瓜生岩子 日本のナイチンゲール
福島に、
「日本のナイチンゲール」と
呼ばれた女性がいた。
日本の社会福祉の礎を
築いたと言われる瓜生岩子だ。
戊辰戦争によって、
戦火が岩松城下まで及んでいた時、
岩子は周囲の反対を押し切り、戦地へと赴き、
負傷者の救助に当たった。
味方だけではない。
敵の負傷者も分け隔てなく看護した。
その行為を敵軍の隊長に問われた岩子は、
こう答えたと言う。
「怪我の手当てをするのに誰の許可もいりませぬ。」
情けのすべてを、他人の為に捧げる。
その精神は、今も福島の人々の中に根付いている。
2018 年 3 月 11 日 のアーカイブ
礒部建多 18年3月11日放送
松岡康 18年3月11日放送
かがみ~
爆発する様な表現 佐藤伝蔵
青森の夏の夜を彩る、ねぶた。
魂が宿っているかの様な、顔の表情。
今にも動きだしそうな、迫力のあるフォルム。
現代のねぶたの顔の表情を作ったのは、
実は一人の天才の手によるものだった。
昭和のねぶた師、佐藤伝蔵。
かつてねぶたの顔のフォルムは、
竹で作られていたためのっぺりとしていた。
彼は針金の柔らかさを極限にまで活かすことで、
複雑で迫力のある表情を生み出した。
伝蔵は言った。
意識と意識がぶつかり合い、爆発するような表現が必要だ
伝蔵の意思を受け継ぐものたちの手によって、
今年も爆発するような表現が生まれる。
松岡康 18年3月11日放送
BehBeh
親子が生んだ桃源郷 阿部一郎
ある写真家が言った。
「福島に桃源郷あり」
そうまで言わしめたのは、
福島県福島市にある花の名所花見山公園。
春にはウメ、サクラ、レンギョウなどの花々が
丘を覆う様にいっせいに咲く。
実はこの公園、個人が所有する私有地なのだ。
所有者阿部一郎が父とともに
何年もかけて山を開墾し、花木を植えて作り上げた。
阿部は出来上がった美しい風景を多くの人に見てほしいと
一般の人々に開放をした。
自らの人生を花見山公園にささげた阿部は、
花についてこう語る。
花はね、ほめてもらえるのは一年のうち、
ほんのわずか五日間ほど。
あとの三百六十日は、根を下ろした場所で、じっと、だまっている。
でも春になれば、また花を咲かせるんです。
災害があったとしても、花は花なりに咲くんです
春はもうすぐそこ。
花見山公園の花たちが、今年も元気に咲く。
奥村広乃 18年3月11日放送
ktanaka
阿久悠 竜飛岬の赤いボタン
青森県、竜飛岬。
津軽半島の最北端。
ここには、赤いボタンがある。
それを押すと
『津軽海峡冬景色』が流れだす。
それもかなりの大音量で。
もしもあなたが、
この歌を熱唱したくなったら
青森県の竜飛岬へ
足を運んでみてはいかがだろうか。
この歌を作詞した阿久悠も
「無駄と遠回りほど価値のあることはないのだ。」と言っている。
風の岬とも呼ばれる竜飛岬では、
天気が良いと函館までよく見えるという。
澁江俊一 18年3月11日放送
金田一京助 アイヌ語の入口
数々の国語辞書の
編纂者として知られる金田一京助。
岩手県の盛岡に生まれ
石川啄木とも親友だった若かりし京助が
人生を賭けた研究テーマに
選んだ言葉は、アイヌ語だった。
「アイヌ語を研究するのは日本人の使命だ。」
教授からそう言われて
日本人初のアイヌ語研究者になると
心を決めた京助。
しかし文字を持たないアイヌ語は
まったく理解できなかった。
京助は考えた。
あえて訳のわからない絵を描いて見せ、
その反応からアイヌ語の「へマタ」という
言葉を聞き出すことに成功。
これは何?という意味である。
ここから膨大なアイヌ語の単語を
一つ一つ記録していった。
偉大な言語学者を一人前にした
「これは何?」という言葉も
とても偉大な一言である。
澁江俊一 18年3月11日放送
仙台四郎 商売の神様
仙台四郎という名前を
聞いたことがあるだろうか。
誰からも好かれていた
とても愛嬌のある笑顔で
明治時代に彼が
ふらりと訪れた店は必ず繁盛すると、
新聞が取り上げるほど人気だった。
彼が亡くなった後の
大正時代にはご利益を求めて
仙台四郎の写真を飾る店が増えた。
地元の仙台では今でも
商売の神様として人々から愛されている。
商店街のポスターやCMで
ひっぱりだこの仙台四郎。
スマホで気軽にものを
売り買いすることが増えた昨今
一儲けしたいあなたは
仙台四郎の笑顔に
力をもらってみるといい。
奥村広乃 18年3月11日放送
小山 優子 青森の青いりんごジャム
りんごといえば赤い。
そんな常識が覆されてしまいそうな
りんごジャムが、青森県にある。
「青い森の天然青色りんごジャム」。
そう、青いジャム。
空よりも深いその色は、
白神山地の青池を思わせる。
青色は、天然由来。
インドのハーブ「アンチャン」で
染められている。
「この美しい青で、頑張っている女性を癒したい」
青森で英会話教室の先生をしていた
小山優子さんが生みの親。
味は青森らしいりんご味。
透き通る宝石のようなジャムである。
礒部建多 18年3月11日放送
淡谷のり子 じょっぱりシャンソン
津軽の人々の気性を表す言葉として、
「じょっぱり」が有名である。
強情っぱりで頑固である、と言う意味だ。
そんな言葉を正に体現した人物が、
シャンソン歌手の淡谷のり子であった。
淡谷は、服も配給制だった時代に、
ロングドレスを纏い、
アイシャドウやステージ用メイクを施していた。
決して見栄なんかではない。
大日本帝国軍から、
ノーメイクとモンペ姿で
歌うことを強いられたにも関わらず、
自分のスタイルを貫いた。
せっかく兵隊さんたちが夢を求めているのに、
きたならしいもんぺをはいて、
化粧もしないで「別れのブルース」歌えますか。
淡谷のその頑なな信念に、
どれだけの兵士たちが勇気をもらったことだろう。