2010 年 5 月 のアーカイブ

重大なお知らせ再び

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小宮由美子 10年05月09日放送



ある選手

 「ナンバーワンのプレッシャーは
  経験した者でなければわからない」

かつて、世界ランキング1位の
テニス・プレーヤーだった
ジョン・マッケンローは、こう語っている。


 「いつも何かに脅かされているんだ。その間、
 楽しさを覚えたことなんて一度もなかった。
 例えて言うなら、断崖絶壁に立ち、
 強風を受けているようなもの。
 力いっぱい踏ん張っていなければ
 すぐに下に落っこちてしまう」と。

それだけのプレッシャーに身を晒しながら
世界のトッププレーヤーが
頂点をめざして戦うグランドスラム
今年も、目が離せない。



ある園芸家

手のかかることがうれしい。
待ちどおしくて、たまらない。

カレル・チャペックの本『園芸家12ヵ月』は
植物を育てる人だけが知るよろこびに溢れている。

たとえば、庭をつくりだすと
「ものの考え方がすっかり変わってしまう」と、彼は書く。


 「雨が降ると、庭に雨が降っているのだ、と思う。
 日が射すときも、ただ射しているのではない、
 庭に、日が射しているのだ、と思う。
 日がかくれると、庭が眠って、
 今日一日の疲れを休めるのだ、そう思って、ほっとする」

5月。
世界中の園芸家たちにとって素晴らしい季節が
また、巡ってきた。



ある芸術家

古い書物、
ガラスの小瓶、白い球体や、
バレリーナのチュチュの切れ端…

素材のコラージュによって、
小さな空間の中に詩的な世界をつくりだした
<箱の芸術家>、ジョゼフ・コーネル。

彼は、国内外で名声が高まったのちも
周囲の人々と一定の距離を保ち続け、
生涯、ニューヨークのベイサイドにある
木造家屋の地下室で、静かに作品をつくり続けた。

しかし1972年、心臓発作でこの世を去るその日の朝、
コーネルが電話で妹に打ち明けたという言葉は、
孤高の芸術家の胸の内を、そっと教えてくれる。


 「今まで内気にふるまいすぎた」




ある作家


 「20代の私は、時計の奴隷でした」

作家・向田邦子は、そう告白する。

待ち合わせの時間に相手が遅れると、きつい言葉でなじる。
自分自身を追い立てては、
「また一日を無駄にしてしまった」という口惜しさに焦れる。

実際、数々の素晴らしい作品を残しながら、生きることを謳歌し、
51年の人生を駆け抜けていったようにみえる彼女。
だが、死の数年前に書いた『時計なんか恐くない』という
エッセイの中に、若き日の自分の姿をふりかえりながら、
こんな言葉を残している。

 「時計は、絶対ではありません。
 人間のつくったかりそめの約束です。

 もっと大きな、『人生』『一生』という目に見えない大時計で、
 自分だけの時を計ってもいいのではないでしょうか。
 
 若い時の、『ああ、今日一日、無駄にしてしまった』という絶望は、
 人生の大時計で計れば、ほんの一秒ほどの、素敵な時間です」



あるダンサー


 「長いあいだ作品を作り続けてきましたが、
 身体の奥底から取り出して表現したいことが
 まだまだ沢山あります。
 それは言葉にできないけれど、私の身体から
 決して、消えてなくならないものです」

2004年の来日公演の際に、
ピナ・バウシュが語った言葉。

ヴッパタール舞踊団を率いる振付家であり、
稀有なダンサーでもあった彼女。

数々の独創的な作品を生み出し、
世界に衝撃を与え続けたその繊細な身体は、
2009年、病に倒れた。

けれども
ピナ・バウシュの意思は
多くのダンサーのなかに残された。

彼女は、いま、失われた身体によって、
生きることの価値を私たちに投げかける。



ある王妃

バラの名前になった女性たちがいる。

Joséphine de Beauharnais(ジョセフィーヌ・ド・ボアルネ)
も、そのひとり。

250種類ものバラを城の庭に植え、
歯並びの悪さを隠すために、いつもバラを
手離さなかったといわれる、ナポレオンの最初の妻。

皇后としてより、<ジョセフィーヌ>という
バラの一種として人々の口にのぼることは、
バラを愛してやまなかった彼女にとって
幸福なこと、かもしれない。



ある音楽家

ある日、青年は、バルセロナの港近くにあった
古い楽譜店に、何気なく足を踏み入れた。
しばらく物色していると、角が擦り切れ、色褪せた
1冊の楽譜が目に飛びこんだ。

表紙に書かれた文字をみて、彼は自分の目を疑う。
高鳴る胸の動悸をおさえ、譜面を追った。
「その音符は、王冠を飾るいくつもの宝石のように思えた」と
後に彼は語っている。

楽譜をしっかりと抱きかかえて家路についた彼は、
それから一日も休むことなく、曲と向き合う。

12年の歳月を経て、その時がやって来た。
遂に彼は、聴衆の前での演奏を決意する。
そして、単なる「練習曲」とみなされていた曲の
真の価値を示し、絶賛を浴びた――

唯一無二のチェロの名手、パブロ・カザルスと、
彼に揺るぎない名声をもたらすことになる
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲<無伴奏チェロ組曲>との
数奇なほどに運命的な、出会いの話。

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熊埜御堂 由香 10年05月09日放送



走る人 角田光代

彼女は、32歳で大失恋した。
切れた電球を変える気力もなくなった。
だから、髪を切るわけでもなく、
次の男を焦って探すでもなく、
ボクシングをはじめた。
強くなりたかったから。

女心の機微を描き続ける作家・角田光代。

失恋からたちなおっても、運動する習慣は残った。
角田は忙しい暮らしの合間にランニングを続ける。

いま、若い女性にマラソンが流行しているのも、
からだとこころがつながっていることを
実感しやすいスポーツだからかもしれない。

きっと、今日も、いろんな思いを抱えて、走るひとがいる。

角田光代のある小説の主人公が、こうつぶやく。


 道ってのはどこまでも
続いているもんなんだねえ。

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たそがれのライブ


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坂本和加 10年05月08日放送


着物と越原春子

かつてココ・シャネルが、
下着素材のジャージで
動きやすいドレスを作ったように。

いつの時代も、働く女性は、
ファッションを変え、
モードを生む。

越原春子もそのひとり。
大正時代、女学校設立のために
ひどく多忙な日々を送っていた越原は、
ある日、長すぎる帯を
ばっさりと切った。

正装ではなく普段使いの、短めの帯。
名古屋帯は、そうして生まれた。
この帯が、その後一般化したのは、
簡略化されても、その美しさが
損なわれていなかったからだろう。

美しく、ときに大胆に。
働く女性はいまも昔も、変わらない。


着物と宇野千代

着物で、でかけたい。
けれど着物って、面倒なルールが
きっとたくさんあるんでしょう? 
と言うひとがいる。

明治に生まれ、
前衛的なデザインや着こなしを
着物に提案しつづけた宇野千代は、
こんな風に言っている。

着るもののことで
いっぺん笑われたら、
あとは笑われた者の得。

昭和32年、宇野千代は、
アメリカで着物ショーを行った。
足元にヒール。モデルたちの
しなやかな身体のラインを
隠さず活かした着物姿の
なんと、斬新なことか。

着物はその人らしく楽しめばいい。
宇野千代は、いいお手本を
私たちに教えてくれている。


着物と水谷八重子

アンティーク着物が、
若い女性の間で人気だ。
なかでも、大正から昭和初期の、
銘仙と呼ばれる着物が。

はじめ、銘仙は、
例えるならジーンズのような
カジュアルな普段着だった。
それがアールヌーボーと融合し、
華やかな大正ロマンの代名詞になった。
大流行した銘仙の反物は、
1億反も売れた。

水谷八重子は
そんな時代に生きた女優。
駆け出しの頃は、
銘仙のイメージガールもやった。
けれど戦後、洋服の時代がやってきて、
気づけばあれほどあった着物は
箪笥からあとかたもなく消えていた。
水谷八重子は、
そのことを、こんなふうに回顧する。

 日本人特有の、あの細やかな
 つつましさをも、捨てた自分に気がついた。


着物とバルテュス

20世紀を代表するフランスの画家、
バルテュスは少年時代から
東洋的なものを
こころから愛した。

日本人形との出会いは、14才。
その息をのむ美しさに驚いた。
つぎの出会いは、59才。
こんどは本物の日本人形、
当時二十歳の学生だった節子を
見初め、妻にむかえた。

バルテュス自身もよく着物を着た。
日本人は、反物や帯に、
あらゆるものを文様化する。
バルテュスは、その鋭い感性を
高く評価していたのだ。

着物を着るひとが少なくなって久しい。
その感性が、いま鈍ってやしないか。

感性は身につけるもの。

バルテュスも言っている。
日本人には、着物がいちばん美しい。


着物と幸田文

着物は、風で、洗うもの。
だからこそ和服は
傷みにくく、昔から
世代を超えて
受け継ぐものだった。

東京下町生まれの作家、
幸田文もまた、
着物をよく愛した。
娘の青木玉は、
そのほとんどを継いだ。

文のいくつかの着物は、
ほどかれ、こんどは風でなく水に洗われて、
色を染め直され、生まれ変わった。

幸田文は、粋で個性的に
着物を着こなす洒落人だった。
だから玉には着こなせないと
思うものも多かった。

けれど、そこは親子。
文の着物は年を重ねた玉に、似合うようになる。
それも着物の、おもしろさ。


着物とよしだみほこ

ビルにはさまれた東京で。
「トントンからり」と聞こえてくる。

それは、
着物の反物の織り職人、
よしだみほこさんの
仕事部屋からやってきた音。

わたしのつくりたいものは
着る人のほしいものの、中にある。
だから、織るものに
なるべくわたしを入れたくない。

そう、きっぱりと言う
みほこさんから生まれた反物は、
やさしい、檸檬畑の風のよう。

きょうもまた、「トントンからり」。


着物と清少納言

じんざもみ、きくじん、
なつむしいろに、ひわいろ。

日本の色の表現は、
数百種と言われるけれど、
そのほとんどは、
平安の時代に生まれた。

清少納言は枕草子に、
着物の色あわせについて
宮中でのやりとりを
にぎやかに、書いている。
春先、紅梅の上着のインナーには、紫。
でももう、萌黄の季節かしら。と。

みな着物を来ていた時代に、
そのひとのセンスや品を
伝えるのは色だった。
ときには色で、こころを伝えた。

ひとのこころは、複雑なもの。
着物と共に生まれ、
伝えられてきた色を思うと、
その数の多さも、わかる気がする。

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五島のはなし 番外

チケットが取れなくて五島へ帰れず
連休は東京湾で釣りをしている中村直史くん。

上の写真は世田谷の釣り部が釣ったカレイです。
40センチを超えています。刺身、うまかったです。
アラ煮もうまかったです。

カレイはそろそろ終了で
これからはメゴチ狙いになるそうです。
それからカイワリです。

楽しみです(玉子)

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蛭田瑞穂 10年05月02日放送



知られざる発明家たち①「ナイロン」

合成繊維「ナイロン」を発明したのは、
ウォーレス・カロザースという研究者。

しかし、1939年にナイロンが発表された時、
彼はもう、この世にいなかった。

「ナイロン」という名前の由来は“no run”。
「伝線しない」という意味。

ほかの候補に“ワカラ(Wacara)”という
変わった名前があった。

“a tribute to Wallace Carothers”を略して「ワカラ」。
「ウォーレス・カロザースに捧ぐ」
という意味が込められていた。



知られざる発明家たち②「合成ゴム」

1844年、アメリカ人の発明家、
チャールズ・グッドイヤーは合成ゴムを考案した。

しかし、彼の人生にとって、それは早すぎる発明だった。

合成ゴムの特徴は強い耐久性。
だが当時の社会にはその特徴を活かす製品がなかった。

1860年、グッドイヤーは多額の負債を抱えたままこの世を去る。

合成ゴムが本当に必要になるのはそれから数十年後。
自動車が発明されてから。

現在、世界有数のタイヤメーカーに
「GOODYEAR」という名前の会社がある。
しかし、それはチャールズ・グッドイヤーが
つくった会社ではない。

彼の功績を讃え、グッドイヤーの名を社名につけたのだ。



知られざる発明家たち③「ポスト・イット」

1969年、アメリカの化学メーカーに勤める技術者、
スペンサー・シルバーが接着剤の開発をしていると
粘着力は強いのに、すぐに剥がせてしまう
変わった性質の接着剤ができあがった。

完全な失敗作だったが、
不思議な可能性を感じたシルバーは、
サンプルをつくって社内に見せて回った。

そのサンプルを見た者の中に、
アート・フライという技術者がいた。

5年後のある日曜日。
フライが教会で賛美歌を歌っていると、
歌集に挟んであったしおりが床に落ちた。

その瞬間、フライの頭に浮かんだのが
シルバーのつくった接着剤。


 あの接着剤を使えば、落ちないしおりがつくれるはずだ。

こうしてできあがったのが「ポスト・イット」。
今やどのオフィスでも見かける世界的ヒット商品。

「失敗は成功のもと」というけれど、全くその通り。



知られざる発明家たち④「万年筆」

現在の万年筆の原型をつくったのは、
ルイス・エドソン・ウォーターマンというアメリカ人。

保険の外交員をしていた彼は、
ある時、ペンから漏れ出したインクで、
契約書を汚してしまう。

大口の契約を取り逃がした彼は、
これをきっかけにインクの漏れない
万年筆の開発に乗り出す。

そして1883年に毛細管現象を応用した
ペン芯を考案する。

「必要は発明の母」とは、こういうこと。



知られざる発明家たち⑤「ゼムクリップ」

第2次世界大戦中、ドイツ占領下のノルウェーでは
服に付けられたゼムクリップが
国民団結のシンボルだった。

なぜゼムクリップなのか。

それは、ノルウェー人ヨハン・バーラーが
ゼムクリップを考案したことに由来する。

ところが。

誰がゼムクリップを発明したのか、
実ははっきりしない。
古代ローマの時代にすでに存在していたという話もある。

しかし、それはそれ。

ノルウェーの人々にとって、
ヨハン・バーラーは特別な存在。
戦後、彼の功績を讃え、首都オスロの郊外に
巨大なゼムクリップのオブジェがつくられた。



知られざる発明家たち⑥「カッターナイフ」

戦後間もない大阪。

印刷会社の社員田岡良男は
いつものようにカミソリの刃で
紙を裁断していた。

しかし、カミソリの刃はすぐにボロボロになる。
ボロボロになった刃は捨てるしかない。

この無駄をどうにかできないか。

その時、田岡の頭に、
進駐軍の兵士からもらった板チョコが浮かんだ。


 駄目になった刃を、板チョコのように折って使えばいい。

こうして世界で初めて、
刃を折って使う仕組みのカッターナイフが生まれた。



知られざる発明家たち⑦「消しゴム」

1770年、イギリス人のジョゼフ・プリーストリーが、
ゴムに鉛筆の字を消す性質があることを発見した。

これが消しゴムの始まりといわれている。

消しゴムが可能にしたのは、
単に字を消すことだけではない。

人の誤りを訂正し、
書きなおせることも可能にしたのだ。

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ポケット社長とC1グランプリ

上の写真は
月刊ブレーンのC1グランプリ審査を手伝うポケット社社長
詳細はこちらへ http://nknk.exblog.jp/13583944/

下の写真は
なぜか社長に手伝わされているVisionメンバー小山佳奈

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佐藤延夫 10年05月01日放送


剣豪たち1/塚原卜伝(つかはらぼくでん)

秘剣「一の太刀」で
212人を手にかけたと言われる剣豪、塚原卜伝。

剣術は言うに及ばず、
心理戦も、また巧かった。

長い太刀を使う相手には、その欠点を説いて聞かせ、
片手突きを得意とする者には、
そんな見苦しい手はやめろと
門弟を遣わし、何度も申し入れた。

データ収集も忘れない。
相手が右太刀か左太刀か、癖は何かを
必ず調べさせてから勝負に臨んだという。

剣豪という域に達するには、
実力だけでなく、駆け引きも大切。

人生50年の戦国時代で
83歳まで生きるのだから、
塚原卜伝という男、
人生の術も心得ていたに違いない。


剣豪たち2/伊東一刀斎(いとういっとうさい)

戦国時代、一刀流を極めた剣豪、伊東一刀斎。

若かりし頃、
剣の師匠に向かって、こう言った。

   悟りとは、修業期間の長さではありません。
   一瞬のものです。

そうして三度立ち合い、三度とも師匠を打ち破る。
諸国修業の旅に出て、三十三戦負け知らず。

鬼夜叉の異名で恐れられた一刀斎、
生まれの地には諸説あり、
幼少期のエピソードはほとんど残されていない。

一説によると、94歳まで生きたという。
謎が多いほど、人は伝説に近づく。


剣豪たち3/松浦静山(まつうらせいざん)

肥前の国、第10代藩主だった松浦静山は、
剣術のひとつ、心形刀流(しんぎょうとうりゅう)の修業に心血を注いだ。

幼少から病弱だった静山、
剣術を始めたきっかけは、体質を改善するためだった。

心形刀流を極めたのちに
こう語っている。

  剣術を学ぶ者は、
  たとえその奥義に至らずとも
  養生のためにこれを修していくべきである。

静山は33人の子をもうけ、81歳まで生きている。
なるほど、剣術は滋養強壮に活かすこともできるのか。


剣豪たち4/男谷信友(おたにのぶとも)

斬るか斬られるかの世界にも、
“いい人”はいるものだ。

直心影流(じきしんかげりゅう)の剣豪、男谷信友。

性格は極めて温厚。
声を荒げることなど一度もなかったこの男、
三本勝負の他流試合では、
必ず一本、相手に勝ちを譲った。
それはもちろん、残りの二本は必ず取れるという腕前があったから。

ひとたび本気を出すと、
竹刀が生き物のように動き
相手を身震いさせたという逸話も残っている。

趣味は読書と絵画。
暇があると筆をとり
仲間や弟子に贈っていたそうだ。

本当に強い人、というのは
驚くほど柔らかな生き方をしている。

その後、江戸幕府の要職に招かれたのも
頷ける話だ。


剣豪たち5/浅利又七郎(あさりまたしちろう)

江戸時代、明眼(みょうがん)の達人と言われた剣豪、浅利又七郎。

試合になると、
相手に隙が見えても突くことをしない。
そして「私が勝ちました」と言い放つ。
相手が納得しないと
たちまち強烈な突きを繰り出し倒したという。

晩年、一度倒した剣豪、山岡鉄舟が
再び試合を申し込んだとき、
その構えを一瞥して竹刀を引いた。

  あなたの剣は極到に達せられた。
  もはや私の遠く及ばぬところです。

違いの分かる男とは、彼のことを言う。


剣豪たち6/山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)

幕末の剣豪、山岡鉄舟は、
苦悩の中で悟りを得た。

  剣を捨て、剣に頼らぬ者こそ
  真の剣の達人である。

それが、刀を持たない「無刀の真理」だった。

無刀流の極意とは、
春風を斬るようなものだという。

5月の春風に手を伸ばしてみよう。
何か悟りを得るかもしれない。


剣豪たち7/千葉周作(ちばしゅうさく)

北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の開祖、千葉周作は
道場の運営に成功した剣豪だ。

武者修行から戻り
日本橋に道場を建てた途端、
多くの門弟とスポンサーが集まった。
三年後には神田の一等地に道場を移し、
近くにあった塾を買収。
敷地を広げた揚げ句、
客人たちの宿舎まで設け、
江戸一番の道場にしてしまった。

  気は早く 心は静か 身は軽く
  目は明らかに 業は激しく

このわかりやすい指導法も評判だった。

晩年まで剣の腕前も一流だった千葉周作。
その経営手腕も、また一流。

今の厳しい世の中でも、きっと生きていけるだろう。

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