本中を元気づけてくれる。





tienxia
それぞれの昨日、今日、明日/矢沢永吉

2012年、今年も、またひとつ歳をとる。

そう思った人には、カリスマの言葉が心に効く。

「年とるってのは、細胞が老けることであって
 魂が老けることじゃない」

そう語る矢沢永吉は、
今年、デビュー40周年を迎える。

「ドアの向こうに夢があるなら、
 ドアがあくまで叩き続けるんだ」

こんな62歳になってみたい。



BenjaminThompson
それぞれの昨日、今日、明日/毛皮のマリーズ

     M〜「ビューティフル」

ロックバンド、毛皮のマリーズ。
「ビューティフル」という曲の中に、印象的な言葉がある。

「最後は必ず、正義が勝つ」

思えば2011年は、
物事の本質とか、生きる意味を、
あらためて考えてしまう年だった。

なにが正義で、なにが悪なのか。
その答えは、どこにあるのか。

そして毛皮のマリーズは、
昨日、12月31日に解散した。

ボーカルの志磨遼平は、
12月に行われた武道館のライブで、こう叫んだ。

「さらば青春、こんにちは僕らの未来」

正義とは、ビューティフルに生きること。
それが彼らの美学だったのかもしれない。



heliography
それぞれの昨日、今日、明日/デーモン小暮

1999年の12月31日。
予言通りに解散したバンドがある。

聖飢魔II。

紀元前98038年生まれ。
自らを閣下と名乗るデーモン小暮は、
10万20歳のときバンドを結成し、
10万39歳でバンドを解散した。

「ビジョンある暴走をせよ」

閣下は、そう語る。
小さな枠組みから飛び出すには、
何かを変えないと生き残れない。

今年は、そんな1年を目指してみますか。




それぞれの昨日、今日、明日/今井正人選手、柏原竜二選手

箱根駅伝で、最初に「山の神」と言われた、
順天堂大学の今井正人選手。
2005年のレースでは、
難所と呼ばれる5区で、11人抜きの区間新記録を叩き出した。

そして、「新・山の神」という異名を持つのは、
東洋大学の柏原竜二選手。
2009年、今井選手の記録を破る走りで、
アナウンサーに「山の神を越える、山の神童」と呼ばせた。

今井選手と、柏原選手。
このふたりの神が、
どちらも福島県の浜通り出身なのは、
単なる偶然ではない。
そんな気がしてならない。

今年も、勇気をください。



PRS。
それぞれの昨日、今日、明日/阿宗(あそう)高弘選手

4年前の箱根駅伝で、
珍しい記録が生まれた。

4区、平塚中継所。
最下位でタスキを受けた国士舘大学の阿宗高弘選手は、
そのまま走り続けて、最下位のまま、区間賞になった。
前には誰も見えない。
後ろにも、誰もいない。
そんな状態で記録を塗り替えた。

「どんな位置で受け取っても、
 自分の走りをしようと心掛けた」

そう語る彼が、孤独のレースで得たものは、
計り知れないほど、大きい。



crowbot
それぞれの昨日、今日、明日/鈴木隆行選手


今日、決勝の試合があった、サッカー天皇杯。

11月に行われた3回戦で、
あるチームが、大金星をあげている。

延長戦で、3対2。

J2の水戸ホーリーホックが、
天皇杯優勝の常連、ガンバ大阪を下した。

同点ゴールを叩き込んだのは、
元日本代表、鈴木隆行選手。

被災地、茨城のために
給料ゼロのアマチュア契約で臨む35歳は、
エネルギーに溢れている。

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古居利康 11年12月31日放送


一休さんの話 一

一休は、六歳のとき、
禅宗の名刹、安国寺に入った。

寺の書庫を常の住処とし、仏典に没頭。
座禅に励む日々を重ねた一休の眼に、
だんだん現実が見えてくる。

僧侶どうしの言い争い。
「自分は源氏の出である」
「わたしは公家の血筋である」

少年一休は、一編の漢詩をつくり、
これを批判する。

「法を説き 禅を説いて 姓名を挙ぐ
 人を辱しむるの一句」

仏門に帰依した身で、現世の出自を
自慢しあう。恥ずかしいの一言だ。

一休の失望は日増しに深くなっていく。





murata
一休さんの話 二

一休は、十七歳のとき、
謙翁 (けんおう) という僧に出会う。

西金寺 (さいこんじ) という
苔むした貧乏寺にあって、
政治にすり寄らず、権威におもねず、
純粋禅として孤高の道をゆくその姿に、
一休は心打たれる。

この方こそが、
自分の求める禅の師匠だ。

一休は、雨露をしのぐていどの
粗末な寺に住み、
謙翁とともに街を歩く。
托鉢だけで暮らしたため、
日々の食事にも事欠く始末。

清貧のなかで、
謙翁の指導は峻烈を極めた。
一休は、禅の真髄に近づいていく。




一休さんの話 三

一休は、父を知らない子どもだった。
母とも、六歳のときに別れたきりだ。

母は、伊予の局という名の
やんごとない姫だった。
藤原一門の公家、日野家に生まれ、
御所にあがっていた。

父は、その伊予の局に手をつけた
後小松天皇そのひとではないか。
という、まことしやかな御落胤説がある。

長くつづいた南北朝の争いは、
後小松帝在位のとき、統一を見た。
以後、南北、交互に帝位を継いでいく、
という約定が交わされた。

一休が生まれた1394年は、
そんなナーバスな出来事の渦中にあった。
幼い一休が寺に出された背景にも、
どこか、きな臭い空気が漂っていた。




一休さんの話 四

あるとき、将軍・足利義満が
一休を試すべく、無理難題をもちかける。
「屏風の絵の虎が毎晩抜け出して
 往生している。虎を縛ってくれないか」

一休は縄を持って屏風の前に立って言う。
「では虎を捕らえましょう。どなたか、
 屏風から虎を追い出してもらえませんか」

少年一休の利発さを伝える、この種の挿話は、
江戸時代になって『一休噺』として集められ、
「とんちの一休さん」が一人歩きしていく。

だが、室町の乱世にあった現実の一休は、
幕府の庇護をかさに権威を振りかざす
禅宗に対する批判者として生きた。

ボロボロの法衣をまとい、なぜか、
腰に朱塗りの木刀をぶら下げていた。
生の魚も食らう。飲み屋にも花街にも通う。
法事の場でお経を唱える代わりに、
おならをして顰蹙を買ったりもした。

表では澄ました顔で仏法を説く坊主が、
裏では生臭い振る舞いに及んでいる。
一休はその放蕩無頼によって、
身をもって僧侶の腐敗を天下にさらした。
そんな意図を察した名もなき庶民は、
一休を生き仏と崇めるようになる。




一休さんの話 五

一休は、七十七歳のとき、恋に落ちる。
森(しん)、という名の、盲目の美女だった。
ふたりは小さな庵で同居を始める。

一休が遺した『狂雲集』という漢詩集に、
森との交情が謳い込まれている。

「森也 (しんなり) 深恩 (ふかきおん) 若 (も) し忘却せば 
 無量億却 畜生の身」

森の深い愛情を忘れたら、未来永劫に
畜生道に堕ちるでしょう、と。



crowbot
一休さんの話 六

一休は、ある年の正月、杖の先に
髑髏をぶらさげ、「ご用心、ご用心」と
唱えながら街を練り歩いた。

こんな歌を遺している。

「門松は冥土の旅の一里塚
 めでたくもあり めでたくもなし」

元旦生まれのせいでもあるまいが、
めでたいめでたい、とひとが笑う日に、
一休は、人生の無常をつねに思っていた。

1481年、一休、死す。享年八十八。
臨終に際してこう呟いたと伝わる。

「死にとうない」

生涯、飾らず、奢らず、悟らず、
ありのままを生きた一休らしい、
未練の呟き。



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厚焼玉子 11年12月25日放送


クリスマスプレゼント① 三人の博士

世界初のクリスマスプレゼントは
乳香、没薬、黄金。
星に導かれてやってきた三人の博士が
幼子イエスに捧げたものとされる。
それは誕生のお祝いでもあった。

三人の博士はどこから来たのかも定かではない。
もしかしたら遠い昔の伝説かもしれない。
しかしそれがきっかけで
クリスマスには贈り物を交換たり
貧しい人々に施しをする習慣が生まれた。

メリークリスマス
贈り物の数だけ
あなたのことを思う人がいる。




クリスマスプレゼント② デニス・ホープ

クリスマスプレゼントに月の土地はいかがですか、と
ロマンチックな提案をするのは
地球圏外不動産会社ルナエンバシーのCEOデニス・ホープ。

  不動産業とはいうものの
  扱うのが地球の土地ではないために
  いわばロマンを売るサービス業と言う方が正しいかもしれない。
   
デニス・ホープが売る月の土地は
1単位が1エーカー、サッカーグラウンドひとつ分で
権利書とカードのギフトセットで3700円。
すでにアメリカの元大統領やハリウッドスター、
NASAの職員もふくめて
いまや世界で130万人以上が月のオーナーになっている。

ロマンチックなアイデアをありがとう。
クリスマスは世界中がいい夢を見るように。





クリスマスプレゼント③ ジョンとヨーコ

1971年の12月に発表された
ジョン・レノンと小野ヨーコの
「Happy Christmas (War is Over)」は
「ハッピークリスマス」という
ジョンとヨーコのコトバからはじまる。

そのコトバを
「ハッピークリスマス、ジョン」
「ハッピークリスマス、ヨーコ」と思っている人は多いし
そう書いてある歌詞カードもあるのだが
実はヨーコではなく娘のキョーコであり
ジョンではなく息子のジュリアンだそうだ。

子供たちへのプレゼントだった
ジョンとヨーコの「Happy Christmas」は
1998年の12月、
世界へのクリスマスプレゼントとして
タイムズスクエアのビルボードに
こんなメッセージと共に掲示された。

  ”We can do it”というメッセージは今も有効です。
  もし10億の人々が平和を望むなら手に入れることができるのです。

素敵なメッセージをありがとう、
クリスマスは世界が平和であるように。



janwillemsen
クリスマスプレゼント④ 近商物産の初代社長

戦後の日本の子供たちは
クリスマスになるととりどりのお菓子が詰まった
サンタのブーツをもらった。

このサンタのブーツを考えたのが
滋賀でお菓子の容器を製造する近商物産の初代社長だ。

昭和22年、戦後の食糧難も緩和され
配給制の砂糖でお菓子の製造がはじまっていた。
宝くじの景品がキャラメルだった。
そんな時代の子供たちのために
お菓子を詰めたサンタのブーツを考えたのだ。

今年も200万本のサンタのブーツが
日本の子供たちに届いている。

メリークリスマス
クリスマスはすべての子供たちに笑顔を。






クリスマスプレゼント⑥ ルーズベルトとテディベア

合衆国26代大統領セオドア・ルーズベルトは
狩りが好きだったが
それは彼にとってはスポーツだった。
だから1902年の11月、
狩りに出かけた大統領は瀕死の熊を撃たなかった。
スポーツマンシップに反すると思ったからだ。
その数日後、ワシントンポストは
熊を撃たない大統領の漫画を掲載した。

翌年、ルーズベルト大統領のニックネームにちなんで
テディと名付けられたクマのぬいぐるみが
バーモント州のおもちゃメーカーから発売された。

同じ年、ドイツのシュタイフ社がつくったクマのぬいぐるみ
「55PBモデル」が大統領の晩餐会のディスプレイに使われ
こちらもテディベアと呼ばれて大ブームになった。

テディベアはいま
トップメーカーのシュタイフをはじめ世界中でつくられている。
毎年クリスマスになると
クリスマス限定のテディ・ベアが発表されるし
お母さんやおばあちゃんが作った
世界でひとつだけのテディベアをもらう子供もいる。

メリークリスマス
オトナも子供も大好きなテディベアは
大統領が撃たなかった熊からの贈り物だ。



UltimateGraphics
クリスマスプレゼント⑦ リチャード・バートンのプレゼント
 きみのためにこの世で最高のルビーを見つけてあげる

リチャード・バートンは
結婚したばかりの妻エリザベス・テイラーに約束した。

約束は4年めに果たされた。
1968年のクリスマス、バートンは
完璧な美しさを持つ8.25カラットのルビーと
それを取り巻くダイヤモンドの指輪を
エリザベスのプレゼント用靴下に入れた。

これを見たら何というだろう。
どんな顔をするだろう。

メリークリスマス
プレゼントは贈る人もわくわくと楽しい。


crowbot
クリスマスプレゼント⑧ 執事ジーヴス

少し間の抜けた若殿にお仕えする
完全無欠な執事ジーヴス。

イギリスのユーモア作家
ペルハム・グレンヴィル・ウッドハウスの小説に出てくる主人公だ。

執事ジーヴスの日本語版の本の帯にはこんな言葉がある。
「ご主人さま、どんなトラブルも私が見事解決してさしあげます。
 で、この品のない靴下は処分してもよろしいですね」

ところで、明日12月26日はボクシングデー
召使いはお休みをもらい、ご主人からのプレゼントを開ける日だ。

ジーヴスはどんなクリスマスプレゼントを
もらっていたのだろう。
完全無欠な召使いを持つのも気苦労が多い気がする。

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小宮由美子 11年12月24日放送

sofafort
クリスマス・イヴの出来事  FM放送のはじまり

1957年、
世界初の人工衛星スプートニック1号の打ち上げに湧いた年。

東京の鉄塔から、まあたらしい電波が発信された。

JOAK-FMX

アンテナはテレビと共用。
放送時間は2時間。
音楽と人の声に希望を託したFM放送の幕開けは、
12月24日午後7時。
クリスマス・イヴのことだった。



Bundesarchiv
クリスマス・イヴの出来事  きよしこの夜

1942年の12月24日。
第二次世界大戦の戦地・スターリングラードで
窮地に立たされていたドイツ軍の陣地に『きよしこの夜』が響いていた。
ラジオから流れるその美しい旋律は、
命を賭して戦う兵士たちにとって束の間の休息となり、
ドイツ軍を包囲していたソ連軍の兵士たちも、
この日、攻撃を仕掛けることはなかった。

同じく戦地・ドレスデンでは、クリスマス当日は休戦となり、
ドイツ軍とイギリス軍の兵士が、エルベ川を挟んだまま
ともに『きよしこの夜』を歌ったという逸話が残る。

2011年12月24日。
今夜、世界中に響き渡る『きよしこの夜』は
だれの心を癒しているだろう。



ceronne
クリスマス・イヴの出来事  ラ・ボエーム

舞台はパリのカルチエ・ラタン。
貧しい屋根裏部屋で暮らす詩人・ロドルフォとボヘミアンの仲間たちは、
未払いの家賃の催促にやってきた家主を体よく追い出し、気勢を上げる。
カフェへ繰り出そう。今夜はクリスマス・イヴなのだから
そこへ、カンテラに灯す火を借りにあらわれたお針子のミミ。
美しい彼女を見初めて、ロドルフォは語りかける。

私は詩人
何をしているかって? 書いているんです
どう生活しているのかって? 生きているんです
楽しい貧乏の中で 愛と詩と歌を
王のように惜しみなく費やします(後略)

プッチーニの歌劇『ラ・ボエーム』の恋人たちは、イヴに出会った。
だから、運命の相手を探す人よ、
心を眠らせてしまっては、つまらない。
今夜は、奇跡が起きてもおかしくはない特別な夜なのだから。



janwillemsen
クリスマス・イヴの出来事  森鴎外

飾りつけをしたツリーの蝋燭に火を灯し、
大きなテーブルにプレゼントを並べる。
子どもが詩を暗唱し、
その後、家族そろってプレゼントの交換をする。


1888年12月24日。
ベルリンに留学中だった森鴎外は、ライプチヒに暮らすフォーゲル一家の
クリスマスの晩餐に招かれ、その時の様子を
『獨逸(ドイツ)日記』の中に詳しく書き残した。

19世紀のヨーロッパの、市民の典型的なクリスマスを体験した鴎外。
今よりもずっと遠い場所だった異国の地で、温かい家族の夕べに混ざりながら
鴎外の胸をよぎったのはどんな想いだったのだろう。

晩餐の響あり。

鴎外の、その日の日記を締めくくる言葉だ。






クリスマス・イヴの出来事  父親たちの仕事

南ドイツやオーストリアでは、子どもたちにクリスマスプレゼントを
届けるのは<幼児キリスト>を意味するクリストキント。
クリストキントは、人に見られないように細心の注意を払っているため、
姿は見えない。そのかわり、おともの天使が手にベルを持っているので
クリストキントの一行が来ると、微かにベルの音がするという。

だから、クリスマス・イヴの父親たち仕事は
こんなふうに子どもに語りかけること。
おや、玄関にこんな髪の毛が落ちていたけれど、
 これは、天使の髪の毛じゃないのかな

すると、子どもたちはクリストキントが来たことを察して
ツリーの飾ってある部屋に駆け込み、プレゼントを見つける。

大人になった子どもたちは「昔は、父親が玄関から拾ってきた金髪を
本当に天使の髪の毛だと思っていた」と懐かしそうに語る。

金髪の知り合いがいない父親のために、最近では
「天使の髪の毛」というグラスファイバーの毛も売られている。



Reckon
クリスマス・イヴの出来事  三船敏郎

俳優・三船敏郎が、アメリカのホテルに滞在した時のこと。
ある朝、同行していたひとりの脚本家が三船の部屋に入ると
テーブルにはずらりと並んだウイスキーの空き瓶、散乱する煙草の吸い殻。
三船と映画製作者たちの酒宴が真夜中過ぎまで続いたらしい痕跡に
目をやりながら、隣の部屋を覗いた脚本家は、ギョッと足を止めた。

三船敏郎が流しに立ち、グラスを洗っていた。
脚本家に気づくと、睡眠不足の血走った目で照れ臭そうに見返して、
だが、手は一瞬も休むことなく、山のようなグラスを洗い続けた。

放っておけば、後始末はホテルの従業員がやってくれる。
だが、三船にはそれができない。
目に触れる汚いもの、不潔なものを彼は見過ごすことができない。

一本気で、豪放磊落(ごうほうらいらく)。数々の武勇伝を残す一方で
見せる、極端なまでの潔癖さと、生真面目さ。
胸のうちに常軌を逸した振り幅を持つのが三船であり、その繊細なバランスの上に、俳優・三船の放つ力強い輝きがあるのだと脚本家は悟った。

世界の映画史に輝き続ける俳優・三船敏郎は、
1997年12月24日にこの世を去った。




クリスマス・イヴの出来事   星新一のショートショート

クリスマス・イヴの夜遅く。
家の主は、物音で目を覚ました。そっと起き上がり
懐中電灯と猟銃を手に、暗闇に動く人影に言った。「おまえはだれだ」
サンタクロースです
赤服に赤頭巾、白ひげに長靴を履いた初老の男を、主は警察へ突き出した。

警官は言った。「名前と住所を答えろ」
サンタクロースです
真面目な顔で答えた男を、警官は病院へ送り込んだ。

精神科の医者はたずねた。「ところで、あなたはいつ頃から、
自分がサンタクロースだと思うようになったんですか」
もの心がついた時からですよ
そう答えた男に医者は言った。「これは重症のようだ」
手荒い治療をしようとした医者の目を盗み、サンタクロースは逃げ出した。
さあ、早いところ帰ろう。こんな世の中になっては、
どうしようもない。プレゼントなど、くばる気になんかなるものか


これは、小説『クリスマスイブの出来事』のあらすじ。
ショートショートの神様と呼ばれた作家・星新一によるれっきとした
フィクションなのだが、現実の世界に起こっても不思議ではないような話。
今夜、本物のサンタクロースがこんな目に合っていないといいのだが。

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