薄景子 09年01月10日放送

西原理恵子

二十歳のころ  西原理恵子

笑うのではなく、笑い飛ばす。
西原理恵子のマンガを読むと、腹の底から力がわく。

19の時、上京。
手もとの100万円は、自殺した父が残した140万円から
母が娘に託したお金だ。
一銭たりとも無駄にできないそのお金で、美術の予備校に通う。

何をやっても落ちこぼれだった西原が、絵の道を選んだのは、
絵だけがかろうじて普通のレベルだったから。
翌年、火事場の馬鹿力で美大に合格。

才能もプライドもなかったおかげで、在学中からエロ雑誌のカットを描く。
絵の具を買うためにミニスカパブでバイト。
腹が立っても笑顔でいたら、顔面麻痺になった。

そんな二十歳のころをセキララに描いた「上京ものがたり」。
最後のページにこんな言葉がある。


 つぎはなにをかいたら しんどい人はわらってくれるかなあ

失敗も修羅場も、ネタにしちゃえばガハハハ。
西原のマンガは、たくましくて、あったかい。

斉藤里恵

二十歳のころ 筆談ホステス

筆談ホステスこと、斉藤里恵。
青森から銀座にきて2年でナンバー1となる。
耳が聴こえない彼女の会話は、すべて筆談だ。

人工内耳を埋め込んでみたものの
激しい頭痛に悩まされ、
結局、音のない世界を選択したのは
二十歳になろうとするときだった。

ある客が「辛い」という字を書けば
横線一本足して「幸せ」に変え、メモをわたす。


 辛いのは幸せになる途中ですよ。

音のない言葉は、耳ではなく、胸に響く。

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熊埜御堂由香 10年01月10日放送

大江光

二十歳のころ 静かな生活

食卓で気持ちよく晩酌をしていた父に、
二十歳になったばかりの娘がこんな理想を語った。


 私がお嫁に行くならね、イーヨーといっしょだから。
 そこで静かな生活がしたい。

作家、大江健三郎が、自身の家族をモデルにした小説「静かな生活」は
娘のマーちゃんの視点で、
脳に障害をもって生まれた4つ年上の兄・イーヨーとの生活が語られる。

イーヨーは後年、音楽家として活躍する大江光(ひかり)。
彼は19歳のとき、
妹の誕生日に「バースデイ・ワルツ」という曲をつくり
その楽譜に赤いリボンをかけてピアノの上に置いた。
20秒ほどのメロディだったけれど
大江光がはじめてまとまった一曲を書き上げた記念になった。

結局、マーちゃんは結婚して、実家をひとり離れるけれど
兄と妹の、大人になるすこし前のおだやかな時間が
この曲には流れつづけている。

川上弘美

二十歳のころ 大人と子どもの境界線

しらすの心意気。
作家、川上弘美が子どもの視点を
甘く見ないという自戒をこう名づけた。
しらすがカタクチイワシの稚魚だと知り
仰天したことがきっかけだ。
小さいながらに堂々とおいしい彼らを
「しらす」という完成した種だと思っていたのだ。

たしかに人間にも、子どもと、大人、それぞれに社会がある。
そして川上弘美の小説には、子どもが急に大人びる瞬間や
大人が思わず子どもに戻ってしまう瞬間がよく描かれる。

人間をしらすとイワシに分かつひとつの境界線は二十歳。
けれど、その境界を行ったり来たり迷いながら生きていけるのは
人間の幸福なのかもしれない。

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石橋涼子 10年01月10日放送

前田長吉

二十歳のころ 前田長吉

戦争が彼にチャンスを与えた。
1943年、前田長吉、20歳。

見習騎手のうちから優秀な馬を与えられ
日本ダービーに出場。
最年少優勝記録を打ち立てた。

それから、戦争は彼のすべてを奪った。
1年後、赤紙が来て陸軍に入隊し
帰らぬ人となった。

でも、運命を恐れてはいけない。
人は時代とともにあり
時代をつくるのはあなたなのだから。

晴留家志んぷ

二十歳のころ 晴留家(はれるや)志んぷ

平均寿命が80歳を超えた今、
二十歳で人生の進路を決めるのはむづかしい。

大畑喜道(よしみち)青年は、
二十歳のころ、進路を選べずに悩んでいた。
それは、牧師になるか、落語家になるか。

中学生で洗礼を受け、高校のときから落語ファンになり
大学ではプロの門を叩いたこともあるけれど
卒業後は神学校へ進んで牧師の道に…

そしていま彼はふたつの名前を持っている。
牧師、アンデレ大畑喜道先生。落語家、晴留家(はれるや)志んぷ。
どちらの名前のときも
教会の十字架の下で誰かを幸せにしている。

二十歳、
迷って欲張ってもいいのかも。

ヘンリー・フォード

二十歳のころ ヘンリー・フォード

アメリカの実業家ヘンリー・フォードはこう言った。


 学び続ける人は、たとえその人が80才でも若い。
 逆に、学ぶことをやめた人は、20才でも年老いている。

人生で最も大切なことは、
心をいつまでも若く保つことだ。

さて、あなたの心は、いま何歳だろうか。

明日は成人の日。

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保持壮太郎 10年01月09日放送

01-hokusai

「葛飾北斎」

葛飾北斎の偉大さを
僕たちは知っている。

かのゴッホにも影響を与えた偉大なる画家。

アメリカの雑誌「LIFE」の特集
“この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人”に
日本人としてただ一人選ばれた男。

では、
本人の自己評価は
どうだろう。

この世を去る間際に、彼は言った。

あと5年あれば、本物の画家になれるのに。

葛飾北斎、享年90歳。

願わくば95歳の彼が描く
真の大作を見てみたかったものだ。

02-gaikotsu

「宮武外骨」

明治の時代、
宮武外骨という名の
ジャーナリストがいた。

権力の不正と矛盾を
風刺する記事を書きつづけ、
処分をうけること29回。
投獄されること4回。

けれども彼はひるまない。
自叙伝のタイトルには

 “予は危険人物ナリ”

とつけた。

宮武外骨。

“名は体を現す”の言葉どおり、
生涯彼はユーモアと反骨心を
忘れることはなかった。

宮武外骨。
ちなみに本名である。

03-marc

「マーク・ジェイコブス」

誰もが認めるものほど
タイクツなものはない。

その意味で
ルイ・ヴィトンの
アート・ディレクター、
マーク・ジェイコブスの
生みだすものは、
いつもおもしろい。

落書きだらけのバッグ。
穴だらけのモノグラム。

彼のデザインには、
もれなく賛否両論がつきまとう。

でも、
“落書きのバッグなんて悪趣味だ!”
なんて批判は
マークにとって
褒め言葉にしかならない。

彼はこう言う。

 醜悪さも、極めればクールだよ。

04-mukou

「向田邦子」

“男性鑑賞法”

かつて女性誌に
連載されていた
生々しいタイトルの
この随筆。

著者は、かの向田邦子である。

政治家、歌手、役者、料理人・・・。

毎回、
第一線で活躍する男たちを
取り上げては、
彼女ならではの鋭い観察眼で
分析を加えていた。

そんな向田邦子にも
夢中になった相手がいる。
その存在について、彼女はこう語った。

 偏食・好色・内弁慶・小心・テレ屋・甘ったれ・
 新しもの好き・体裁屋・嘘つき・凝り性・怠け者・
 ・・・(中略)・・・きりがないからやめますが
 貴方はまことに男の中の男であります。
 私はそこに惚れているのです。 

意中の相手の名はマハシャイ・マミオ。
バンコク育ちのオス猫だった。

05-Rotten

「ジョニー・ロットン」

シド・ヴィシャスのように
死ぬということが
パンクだとすれば、
ジョニー・ロットンのように
生きるということもまた
ひとつのパンクだろう。

かつて、
セックス・ピストルズの
ボーカルとして
世間を騒がせた男は、
今世紀に入って
テレビのバラエティ番組に
「一流コメディアン」として突如登場し、
再び世界を驚かせている

そういえば
ピストルズのラストライブで
彼は言っていた。

 アハハ、騙された気分はどうだい?

06-goz

「中島春雄」

俳優、中島春雄。

彼が初めての
主演映画の撮影を目前にして
むかった場所。
それは動物園だった。

中島は言う。

 猿は参考にならなかったが、
 象や熊の動きは非常に参考になった。

そんな彼の演じた
“ゴジラ”という役は
その後おおいに当たり、
日本のみならず、
世界中を熱狂させることになる。

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中村直史 10年01月03日放送

1

「綾戸智絵」

プロのジャズシンガーとして
やっていくには
音域が狭すぎた。

だから・・・

後につづく言葉として
ありがちなのは「あきらめた」。

でも綾戸智絵の場合。

だから・・・
その分パワフルに魂をこめて歌った。


 難儀があると、それをプラスにしようと努力するから、チャンスなんです。

さ、2010年。
きっと今こそが、チャンスの時。



「キュリー夫人」 

文字通り、
命がけの仕事だった。

未知の放射性物質であった
ラジウムとポロニウムを
発見したキュリー夫人。

生涯浴び続けた放射線のために、
体はやせこけ、
手の指は焼けただれていた。

享年66歳。
死因は白血病。

未知なる放射性物質を世界に知らしめた
女性科学者は、
放射線の恐ろしさを世界に知らしめた
最初の人でもあった。



「森田勝」

意識が戻ったときには
4時間がたっていた。

世界でも最難関の山、
グランド・ジョラス北壁。
岩に打ち込んだフックが外れ、
50メートル落下。
たった1本のロープで宙釣りになった。

左足は折れ、胸を打撲、左手も麻痺していた。

幻聴と幻覚に苦しみながら
陽が昇るのを待ち、
男は決死のアタックを開始。
右手、右足、そして歯で
ロープをつかみ
6時間かけて登りきった。

孤高の登山家、森田勝(もりた まさる)。

限りなく死に近い場所でしか
生きていることを確かめられなかった男。

伝説のアタックから約1年後。
同じグランド・ジョラスで800メートル転落。
2度目の奇跡の生還は、
果たせなかった。



「ガルシア・マルケス」

冬休み、どこへも行けず
じまいだったあなたに、

寝転がったまま
行ける旅行のご案内です。


 長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、
 恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、
 父親のお供をして初めて氷というものを見た、
 あの遠い日の午後を思いだしたに違いない。

ガルシア・マルケス、「百年の孤独」。

一行目から
遠い世界へと
連れて行ってくれます。



「アントン・ブルックナー」

「自分に自信を持とう」

そんな言葉で、
人生が変わるなら
苦労はしない。

アントン・ブルックナーは、
自信のない作曲家だった。
批判されるたび、曲を書き直した。
ただ、何と言われても、
作曲を「やめる」ことはしなかった。

そんな自信のなかった人の音楽は
いま、人々からこんな風に言われている。


 ある日突然、わかるのです。ブルックナーの音楽は宇宙そのものだと。

自分に自信が持てるまで
待っていたら、
人生が終わってしまう。

動こう、書こう、つくろう。
才能があるかどうか、
悩んでいるヒマはない。



「チャールズ・チャップリン」

アメリカで、
チャールズ・チャップリンの
そっくりさん大会があった。

こっそり出場していたのが
チャップリンご本人。

優勝し、「本人です」
と驚かすつもりが結果は2位。

だれにも気づかれず
トホホとうなだれていた。

そんなジョークが、
いまも人々の間で語られている。

この世を去ってからも
笑いをとりつづけようだなんて。

どこまで笑いに貪欲なんですか、チャーリー。



「ジェリー・ロペス」

彼のサーフィンを見ていると、
波が荒れ狂っている
という事実を忘れてしまう。

「生きる伝説」
プロサーファー、ジェリー・ロペス。

モットーは、


 Flow with it, be part of it.
 身をゆだねろ、波の一部であれ。

人生の荒波も
立ち向かうだけが
正解じゃない。

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佐藤延夫 10年01月02日放送

01-mucha

「18歳のあなたへ/アルフォンス・ミュシャ」

今年、18歳になるあなたへ。
「将来の夢は?」
そんな質問をされるのが苦手という、あなたへ。

夢は、いつ花開くのか。
その答えなんて、誰にもわからないこと。

18歳のとき裁判所で働いていたアルフォンス・ミュシャは
仕事中に被告人の似顔絵を描きクビになってしまう。

彼がやがてアールヌーヴォーを代表する画家になるとは
そのとき誰も思っていない。

運命が微笑むときはきっとくる。

がんばれ、18歳。

02-ichiyou

「20歳のあなたへ/樋口一葉」

今年、ハタチになるあなたへ。

お金の大切さがわかりはじめた、あなたへ。

今の五千円札に描かれている女性は、
ハタチのとき、今日を凌ぐお金にも苦労していた。

小説家を目指していた樋口一葉。
執筆活動だけではやっていけず、
片手間で雑貨屋を始める。
それでもお金は足りず、高利貸にも通った。

  家は貧、ただ迫りに迫れど、心は春の海の如し

今の時代、この人が五千円札で良かったのかもしれない。

ハタチの皆さん、お金と夢は大切に。

03-nellie

「25歳のあなたへ/ネリー・ブライ」

今年、25歳になるあなたへ。

仕事の面白さがわかってきた、あなたへ。

アメリカの女性ジャーナリスト、ネリー・ブライは
25歳のとき、その後の人生を変える仕事に取り組む。

それは、「80日間世界一周」を実際に体験するという無謀な企画。
飛行機なんて存在しない19世紀の末、
汽車と船を乗り継ぎ、
各地で記事を書きながら72日で戻ってきた。

世界初の女性ジャーナリストは、
単独で世界一周をした世界初の女性にもなっていた。

25歳は、少しくらい無鉄砲なほうがいい。

04-christie

「30歳のあなたへ/アガサ・クリスティ」

今年、30歳になるあなたへ。

毎日に少し迷っている、あなたへ。

イギリスの、ある女性の話です。
16歳のときパリの音楽学校に入学するも、挫折。
24歳で結婚し、看護師として働く。
26歳のとき、ある小説をわずか3週間で書き上げる。

さあ、ここからが大切。
30歳のあなたへ。
20代の苦労を忘れてはいけません。
自信があるなら、諦めてはいけません。

ある日、出版社に何度も断られた作品が採用となり、
彼女は華々しくデビューする。
それが推理作家、アガサ・クリスティーの30歳。
作品は「スタイルズ荘の怪事件」。

30歳のエンジンは、一度火が点けばすぐに熱くなる。
迷う前に、走ろう。

05-goethe

「40歳のあなたへ/ゲーテ」

今年、40歳になるあなたへ。

40代の恋について
ドイツの文豪、ゲーテは
こんな言葉を残しています。

 二十代の恋は幻想で
  三十代の恋は浮気である
 人は四十代になってはじめて
  真のプラトニックな恋愛を知る

いまからでも遅くない。
ゲーテが初めて結婚したのは、57歳のときですから。

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ベベンコビッチオーケストラのライブ

五島の言葉で歌う五島のバンド
ベベンコビッチオーケストラのライブが
12月27日に開催されました。

youtubeにいくつかアップされています。
http://www.youtube.com/user/bebencobicci

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厚焼玉子 09年12月27日放送

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医者で作家 1 渡辺淳一

医者という職業はかなり忙しい。
医者で作家の人たちは
いつ小説を書くのだろう…はともかく
どうして小説を書きたくなるのだろう。

それに関しては
渡辺淳一先生が明快に述べている。


 医学も文学も「人間とはなにか」という
 問いかけから発している。
 医学は肉体的な面から、文学は精神的な面からという
 違いはあるが
 目的とするところは人間であり
 その点でまさに同じである。

言われてみれば、その通りでありました。

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医者で作家 2 森林太郎

陸軍軍医の森林太郎は
1884年、22歳のときにドイツ留学を命じられ
天皇陛下に拝謁する光栄も賜って
横浜港から出港した。

ライプツィヒ大学とミュンヘン大学で学び
赤十字国際会議には日本代表の通訳として出席。
医学の道は森林太郎に洋々たる未来を約束していた。

1888年、
帰国の途についた森林太郎を追うようにして
ドイツからひとりの女性が日本に向った。
もし、この女性がいなかったら
森鴎外の処女作「舞姫」はなかった。

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医者で作家 3 手塚治虫

手塚治虫は医学部を卒業し
1年間のインターンも務め、さらに国家試験にも合格して
医師免許を持っている。
ただし、患者を診たことは一度もない。

大学時代から漫画が売れはじめ
教授からも医者よりも漫画家になるようにと
すすめられてしまったのだ。

漫画家として長者番付に載るようになっても
「僕の本業は医者」と言いはっていたのだが
博士号を取るための論文に関しては
書く時間はおろか
研究する時間もあろうはずがなかった。

けれども、いつの間にか
手塚治虫は博士号を取っている。
記録によると、それは1961年33歳のとき。

医学雑誌に発表されたその論文のタイトルは
「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」
この長いタイトルは
手塚治虫の超カルトクイズにも出題された。

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医者で作家 4 なだいなだ

芥川賞最多落選記録を持つなだいなだ先生は
もともと精神科のお医者さま。
アルコール依存症を研究のテーマにしていた。

フランスに留学して神経学を学び
1955年に精神科医になると同時に
文筆活動を開始した。

作家と医者、二足のわらじどころではなかった。
放送作家でありコラムニストだった。
短歌と俳句も詠んだ。

61歳からは作家に専念、
74歳でネット上の仮想政党「老人党」を結成。
80歳でまだまだお元気。

精神科のお医者さまってタフなのでしょうか。

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医者で作家 5 北杜夫

作家の北杜夫は
精神科の医者であると同時に患者でもあった。
病名は躁鬱病。

無気力な鬱の状態が長くつづいた後に
やってくる躁状態のときは
ひっきりなしに水を飲まなくてはいられないほど
よくしゃべり、
体重が減るほど動きまわり
また株に手を出して破産も経験している。

その一方で精神科医としての目は
自分のそんな状態を冷静に見つめ
ユーモラスなエッセイにして発表した。

北杜夫のおかげで
躁鬱病はすっかりイメージアップしてしまった。
まわりの理解も深まり
患者は精神科の門を気軽にくぐれるようになった。

日本の精神医学史において
北杜夫の存在は貴重だ。

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作家で医者 6 加賀乙彦

作家の加賀乙彦は精神科医だった。
拘置所で囚人の治療にあたった経験もある。
犯罪心理学の研究室にいたこともある。

犯罪心理学というポイントから
社会を見つめる目を持っている。


 異常な状況においては異常な反応が正常である

加賀乙彦の言葉は
言われてみればあたりまえのこと。
でも、言われなければ気づかなかったこと。

犯罪を通して人の心をさぐる日本の作家は
彼より以前にいなかった。

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医者で作家 7 藤枝静男

作家であり眼科医でもある藤枝静男は
書くことを余裕で楽しんでいるような
幻想的な作風で知られている。

その一方で
近代文学社に毎年の寄付を申し出て
それがきっかけで近代文学賞が設立されたことは
意外と知られていない。

第一回近代文学賞の受賞者は吉本隆明。
これを忘れてはいけない。

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坂本和加 09年12月26日放送

01-top

開高健と山の上ホテル①

山の上ホテルは、
神田駿河台の高台にございます。
小さな、文化人のホテルです。

開高健先生も、よくいらっしゃいました。
散歩のついでに、ふらっと。
あのかた、釣り師としても有名ですが
書いておられるほど
釣りはお上手ではないようでした。

 釣りの話をするときは、両手を縛っておけ。

これは、開高先生が
お好きだった、ロシアのことわざです。

02-top

石本恭子と山の上ホテル②

山の上ホテルは、
昭和29年にオープンした、
客室100前後の小さなホテルです。

当時、一機しかなかったエレベーターは
まだ手動で、石本恭子という
オペレーターが操作しておりました。
言葉遣いは美しく聡明、長身で上品な顔立ち。
淑女と呼ぶにふさわしく、
忘れがたい印象を残す女性でした。

ただ、それだけの話なのですが、
「旅館や料亭は、文化そのものであり、
そこで働く人たちもまた文化だ」と
言ってくださったのは、山口瞳先生でした。

03-top

丸谷才一と山の上ホテル③

丸谷才一先生が
山の上ホテルにお泊まりになるときは、
たいてい別館の623号室です。
山の上ホテルの、この部屋だけ、
カーテンが完全な暗幕になっているんです。
丸谷先生は夜型ですから、
明け方に眠るにはちょうどよかったのでしょう。

山の上ホテルは、作家の先生方が
何日間もカンヅメになる場所です。
そして、たくさんの丸谷文学もまた、
ここで生まれました。

けれど丸谷先生は、こんな風に言っています。

 作品が完成するのは、
 読者が読んで感心したときです。

04-top

池波正太郎と山の上ホテル④

池波正太郎先生は、
執筆と言うより休息のために、
よく山の上ホテルにお見えになりました。

池波先生は、お部屋で
よく画を描かれていました。
座卓が汚れないようにと、
ビニールカバーを持参されて。

几帳面で、洒落た粋人というのは、池波先生のことです。
ホテルに何枚か飾っております、
先生の水彩画は、お人柄そのものです。

05-top

山の上ホテルのレストラン⑤

山の上ホテルには、
作家の先生方をはじめ、
多くのお客様が例外なく好んだ
天ぷらの名店があることでも知られています。

創業者、吉田俊夫が仕入れまでみるほどの
食通だったせいもあるでしょう。けれどなにより、
吉田は、大通りにある鰻屋や鮨屋より
裏通りで見つかるような「天ぷら屋」が好きでした。
天ぷら職人に共通する、外連のない、
律儀で地味なところが。

今年の、全米のレストランガイド
サガット・サーベイにも載ったそうです。
「天ぷら 山の上」は、いまや
日本食の看板レストランです。

06-top

吉田俊夫と山の上ホテル⑥

山の上ホテルは
今でも文藝春秋や中央公論に
小さな広告を載せています。
山の上ホテルの広告は、
文案もデザインも、みんな自前です。

会社勤めから
ホテルの創業者となった吉田俊夫は、
広告もしかり、初々しいサービスや、
素人っぽさにこだわっておりました。

願わくは、ここが有名になりすぎたり、
流行りすぎたりしませんように。

三島由紀夫の寄せた言葉を矜恃として
当時のパンフレットに載せたのも、吉田です。
今もまだ、知る人ぞ知るホテルであることが
それを証明してくれています。

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八木田杏子 09年12月20日放送

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冬の音1 ドビュッシー

灰色のアスファルトを、
白く塗りつぶしていく雪に、
うんざりするのが大人。
うれしくなるのが子供。

踊るようにひらひらと舞い降りてくる
雪をみると、幼い心は舞い上がっていく。

子供の目をとりもどした
ドビュッシーが書きあげたピアノ小曲
「雪は踊る」は、大人を子供の世界へといざなう。

1220_2

冬の音2 ヴィヴァルディ

冬の凍てつく寒さでさえ、
ヴィヴァルディには喜びだった。

春の甘さも、夏の清々しさも、秋の贅沢さもない、
冬の喜びを、彼は音楽にした。

冷たい雪と北風に凍える、第一楽章と第三楽章。
その間には、
暖炉のそばで安らかにすごす、第二楽章。

辛いときほど、人のやさしさが身にしみるように。
凍える季節だから味わえる、あたたかさがある。

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冬の音3 ブラームス

人生にも四季があるとしたら。
ヨハネス・ブラームスは、58歳で冬を迎えた。

自らの衰えを感じ、遺書をつづった。
友人の支えで創作意欲をとりもどしても、
もう二度と、大曲を書くことはなかった。

生涯独身だったブラームスは、
姉のエリーゼを亡くすと、
山間にある小さな町イシュルで、
孤独のなかに沈んでいく。

そんな自分を慰めるように、
日記をつづるように書いていたピアノ小曲。

3つの間奏曲作品117。

楽譜には、ヘルダーの詩集からぬきだした言葉が記されていた。


 眠れ安らかに、わが子よ、眠れ安らかにそして美しく! 
 お前が泣くのを見るにつけ、私は悲しい。

やるせない想いをかかえて眠れない自分自身を
抱きしめるようなこの曲は、大人のための子守唄。

人生の冬に、そっとよりそってくれる。

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冬の音4 クリスマス・イブ

恋人とすごすクリスマス・イブを、
日本になじませた曲がある。

山下達郎の「クリスマス・イブ」。

会えない切なさをつづった歌詞は、
会いたい人のいる幸せを感じさせる。

クリスマス・イブの甘さも苦さも、
受けとめてくれるから、
その日を特別にしたくなる。

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冬の音5 赤鼻のトナカイ

シカゴのデパートで
コピーライターをしていたロバート・メイは、
幼い娘の問いかけに、胸をつまらせる。

どうして私のママは、みんなと違うの?

癌におかされた母親の姿を見ていた娘が、
ふと口にした言葉だった。

そのとき、ロバート・メイは
赤鼻のトナカイの話を思いつく。

みんなと同じじゃなくても
しあわせになれる…

娘に即興で語った物語は、
勤めていたデパートの小冊子になり、
やがて歌になり、広まっていく。

たったひとりの娘に、
どうしても伝えたかったメッセージは、
世界中が待っていたものだった。

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冬の音6 きよしこの夜

オーストリアのある村で
教会のオルガンが壊れてしまったとき、
ギターで演奏できるクリスマスソングがつくられた。

助任司祭モーアの詩に、
オルガン奏者グルーバーがメロディをつけた
「きよしこの夜」

まるで
天から舞い降りたクリスマスプレゼントのような
美しい曲になった。

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冬の音7 ハッピークリスマス 

自分が幸せなときじゃないと、
誰かの幸せなんて、願えない。

だからジョンレノンは、
みんなが幸せにつつまれるこのときに、
差別と戦争のない世界を願って、歌いかける。

 そう、今日はクリスマス  
 そして何を僕らはした?
  

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