中村組・三島邦彦 参戦

三島邦彦くんは五島の出身です。
中村直史組長のもと、五島のイメージアップに
邁進していただきたいです(玉子)
(あ、原稿もね)
下の写真はいつの頃か知らねど三島くんの写真です。

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古田組・坂本仁 参戦

上の写真は2005年カンヌヤングクリエイティブコンペティション
応募作品です。

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中村直史 10年05月23日放送



えらい人はいいこと言う/アンリ・ド・レニエ

人生のすべてにおいて、
ものを言うのは経験だ。

そう思っていたら、
遠くフランスから反対意見が聞こえてきた。

「燃え上る青春」を書いた
フランスの小説家、アンリ・ド・レニエは言う。


 恋には経験というものはない。
 なぜならその時にはもう恋していないのだから。

恋に落ちるたび初心者に戻ってしまうなんて
困ったものだ。



えらい人はいいこと言う/タヒチ人

座右の銘は何ですか?
と聞かれて
即座に答えられる人を尊敬してしまう。
それが立派な言葉だとなおさら。

でも
座右の銘が
とっても力が抜けてる
という人のほうが
友だちになれそう、とも思う。

たとえば私の友人の
座右の銘は、


 アイタ・ペアペア

タヒチ人がよく言う、
「気楽にやろうよ」。
という意味の言葉らしい。

毎日いろいろありますね。
でもまあ、アイタ・ペアペアってことで。



えらい人はいいこと言う/亀倉雄策

パソコンから目線をそらし
ふとまわりを見渡してみる。

壁、柱、CD、本、文具。

視界のすべては人工物で
人工物とはつまりすべてデザインされたものだ
と気づく。

目に映るものすべてのデザインが、
人を幸せにするほどステキならば
今日という一日も
ずいぶん変わるんじゃないか。

東京オリンピックの
ポスターをつくったことで知られる
デザイナー、亀倉雄策。

彼はそんなデザインに関する考えを
追求した人だった。


 デザインとは明るい生活の歌でなくてはならない。

同感です。
だって、人生は、
明るい生活の歌に満ちていたほうがいい。



えらい人はいいこと言う/マザー・テレサ

マザー・テレサ。

・・・いま、その名前を聞いて
どんな姿を思い浮かべましたか?

貧しい人々に手を
差し伸べている姿
ではありませんでしたか?

でも、マザー・テレサが
その人々を貧しいと思っていたかどうかは疑問。
彼女にとって貧困とは別のことだった。


 ほほえみ ふれあいを
忘れた人がいます。
 これはとても大きな貧困です。



えらい人はいいこと言う/小津安二郎

電車に乗って中づりを眺めるだけで
情報がどっと流れ込んでくる。

お金を儲けろ
生き方を変えろ
キレイになれ
そのままの自分でいろ
これを飲め
これを買え

通勤先の駅につくころには
情報が多すぎて
何をどうすべきか
よくわからなくなっている。

そんなときは、
小津安二郎の映画を思い出してみる。
落ち着きたいときには
彼の映画を思い出すようにしているのだ。

小津さんは言った。


 どうでもよいことは流行に従い、
 重大なことは道徳に従い、
 芸術のことは自分に従う

流されたってかまわないのだ。
大事なことで流されなければそれでよい。



えらい人はいいこと言う/曙太郎

彼がマットに沈む姿を何度見たことか。
どうせ、負けるだろう。
やめとけばいいのに。
と思う。

でも彼が、自身のことをそんな風に
見ていたことはないらしい。

曙太郎。
関取時代のことを振り返り、こう言った。


 全勝優勝は一度もなかった。
 いつも、序盤戦で土を付けられた。
 それでも、そこからガタガタ崩れることなく、
 気持ちを入れ直して優勝をつかんできた。
 それが、私の誇りだ。

これから彼を応援するときは、
きっと自分を応援するような気持ちで応援すると思う。

がんばれ、曙。



えらい人はいいこと言う/アインシュタイン

いやなニュースを聞いた。
いやなニュースを何種類も聞いた。
そんな日は人間が嫌いになりそうになる。

「でも」とアインシュタインは言う。


 人間性について絶望してはいけません。
 なぜなら、私たちは人間なのですから。

アインシュタインは
人生の定理も
見つけたのかもしれない。


えらい人はいいこと言う/モニカ・ボールドウィン

まいにちのことが
ちょっと憂鬱になる、
そんなとき
言葉に出会い、
何かがパッと変わることがある。

だれかが、
私の状況を見越して
わざわざ言葉を用意していたかのように。

たとえば、こんな言葉。


 朝目覚めるときが二十四時間のうち最も素晴らしい、
 といつも思います。
 どんなに疲れ切って、やるせなくても、
 きっと何かが起こるに違いないと思えるからです。
 絶対といってもいいくらい何も起こらないんですが、
 それでも、ちっとも構いません。
 絶対に起こらないとは言えませんから。

イギリスの作家
モニカ・ボールドウィンが残した言葉です。

それでは、おやすみなさい。
そして、よい目覚めを。

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宮田知明 10年05月22日放送


アーサー・コナン・ドイル

シャーロックホームズの産みの親、
アーサー・コナン・ドイル。

彼は推理小説を書く傍ら、
ロンドンで眼科専門医として診療所を開いていた。

その難しいかけもちを可能にできたワケ。
それはコナンドイル自身ではなく、
ホームズが語っていた。

 ワトソン君。君はただ眼で見るだけで、
 観察ということをしない。
 見るのと観察するのでは大違いなんだぜ。

なるほど、探偵と医者には、そんな共通点が。
彼は、現実社会においても、その観察眼を駆使して、
二人の被疑者の冤罪を晴らすことに貢献した。

今日は、ホームズの父、コナンドイルの誕生日です。


小峰元

小峰元「アルキメデスは手を汚さない」
青春推理小説という、ミステリーの新しいジャンルは、
この本から始まったと言っても過言ではない。

ただの謎解きではない、青春推理小説。
若いっていいな、そんな言葉では表せない、
青春という時代のもつ魅力は、
登場人物のこんな言葉に集約されている。

 いいかい?いまの日本で、知能指数が一番高いのは、
 われわれ高校二年生なんだぜ。
 ノーベル物理学賞の受賞者だって、万葉集を読ませれば
 君たちほどの学力があるかどうか怪しいものさ。

高校生のみなさん、人生でいちばん知能指数の高い今を、
大事に使っていますか?


宮部みゆき

ミステリー作家、宮部みゆきは、
もともとは速記者だった。

対談や講演などの発言内容を、
早く正確に記号で筆者して、
元のきちんとした言葉にする仕事。

彼女はそこで文章を伝わるように書く、
ということを覚えた。
そして好きなミステリーを読んでるうちに、
ちょっと書いてみたくなった、
というのがきっかけ。

どんな仕事も、何か別の
すごい仕事の入り口になっていることがある。
そう、きっと、あなたの仕事も。


東野圭吾

東野圭吾の「新参者」
そのストーリーは、
そのまま彼の歩いた道でもある。

人形町を舞台にすることは決めていた。
ただ、何を書くかは決めていなかった。

その日、人形町は暑かった。
喫茶店で、街を行き交うサラリーマンを眺めながら、
第一話、煎餅屋の娘の話が作られていった。

 ひとりの人間を描こうとすると
 そばにいる人々の姿も描かざるを得なくなった。
 そうしてドラマが繋がっていった。

東野圭吾がこの小説について語っていることを要約すると
シャーロック・ホームズの言葉に限りなく近づく。

 ワトソン君、ただ見ることと観察することは大違いだぜ


湊かなえ

才能。
英語に訳すと、GIFT。
つまり「天からの贈り物」

2009年の本屋大賞をデビュー作「告白」で受賞し、
その才能でミステリー界に彗星のように現れた、湊かなえ。

でも彼女に言わせると・・・

 才能とは、天からの贈り物ではなく、
 期間限定で貸し出されるものだ。

はた目にすごい才能を持ってる人ほど、
陰で努力をしてるのは、言うまでもないこと。
彼女も天からの贈り物を返却する前に、
とことん使い尽くすだろう。


西村京太郎

「それだけは勘弁してください。」

国家公務員として11年働き、
上司から係長にしてやると言われたときの
西村京太郎の言葉。

権威的な官僚生活に嫌気がさし、
そこから数年間は、私立探偵やトラックの運転手、
警備員などの仕事をしながら小説家を目指した。

トラベルミステリーの第一人者、西村京太郎は言う。

 「人間、なんとかなるサって開き直ることがないとね」


名探偵コナン

体は子ども、頭脳は大人。
コナン・ドイルとエドガー・アラン・ポーの名前から生まれた
漫画の主人公、名探偵コナン。
彼は平成のシャーロック・ホームズをめざして
日々、事件と取り組んでいる。

名探偵コナンシリーズの魅力のひとつは
セリフらしい。
名言集をコレクションしている人までいる。
そのいくつかを抜き出してみよう。

 人が人を助けるのに論理的思考は存在しねえだろ。

 真実はいつもたったひとつしかねーんだからな

 逃げるなよ、自分の運命から

 Fear of death is worse than death itself

 世の中には謎のままにしておいた方がいいこともある。

そして、漫画の第一巻ではこんなことを宣言している。
 なりたいんだ! 平成のシャーロック・ホームズにな!

がんばれ、コナン。

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薄景子 10年05月16日放送



走る人 小出義男監督

走ることが、好きで好きでたまらなかった。
高校卒業後、農業の道を歩んだものの、
マラソンへの思いは断ちきれず。
苦学の末、走りつづけるために大学に入った。

小出義男。
その名は、陸上選手としてよりも
高橋尚子や有森裕子をメダリストに育て上げた
名監督として知られる。

選手をのばす言葉を知り尽くした小出監督には、
こんな名言がある。


 牛乳を飲む人より牛乳を配る人のほうがよっぽど丈夫だ。

薬やサプリメントに頼るより、
移りかわる空の下を走ることで
健康を手にいれる人をふやしたい。

小出監督が夢みた「銀座マラソン」は
のちに都知事によって「東京マラソン」として実現した。



走る人 間寛平

マラソンとヨットで
地球を一周する、アースマラソン。
この、人類初のとてつもない試みに、
ひとりのコメディアンがチャレンジしている。

寛平ちゃんこと、間寛平、60歳。

心臓疾患を克服するために走りはじめ、
陸上選手並みの強靭な心臓を手にいれた。
世界中のマラソン大会に出場すること70回以上。
いまや3万6千kmの地球一周をめざす男だ。

しかしスタートから約1年、トルコで癌が判明する。
治療しながらマラソンは継続できる、と医師に告げられ、
「めっちゃ嬉しい」と語った寛平ちゃん。

その後、このアースマラソンを必ず完走するために
2か月間治療に専念することを決意。
現在アメリカで療養にはげんでいる。

そんな寛平ちゃんの言葉は、
いつも前を向いている。


 走らんでも、毎日、歩けばいい。

きのうより、気持ちが1㎜でも前進していれば
いつかゴールにたどり着く。

天性のボケでお茶の間を笑わせた一芸人は
いま、自分と地球と向き合うことで
日本に勇気を送りつづけている。

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熊埜御堂由香 10年05月16日放送



走る人 谷口浩美


 「こけちゃいましたぁ。」

彼の笑顔に、
日本中のお茶の間が、ほんわかした。
1991年の世界陸上、金メダリスト谷口浩美。
翌年のバルセロナ五輪で、転倒する。
20人抜きを見せるが結果は8位。

くやしさも、あったはず。でも笑った。
谷口は現在も、マラソン界で、
日本人男子として、唯一の金メダリスト。

彼は言った。


 踏まれても踏まれても、雑草のごとく。

ずっこけた笑顔は、谷口の強さの証にちがいない。



走る人 鬼塚喜八郎

昭和26年、夏。ひらめきは、
キュウリとタコの酢の物からもたらされた。

鬼塚喜八郎。
シューズブランド
オニツカタイガーの創始者だ。

タコの足の吸盤にヒントを得た靴底の
鬼塚式バスケットシューズを考案。
全国を営業して走り回り、ブランドを育てていった。

やがて、東京オリンピックのときには
オニヅカタイガーのスポーツシューズを履いた選手が
計46個のメダルを獲得し
オニヅカの名前はさらに高まった。

彼は言った


 「持てる力を一点に集中させれば、必ず穴があく。」

突破していくひとは、迷わずに走り続けられるひと。

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石橋涼子 10年05月16日放送



走る人 ジョイス・キャロル・オーツ

小説家とは、
酒とたばこを好み、不摂生で、破滅的。

なんてイメージは古臭いけど、
毎日ジョギングを欠かさない小説家、
というのも、ちょっと意外だ。

書くことと、走ることをこよなく愛する女流作家、
ジョイス・キャロル・オーツは、こう語る。


 静かにきちんと仕事をしている人のことは
 あまりニュースにはならない

確かにそうでした。



走る人 今井譲二

年間36試合に出場、打席数はゼロ。
というふしぎな記録を持つ野球選手をご存知だろうか。

今井譲二。

彼のポジションは、代走。
仕事は、ピッチャーから盗塁を奪うこと。
打たず、守らず、ただ、走ることを極めた野球選手。

投手のビデオを集めて研究し、
あらゆる投球の瞬間のクセを覚えた。
ピッチャーは、今井が走る、と分かっていても
彼を止められなかったという。

試合の終盤、彼の名前が呼ばれると、
大人も子どもも、バッターボックスよりも
片足を塁に乗せた今井の方が気になった。

ある人は、彼をこう評した。


 箸にも棒にも引っかからない打撃と、
 ひたすらに速い足を持っている。

それは今井にとって、最高のホメ言葉。



走る人 あるトラック運転手

早朝の高速道路。
前を走る長距離トラックを見ると、
荷台にこう書かれていた。


 最大積載量、女房子どもが食えるだけ

あなたの仕事や、恋愛や、生活は、
重量オーバーになっていませんか?

何のために走り続けるのかを思い出すために
ときどき立ち止まるのも悪くない。

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厚焼玉子 10年05月16日放送



世界一遅いマラソン記録  金栗四三

日本のマラソンの父と呼ばれた金栗四三(かなぐりしそう)は
日本人初のオリンピック選手として
1912年のストックホルム大会に出場した。

試合当日のコンディションは最悪だった。
船と列車の長い旅、白夜での寝不足。
マラソンの当日は迎えが来ず、
試合の前に競技場まで走る羽目になった。

さらにその日は摂氏40度を超える記録的な暑さで
参加選手は次々にリタイア。
金栗もレース半ばに日射病で倒れてしまうが
このとき、なぜか彼の棄権は連絡されず
「日本の金栗選手はレース中に失踪」と記録されてしまった。

それから55年
75歳になった金栗四三のところに一通の招待状が届いた。


 「スウェーデンのオリンピック記念式典で
 あのときのマラソンをゴールしませんか」

54年8ヶ月6日5時間32分20秒3という
世界一遅いマラソン記録はこうして生まれた。
1967年3月21日のことだった。
「長い道のりでした」と本人もスピーチしている。

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細田高広 10年05月15日放送


つくる人の言葉1 ル・コルビュジェ

高層ビルが乱立した、1930年代のニューヨーク。
その風景は「空を切り裂くもの」
という意味でSkyscraperと名付けられた。
日本語でいう、摩天楼。

当時、高層ビル群を見た誰もが
「高すぎる」と口にした。
だが、ただひとり建築家ル・コルビュジェだけは
真逆のことを思っていた。

摩天楼は、小さすぎる。

空だけでなく、地上を観察したコルビュジェは
ビルの下に広がる交通渋滞や、
スラム街を見逃せなかった。

摩天楼をもっと高くすれば、
住む空間が広がり、公園ができ、
交通網が整理できる。そう考えたのだ。

彼の志と比べれば、たしかに摩天楼は小さすぎる。


着つくる人の言葉2.フランク・ミュラー

挑戦するのに、年齢なんて関係ない。


そう口にする人は多いけれど。
スイスの時計師フランク・ミュラーほど
説得力をもって語れる男を知らない。

彼は言う。

 挑戦するのに、年齢なんて関係ない。

 だいたい時間なんて、

 人間が勝手に作ったもの。

 私は時計師だからよくわかる。

時間を忘れよう。年齢を忘れよう。
ぜんぶ、人がでっちあげたものだから。

「高齢社会」なんていう呼び名が、
日本の元気を奪っているのかもしれない。


つくる人の言葉3  イサム・ノグチ

日米のハーフとして生まれた
イサム・ノグチは長く悩んでいた。
100%のアメリカ人ではない。
100%の日本人でもない。
自分が不完全な存在に思えてならない。

だからイサム・ノグチは、
国籍も国境も関係ない「芸術」の世界に
居場所を見つけようとした。
彼は自らの彫刻作品について、こう語っている。

 もし、誰かが文句を
 いったらこう言ってください。
 完璧なものは面白みに欠ける。

その言葉は、「自分自身」にも
向けられているようだ。


つくる人の言葉4 ヴィダル・サスーン

ヘアデザイナーという職業を確立し、
美容界を席巻したヴィダル・サスーン。
彼の人生も、初めから華やいでいたわけではない。

5歳の時に父が家を出て、一家は困窮する。
シャンプーボーイとして働き始めたとき、
ヴィダルはまだ14歳だった。

そんなヴィダルは、26歳で自分の店を持ち、
洗ったままで髪型が整う技術を発明。
さらにミニスカートの流行とともに
彼がデザインしたショートボブが世界的にブレイク。
いつしか女優やセレブから大評判になった。

人生年表だけ見ると、
あっと言う間に成功を収めたかのよう。

だが、ヴィダルは言う。

 「成功」が「努力」の前に来るのは、辞書だけさ。

さすがは美の専門家。
汗と努力の人生だって、
見とれるほど美しく見せてしまう。


つくる人の言葉5  ルイス・バラガン

建築界のノーベル賞と呼ばれるプリッカー賞。
その授賞式でルイス・バラガンは言った。

 建築家の使命は、
 静けさに満ちた住まいをつくることなのです。
 静けさは、苦悩や怖れを真の意味で癒します。

悩みや孤独は、
きっと誰もが抱えているもの。
解決できるのは、結局、自分ひとりしかいない。
だから、バラガンは悩みと向き合える
「静寂」を設計した。

東京で今、
設計されるべきものは
静けさなのかもしれない。


つくる人の言葉6  東孝光(あずま たかみつ)

建築家の仕事を思うとき、
いつも考えることがある。

地球の上にびっしり建築が並ぶ今、
新しい建築なんて
生み出せるのだろうか、と。

建築家、東孝光の言葉は
そんな問いは無意味だ
と教えてくれる。

 美しい空間は、人々の夢のなかに、
 いつでも存在する。
 建築家は、それを引き出し、見せてあげればよいのだ。

新しい建築の図面は、住む人の頭の中にある。


着つくる人の言葉7  ジミー大西

99%の努力。1%のひらめき。
エジソンが残した発明のレシピだ。

新しいアイデアを見つけたいなら、
ひたすら努力せよ。
エジソンは何て酷なことを言うのだろう。

しかし。お笑い芸人から
画家になったジミー大西は
この有名な言葉に新しい解釈をくれた。

 あれは誰かが英訳間違えてるんとちゃいますか?
 僕は99%の遊び心で1%のひらめきやと思いますよ。
 誰が99%も努力します? しませんよ。
 僕は楽しんだ思いますよ。

確かに。好きなものに夢中になるとき、
「努力している」なんて思わない。

大好きなものがある人は皆、
天才になるチャンスを持っている。

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小宮由美子 10年05月09日放送



ある選手

 「ナンバーワンのプレッシャーは
  経験した者でなければわからない」

かつて、世界ランキング1位の
テニス・プレーヤーだった
ジョン・マッケンローは、こう語っている。


 「いつも何かに脅かされているんだ。その間、
 楽しさを覚えたことなんて一度もなかった。
 例えて言うなら、断崖絶壁に立ち、
 強風を受けているようなもの。
 力いっぱい踏ん張っていなければ
 すぐに下に落っこちてしまう」と。

それだけのプレッシャーに身を晒しながら
世界のトッププレーヤーが
頂点をめざして戦うグランドスラム
今年も、目が離せない。



ある園芸家

手のかかることがうれしい。
待ちどおしくて、たまらない。

カレル・チャペックの本『園芸家12ヵ月』は
植物を育てる人だけが知るよろこびに溢れている。

たとえば、庭をつくりだすと
「ものの考え方がすっかり変わってしまう」と、彼は書く。


 「雨が降ると、庭に雨が降っているのだ、と思う。
 日が射すときも、ただ射しているのではない、
 庭に、日が射しているのだ、と思う。
 日がかくれると、庭が眠って、
 今日一日の疲れを休めるのだ、そう思って、ほっとする」

5月。
世界中の園芸家たちにとって素晴らしい季節が
また、巡ってきた。



ある芸術家

古い書物、
ガラスの小瓶、白い球体や、
バレリーナのチュチュの切れ端…

素材のコラージュによって、
小さな空間の中に詩的な世界をつくりだした
<箱の芸術家>、ジョゼフ・コーネル。

彼は、国内外で名声が高まったのちも
周囲の人々と一定の距離を保ち続け、
生涯、ニューヨークのベイサイドにある
木造家屋の地下室で、静かに作品をつくり続けた。

しかし1972年、心臓発作でこの世を去るその日の朝、
コーネルが電話で妹に打ち明けたという言葉は、
孤高の芸術家の胸の内を、そっと教えてくれる。


 「今まで内気にふるまいすぎた」




ある作家


 「20代の私は、時計の奴隷でした」

作家・向田邦子は、そう告白する。

待ち合わせの時間に相手が遅れると、きつい言葉でなじる。
自分自身を追い立てては、
「また一日を無駄にしてしまった」という口惜しさに焦れる。

実際、数々の素晴らしい作品を残しながら、生きることを謳歌し、
51年の人生を駆け抜けていったようにみえる彼女。
だが、死の数年前に書いた『時計なんか恐くない』という
エッセイの中に、若き日の自分の姿をふりかえりながら、
こんな言葉を残している。

 「時計は、絶対ではありません。
 人間のつくったかりそめの約束です。

 もっと大きな、『人生』『一生』という目に見えない大時計で、
 自分だけの時を計ってもいいのではないでしょうか。
 
 若い時の、『ああ、今日一日、無駄にしてしまった』という絶望は、
 人生の大時計で計れば、ほんの一秒ほどの、素敵な時間です」



あるダンサー


 「長いあいだ作品を作り続けてきましたが、
 身体の奥底から取り出して表現したいことが
 まだまだ沢山あります。
 それは言葉にできないけれど、私の身体から
 決して、消えてなくならないものです」

2004年の来日公演の際に、
ピナ・バウシュが語った言葉。

ヴッパタール舞踊団を率いる振付家であり、
稀有なダンサーでもあった彼女。

数々の独創的な作品を生み出し、
世界に衝撃を与え続けたその繊細な身体は、
2009年、病に倒れた。

けれども
ピナ・バウシュの意思は
多くのダンサーのなかに残された。

彼女は、いま、失われた身体によって、
生きることの価値を私たちに投げかける。



ある王妃

バラの名前になった女性たちがいる。

Joséphine de Beauharnais(ジョセフィーヌ・ド・ボアルネ)
も、そのひとり。

250種類ものバラを城の庭に植え、
歯並びの悪さを隠すために、いつもバラを
手離さなかったといわれる、ナポレオンの最初の妻。

皇后としてより、<ジョセフィーヌ>という
バラの一種として人々の口にのぼることは、
バラを愛してやまなかった彼女にとって
幸福なこと、かもしれない。



ある音楽家

ある日、青年は、バルセロナの港近くにあった
古い楽譜店に、何気なく足を踏み入れた。
しばらく物色していると、角が擦り切れ、色褪せた
1冊の楽譜が目に飛びこんだ。

表紙に書かれた文字をみて、彼は自分の目を疑う。
高鳴る胸の動悸をおさえ、譜面を追った。
「その音符は、王冠を飾るいくつもの宝石のように思えた」と
後に彼は語っている。

楽譜をしっかりと抱きかかえて家路についた彼は、
それから一日も休むことなく、曲と向き合う。

12年の歳月を経て、その時がやって来た。
遂に彼は、聴衆の前での演奏を決意する。
そして、単なる「練習曲」とみなされていた曲の
真の価値を示し、絶賛を浴びた――

唯一無二のチェロの名手、パブロ・カザルスと、
彼に揺るぎない名声をもたらすことになる
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲<無伴奏チェロ組曲>との
数奇なほどに運命的な、出会いの話。

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