蛭田瑞穂 13年2月17日放送



BAUHAUS 1限目「開校」

1919年、近代建築の巨匠ヴァルター・グロピウスが
ドイツに設立した、総合造形学校「バウハウス」。

「バウ」はドイツ語で「建築」を表す。
同じく建築を表す「Architektur」には
アカデミックなニュアンスがあるのに対し、
「バウ」にはより手工芸的な意味合いがある。

バウハウスの設立に際して
ヴァルター・グロピウスはこう宣言している。

 建築家、彫刻家、画家、我々は皆、
 手工業に立ち返らなければならない。
 芸術家は職人の延長上にあるのだ。

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蛭田瑞穂 13年2月17日放送



BAUHAUS 2限目「Futura」

ドイツの総合造形学校バウハウスの講師、
パウル・レナーがデザインした書体「Futura(フーツラ)」。

シンプルさとモダンさを兼ね備えたFuturaは
1927年に開発されると広く普及し、
現在でもルイ・ヴィトンを始めとする
多くのブランドのロゴで使用されている。

Futuraとは英語のFutureの意味。
名前の通り、そのモダンさは21世紀の今も褪せることがない。

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蛭田瑞穂 13年2月17日放送


eston
BAUHAUS 3限目「バルセロナチェア」

20世紀のデザインに多大な影響を与えた
ドイツの総合造形学校「バウハウス」の第3代校長
ミース・ファン・デル・ローエ。

ミースは世界的な建築家であると同時に、
優れた家具デザイナーとしても知られる。

1929年に開催されたバルセロナ万博で、
ドイツパビリオンの設計を任されたミースは、
館内にスペイン国王を迎えるための椅子を設置した。

当時では珍しいスチール製のフレーム。
真っ白な山羊革のクッション。
斬新なデザインの椅子だった。

ミースの椅子は万博の終了とともに取り壊されたが、
のちに市販品として復刻された。

現在では「バルセロナチェア」と呼ばれ、
モダンデザインの最高傑作と賞されている。

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蛭田瑞穂 13年2月17日放送



BAUHAUS 4限目「山脇巌」

1919年に設立されたドイツの総合造形学校
「バウハウス」には、日本からの留学生も学んだ。
建築家の山脇巌もそのひとりである。

1930年、妻の道子とともにドイツに渡った山脇は建築を専攻し、
世界的な建築家ミース・ファン・デル・ローエに学んだ。

帰国後、山脇は日本大学藝術学部の設立に尽力し、
多くの芸術家、クリエイターを育成する礎をつくった。

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蛭田瑞穂 13年2月17日放送


hugovk
BAUHAUS 5限目「ワシリー・チェア」

1919年にドイツに設立された総合造形学校「バウハウス」。

ハンガリー出身の家具デザイナー、マルセル・ブロイヤーは
1920年から4年間、バウハウスの家具工房に学び、
その後バウハウスの講師も務めた。

マルセル・ブロイヤーの代表作が1925年に製作した、
「ワシリー・チェア」と呼ばれるスチールパイプ製の椅子。
この「ワシリー・チェア」がパイプ椅子の原型といわれる。

簡単に持ち運べ、簡単に折りたためるパイプ椅子の登場は、
巨大なホールに人を集める国際会議やイベントの開催を容易にした。

椅子を単に座るための道具から、
人々のコミュニケーションを助ける道具にする。
デザインにはそのような力もある。

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蛭田瑞穂 13年2月17日放送



BAUHAUS 6限目「抽象画」

抽象画の始祖、ワシリー・カンディンスキー。

カンディンスキーは当初、風景画を描いていたが、
しだいに具象から離れ、単純化された形と色彩から構成される
抽象画に傾倒していった。

絵画とは、直接的に感情に訴えかける音楽のようなものでなければならない。
それがカンディンスキーの信念だった。

抽象画家としての地位を確立したのち、
カンディンスキーはドイツの総合造形学校バウハウスで教鞭を執り、
後進の育成に努めた。

バウハウスでのカンディンスキーの絵画クラスは
多くの学生を集める人気の講座だったという。

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蛭田瑞穂 13年2月17日放送


Marc Wathieu
BAUHAUS 7限目「芸術とは」

1919年にドイツに設立された総合造形学校「バウハウス」の講師に
モホリ・ナギというハンガリー出身の芸術家がいた。

写真やデザイン、彫刻など広範囲に渡って
先駆的な創作活動を行なうモホリ・ナギは、
バウハウスの教育理念を体現する人物だった。

芸術とは何の役に立つのか?
しばしば問われる疑問に対し、モホリ・ナギはこう述べている。

 芸術は感覚の研磨機であり、
 観察力や理性、そして感受性を強くする。

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蛭田瑞穂 13年2月17日放送



BAUHAUS 8限目「閉鎖」

ドイツの総合造形学校「バウハウス」は
1919年の設立からわずか14年で閉校した。

バウハウスが運営されていたのはふたつの世界大戦の間。
ドイツ国内外の政治動乱に翻弄され、
最後はナチスによって閉鎖に追い込まれた。

閉鎖後、講師の多くはアメリカに渡り、バウハウスの教育を世に伝えた。
その教育が20世紀の建築、デザイン界に与えた影響は計り知れない。

バウハウス最後の校長、ミース・ファン・デル・ローエはこう語る。

 バウハウスはひとつの理念だった。
 理念のみがかくも大きく広がる力を持つのである。

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佐藤理人 13年2月16日放送


hugovk
ミカ・ハッキネン①「運転免許」

 フィンランド人を雇えば勝てる

モータースポーツ界にはそんな格言がある。

彼らの運転技術が優れている理由。
それは免許に真剣に取り組む姿勢にある。

濡れた路面や夜間の走行も含め、
免許取得にはなんと3年もかかるのだ。

F1王者に2度輝くフィンランド人レーサー、
ミカ・ハッキネン。

 コーナーは考えながら攻めるのか?

そう聞かれた彼は笑って答えた。

 僕らは子供の頃から走ってるから
 自然と身に付いているのさ。

 イギリス人が25歳になって
 クリケットを習いはじめても、
 真髄を習得するには遅すぎるだろ?

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佐藤理人 13年2月16日放送


camera-caritatis
ミカ・ハッキネン②「シス」

フィンランドはSで始まる4つの言葉で有名だ。

サウナ、シベリウス、サンタクロース。
そしてシス(Sisu)。

 フィンランド魂

を意味するこの言葉を訳するのはとても難しい。
英語の「ファイティングスピリット」に近いが、
本来の意味はもう少し複雑だ。

厳寒の長い冬を乗り切るたくましさと、
数百年に及ぶ他国の支配を耐え抜いたしたたかさ。
それは過酷な歴史の中で、
埋み火のように燃え続けてきた不屈の執念だ。

かの国が生んだ最高のレーサー、
ミカ・ハッキネンは言う。

 フィンランドは冬が長い。
 でも解っているんだ。
 太陽は必ず輝く、とね。

どんな劣勢でも
勝負を絶対にあきらめなかったハッキネンは、
あのF1最速の皇帝、

 ミハエル・シューマッハが最も恐れた男

として知られている。

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