2018 年 10 月 のアーカイブ

松岡康 18年10月14日放送

181014-05

江戸の大物プロデューサー

広重、北斎、歌麿、写楽。
浮世絵師と聞けば、著名な天才絵師が何人も思い浮かぶ。

この誰もが知る浮世絵師たちの陰に、
江戸時代の敏腕プロデューサーがついていたということは
あまり知られていない。

蔦屋重三郎。
浮世絵や本を出版する版元をしていた彼は、
時代をいち早く察知し、発信することに長けていた。

歌麿や写楽、葛飾北斎など、
才能あふれる新人を発掘しては、流行作家に育て上げていった。

彼のプロデュースによって、江戸の文化、
世界の絵画は大きく進化した。

重三郎なくして、今の美術界はあり得ない。
プロデュースも立派な才能なのだ。

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奥村広乃 18年10月14日放送

181014-06

浮世絵の中にいる人

浮世絵師 歌川広重。
日本各地の風景を大胆な構図で描き上げた。
『東海道五十三次』を
教科書で見た人も多いだろう。

それらの風景の中には、
そこで暮らす人が描かれている。

降りしきる雪の中、背中を丸めて歩く旅人。
裸になって海ではしゃぐ子供。
傘をさして立ち話をする女性。
酔っ払って醜態を晒す人。
眠りについた子を背負う父親。

200年近く前に描かれた浮世絵の中に、
今と変わらない人の営みを感じる。

人間の根っこのところは、
時代や服装が変わっても、
そう変わらないのかもしれない。

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礒部建多 18年10月14日放送

181014-07

浮世絵を育てた男

菱川師宣、葛飾北斎、歌川広重。
浮世絵を、日本を代表する芸術へ押し上げたのは、
彼らのような絵師の功績だけではない。

美術商だった林忠正。
ジャポニスムに沸くパリを拠点に、
世界中を周り、日本美術を広めた。

当時はまだ価値も知られていなかった、
数多くの浮世絵作品を海外に流出させ、
巨額の富を得た為に、国内で反感を買った。
売国奴と呼ばれたこともあった。

しかし海外からの評価が上がったことで、
国内でも一級の芸術品として、
広く認識されるようになったのだ。

絵師たちが生んだ作品を、林が名作へと育て上げた。
そう言っても過言ではない。

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礒部建多 18年10月14日放送

181014-08

葛飾北斎の発想

色鮮やかで、描写も構図も自由な浮世絵。

葛飾北斎は、誰よりも枠にとらわれず、
見る人を驚かせた。

徳川家斉に呼ばれ、
御前で即興の絵を書いていた時のこと。

細長い紙に、刷毛で藍色を塗ると、
籠に入れてきた鶏の足に朱色を塗って、
紙の上を歩かせた。
「これはこれ竜田川の景色なり」と言い残し、
その場を去ったという。

一つ一つの足跡が、
まるで清流に流れる紅葉のように見えたのだ。

「絵は筆で書く」、
そんな常識すらも超越する創意工夫が、
庶民だけでなく、時の将軍さえも驚嘆させた。

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河田紗弥 18年10月13日放送

181013-01
Photo by AdamSelwood
ちょっと不思議な「いただきます」 〜トマト〜

時は、大航海時代。
ジャガイモやトウモロコシ、唐辛子などともに
新大陸から旧大陸に伝わったのがトマト。

しかし、猛毒をもつベラドンナに似ていたため、
当時、毒を持つ植物と信じられ、食用にされなかったという。

この誤解を解いたのは、

飢餓に苦しむ南イタリアの青年であった。

空腹に耐えかねた青年は、
トマトを食べてみたところ、
毒がないどころか、美味しいことを発見した。

こうして、トマトは、
地中海沿岸の南ヨーロッパを中心に広まっていき、
マルタの主要農産物のひとつになっていった。

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河田紗弥 18年10月13日放送

181013-02

ちょっと不思議な「いただきます」 〜トマト〜

南米原産のトマトが
北米で食べられるようになったのは、
ヨーロッパよりも更に200年以上後のこと。

1820年、
ニュージャージー州の農場主であった
ロバート・ジョンソン大佐は
当時信じられていたトマトには毒がある、という説を否定するために
自ら命を張ることを決めた。

町の裁判所前に、人々を集めて、トマトを食べてみせたのだ。
この様子を見て、気絶してしまう人もいたんだとか。

後に、このジョンソン氏の勇気ある行動をたたえ、
ジョンソン・デーというお祭りが開催されていたとも言われている。

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河田紗弥 18年10月13日放送

181013-03

ちょっと不思議な「いただきます」 〜ポテトチップス〜

19世紀半ば。
ニューヨーク州のリゾート地サラトガ・スプリングスでのこと。

この地でシェフをしていたジョージ・クラム氏は
ある客に苛立ちを覚えていた。
というのも、わがままな客が、
クラム氏が作ったフレンチポテトが分厚すぎて気に入らないと言ったのだ。

仕方なく、薄く切って揚げたフレンチポテトを出しても、
まだ気に入らないと、
何度もやり直しをさせられた。

頭にきたクラム氏は、
皮肉を込めて、フォークでさせないくらいに
思いっきり薄くスライスしたジャガイモを揚げて出したところ、
これが大好評!

いまやおやつの定番であるポテトチップスは
こうして生まれたのであった。

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河田紗弥 18年10月13日放送

181013-04
Photo by [puamelia]
ちょっと不思議な「いただきます」 〜肉じゃが〜

日本帝国海軍が広めた料理は、カレーライスだけではない。

日本海軍のリーダーのひとりで、
日清日露戦争で大活躍をした東郷平八郎は、
ある日艦上で
「イギリスで食ったビーフシチューの味が忘れられん!作れ!
牛肉、ジャガイモ、人参が入っておった。」
とコックに命じた。

しかし、コックにはビーフシチューの知識がなく、
また材料もなかったため、
あり合わせの材料で、コックのイメージするビーフシチューをつくりあげた。

こうして完成したのは、
ビーフシチューではなく、現在の肉じゃが。

リクエストした東郷の想いは叶わなかったものの、
洋食の味にへきえきしていた他の乗組員たちは、大層喜んだという。

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河田紗弥 18年10月13日放送

181013-05
Photo by GeoTrinity
ちょっと不思議な「いただきます」 〜シリアル〜

アメリカ人の朝食の定番とも言える「シリアル」
このシリアルは、あるひとりの男の失敗によって生み出された。

ウィル・キース・ケロッグは
医学博士の兄に頼まれ、
研究助手や患者の食事の調理を受け持っていた。

ある日、パン生地の主要な原料である茹でた小麦をほったらかしにして
数時間後に慌てて戻ってみると、
小麦がフレーク状になっていた。

興味を持ったケロッグ氏は、
フレーク状態になったその小麦を焼いてみたところ、
カリカリのスナックが出来上がったのだ。

患者たちに食べてもらうと、これが大好評!
ケロッグはこれを大量生産することを決め、
現在のケロッグ社が誕生したのであった。

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大友美有紀 18年10月7日放送

181007-01
Photo by ajari
「低い山・近い山」 八王子市・高尾山

ミシュランの三ツ星を獲得した高尾山。
東京の小学生にとって、そこは遠足の山だ。
初心者向けから上級者好みのコースまで、
高尾山には10を超える登山コースがある。
標高599メートル。
低学年の子どもたちは、ケーブルカーかリフトで
中腹まで登り、そこから1時間ほどかけて山頂まで行く。
学年が上がるにつれ、難易度の高いコースを登っていく。

 中腹の駅まで
 ケーブルカーで約6分
 リフトなら12分ほど。
 
駅を出ると高尾山ビアマウントがある。
大人の遠足では、ここを素通りする方が
難易度が高いだろう。

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