蛭田瑞穂 10年09月19日放送



宇宙のはなし①「ムーンイリュージョン」


ビルや山の合間にあらわれた月が、
いつもより大きく見えたことはありませんか?

地平線の近くにある月が、
真上にある月より大きく見えるこの現象。
名前を「ムーンイリュージョン」という。

なぜ大きく見えるのか。
アリストテレス、プトレマイオス、デカルト、ガウス、
古代から名だたる賢人たちがこの不思議の解明を試みた。

目の錯覚、光の屈折、心理作用。
さまざまな説があるけれど、
こんな幻想的な謎は、できれば謎のままにしておきたい。









宇宙のはなし②「レイリー卿」


空はどうして青いの?
そんな質問をされたら、あなたはなんて答えますか?

空の青さ。
それは光の性質に関係がある。

太陽の光は地球に届くと、大気中の塵にぶつかって反射をする。
あらゆる色が存在する光の中でも、青色の光は波長が長く、
さまざまな角度に反射して拡散する。
そのため、空一面が青く見えるのだという。

この原理を発見したのは
イギリスの物理学者ジョン・ウィリアム・ストラット。
男爵だった彼は、「レイリー卿」の通称で呼ばれていたため、
この光の作用も「レイリー散乱」と名づけられた。

空が青い理由。
それは、つまり、こういうわけなのです。





宇宙のはなし③「川口淳一郎」


2003年に打ち上げられた惑星探査機「はやぶさ」。
そのミッションは地球から3億キロ離れた
小惑星イトカワに着陸し、表面のサンプルを持ち帰ること。

そのサンプルには46億年前、
太陽系誕生の秘密を解く鍵が隠されているという。

月以外の惑星からサンプルを持ち帰る、人類初の壮大な試み。
それだけに度重なる危機がはやぶさを襲った。

姿勢制御装置の故障、通信機能の不能、イオンエンジンの停止。
しかし、その度にはやぶさは危機を乗り越え、
ついに2010年6月13日、再びその姿を地球にあらわす。

最後の大仕事は、サンプルを入れたカプセルの切り離し。
それに無事成功すると、はやぶさはそのまま大気圏に突入。
花火のように燃え尽きた。

はやぶさプロジェクトのマネージャー、川口淳一郎はこう語る。


 絶望的な危機を何度となく乗り越え、
 カプセルを地球に送り返す大役を成し遂げたあとで、
 みずからは日本国民の心に残る“不死鳥”になったのです。






宇宙のはなし④「ジョージ・ガモフ」


宇宙のはじまりは超高密度で、超高温の小さな火の玉だった。

1946年にアメリカの物理学者
ジョージ・ガモフが提唱した「ビッグバン理論」。

だが当時の科学者の多くはその説に否定的だった。

「ドカンという爆発から宇宙が生まれたとでもいうのかね?」。
「ビッグバン」という名前もそんな皮肉からつけられた。

しかし現在、ビッグバン理論は
宇宙の起源に関するもっとも有力な説。

コペルニクスの昔から、
常識を覆す発見はなかなか理解されないらしい。





宇宙のはなし⑤「オルバースとハッブル」


どうして夜空は暗いのだろうか。
太陽が出ていないから?
どうやら話はそう簡単ではないようだ。

19世紀の天文学者ハインリヒ・オルバースは
こんな疑問を投げかけた。


 もし宇宙が無限であり、無限の星が存在するなら、
 無限の星の輝きで夜空は明るくなるはずだ。


これを「オルバースのパラドクス」という。
あきらかな矛盾とわかりながらも、
誰も矛盾を解決できなかった。

このパラドクスに答えが出たのは、
20世紀になり、天文学者エドウィン・ハッブルが
「ハッブルの法則」を発表してから。


 すべての銀河が私たちから遠ざかり、
 しかも、遠くにある銀河ほどより速い速度で遠ざかる。


つまり、宇宙は光より速い速度で膨張している。
そのため、すべての星の輝きが地球に届かないのだ。

夜空の暗さ。
それはこの瞬間も宇宙が膨張を続けていることの
たしかな証なのである。





宇宙のはなし⑥「小柴博士」


「この世に摩擦がなければどうなるか?」
こんな問題を出されたら、あなたはなんと答えますか?

ニュートリノの検出による多大な功績で、
ノーベル物理学賞を受賞した、小柴昌俊博士。

博士が大学院時代、高校の試験に出題したのが、
「この世に摩擦がなければどうなるか?」という問題。

答えは、「白紙の答案」。

摩擦がなければ、鉛筆の先が滑って答えが書けない。
ゆえに白紙の答案が正しい解答なのだと言う。

科学者の頭はやはり型破りである。





宇宙のはなし⑦「アルベルト・アインシュタイン」


宇宙観測の歴史は、
17世紀の初めに、ガリレオ・ガリレイが
手づくりの望遠鏡を覗いたことがはじまりと言われている。

それ以来、人間は地球という小さな星の中から
広大な宇宙を眺め、その謎を突き止めようとしてきた。

相対性理論を完成させ、
「現代宇宙論の生みの親」と呼ばれる、
アルベルト・アインシュタインは言う。


 この宇宙でもっとも理解不能なこと、
 それはこの宇宙が理解可能であることだ。






宇宙のはなし⑧「カール・セーガン」


作家、カール・セーガン。
地球外生命体との接触を描いたSF映画『コンタクト』の原作者。

彼はフィクションの中だけでなく、
現実の世界でも宇宙との交信を試みた。

1972年、セーガンは地球と人類に関する情報を金属板に描き、
木星探査機パイオニア10号の機内に取り付けた。

それは人類が初めて送った宇宙への手紙だった。

残念ながらセーガンは
その成果を見届けることなく1996年に他界する。

だが、木星の探査を終えたパイオニア10号は、
地球から53光年離れた恒星アルデバランに向かって
現在も旅を続けている。

私たちの知らない誰かに見つけられるために。


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小宮由美子 10年09月18日放送



ハワイアン・ヒストリー
〜フラの母、マイキ・アウイ・レイク


現在活躍している多くのフラ指導者を育て、
「フラの母」とも呼ばれるマイキ・アウイ・レイク。

彼女が、生前いかに魅力あふれる、愛された女性だったかを
知る手がかりは、フラソング『プア・リリレフア』の中にある。

 あなたはどこに
 リリフレアの花よ
 大切なあなたを想う気持ちで
 僕の頭はいっぱいだ


今も歌い継がれ、踊り継がれるこの切ない名曲は、
ひとりの男性からマイキに捧げられた、ラブレターなのだそうだ。





ハワイアン・ヒストリー
〜キャプテン・クックの出会った住民


「彼らの視線はさまざまなものの間を
 きょろきょろと動き回った。
 見慣れない物を前にした時のそのふるまいを見ていると、
 彼らが驚嘆していることは歴然とわかった。
 かつて一度も船という物に乗ったことがないのは明らかだった」


1778年、ハワイ諸島に上陸したキャプテン・クックは、
島の住民たちの様子をそう記録している。

初めて出会うヨーロッパ人たちに、ハワイの人々は友好的だった。
最初はカヌーで、おそるおそる艦隊の船を遠巻きにしていたが、
翌日になるともう、船の中に乗り込んでいったという。

彼らが最初に取り引きしたものは、
真鍮のメダルと一尾のサバ。

この出来事を境に
やがて、ハワイの歴史は大きく変わっていくことになる。





ハワイアンたち
〜ギャビー・パヒヌイ


ギターの弦をゆるめて、独特の響きを作り出す
「スラッキー・ギター」。

19世紀末に、ハワイのカウボーイたちが好んだ演奏方法だが、
やがて衰退。それを復活させたのが、ギャビー・パヒヌイだった。

1955年、ハワイ語で歌った『ヒイラヴェ』が大ヒット。
ネイティブ・ハワイアン文化の復興をねがう人々に
ギャビーは熱烈な支持を受けた。

音楽での成功が、経済的な成功に結びつくことはなく、
生涯、建設現場の労働で生計を立てていたというギャビー。

同時代のミュージシャンたちに尊敬され、愛され、
いつも、たくさんの人たちに囲まれていたというギャビー。

彼の音楽はいま、世界的に高く評価され、
ギタリストになった彼の息子スィロにも、その魂が受け継がれている。





ハワイアン・ヒストリー
〜ナイノア・トンプソンと、ホクレア号


星と太陽。風と、うねり。海面の色や、空を飛ぶ鳥など、
自然が与えてくれるサインだけをたよりに大海原を航海する
「スターナビゲーション」。
古代ポリネシア人が数千年前から継承してきたこの伝統航海術で
<ホクレア号>は、いくつもの航海を成功させてきた。

最新の技術に頼らずに、あえて古来の技に従い、昔ながらのカヌーで漕ぎ出す。
クルーとして乗り込むハワイアンたちにとって、それは勇敢に海を渡って世界
を広げてきた先祖の文化の継承であり、その精神を学ぶこと。

「この世の中で起こっているドラマの、その向こうを見ることが
 できる人間が必要なんです」

そう語るのは、ホクレア号の航海士、ナイノア・トンプソン。

「伝統を蘇らせるのは大事だが、それを教育によって次の世代に
伝えるのは、もっと大事だ」
「それが、ホクレア号の航海の、本当の目的だ」

今、ハワイの若い世代にとって、クルーになることは憧れ。
オアフでは今日も、選ばれた候補たちが、次の航海に向けた
厳しく長いトレーニングを積んでいる。





ハワイアン・ヒストリー
〜摂政カアアフマヌ


 女も、バナナを食べていい。
 男と女は、一緒に食事をしてもいい。


それまでハワイにあった宗教的なタブーを変えたのは、
カアアフマヌという女性だった。
大王の21人の妻の中で最も愛され、信頼されていたという
彼女は、まず自分でそのタブーを破ってみせた。

民衆も、この変化を受け入れた。
タブーを破っても、雷は鳴らなかったし、
神の怒りが下ることがなかったから。

1819年。ハワイの近代化が始まろうとしていた頃の話。







ハワイアン・ヒストリー
〜カメハメハ大王


「醜いと呼んでもいいほど勇猛な顔立ち。だが、非常に知的で
 観察力に富み、良い性格をしている」


ハワイに上陸したキャプテン・クックの部下、ジェイムズ・キングは、
当時、青年だったカメハメハを、こうあらわしている。

1753年頃、ハワイ島の北部で生まれ、
ずば抜けた体力と知力で頭角をあらわしたカメハメハ。

のちに、歴史上はじめてハワイ諸島の統一を成し遂げ、
ひとつの王朝をつくりあげた彼の写真は、残っていない。

銅像や肖像画はいくつも残されているが、どれも顔が違う。
戦いのないハワイの黄金時代を築き、
民衆からも愛されたという王は、どんな顔立ちをしていたのだろう。

1819年5月8日、カメハメハは世を去った。
墓所は秘密にされ、今も知られていない。





ハワイアンたち〜
リリウオカラニ


あの、有名な『アロハ・オエ』。
作曲したのが、ハワイ王国最後の女王だということは
あまり知られていない。

リリウオカラニ。

彼女が、王であった兄のあとを継いで即位したとき、
力を増しつつあったアメリカ勢力によって、
ハワイ王国は崩壊寸前だった。
1895年、ハワイの復権を試みて、武力蜂起が起きるが、
簡単につぶされる。リリウオカラニは、白人勢力に対する
反乱の首謀者として逮捕され、軟禁された。
ハワイ王国の滅亡。

そんな激動の人生の中で、
リリウオカラニが残した『アロハ・オエ』。
別れを歌うこの曲は、
アメリカへ吸収されていく祖国への悲しみの歌ともいわれている。

 甘い記憶が私に帰ってくる
 過去の思い出が鮮やかに蘇る
 親しいものよ、おまえは私のもの
 おまえから真実の愛が去ることはない
 アロハ・オエ、アロハ・オエ

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三島邦彦 10年09月12日放送




人と、壁。/ラスコーの洞窟壁画


歴史的な発見のきっかけは、
犬が穴に落ちたことだった。

1940年9月12日。
フランスのある田舎町の森の中で、
少年たちが犬と遊んでいた。
森には数年前の落雷で空いた穴があり、
そこに犬が落ちてしまったのだ。

犬を助けようと穴に降りると、
穴は、洞窟につながっており
少年たちはその壁に牛や馬、鹿の絵を見つける。

ラスコーの洞窟壁画発見の瞬間だった。

一万五千年の時を経て、洞窟の壁が、
少年とクロマニヨン人を結びつけた。









人と、壁。/ロジャー・バニスター

1マイル、約1609メートル。
半世紀前、この距離を4分以内で走ることは、
人類が決して越えられない壁だと言われていた。

あるスポーツ記者は、
「人類が南極点と北極点に到達し、
ナイル川の源流を発見し、海の最深部に達し、
未開のジャングルを踏破した現在も、
1マイル4分という領域はいまだ未踏のまま、
多くの者たちの努力を拒み続けている。」という記事を書いた。
ある医者は、1マイル4分は人体の限界であり、
その挑戦は生命に危機を及ぼすこともあると警告を発した。

しかし、その壁は破られた。

1954年、イギリスの大学生ロジャー・バニスターが、
1マイルを3分59秒4で走り抜けたのだ。

この2ヶ月後、
ジョン・ランディという選手が3分58秒0の世界新記録を出し、
つづく1年の間に23人ものランナーが1マイル4分の壁を破った。

誰かが壁を超えたとき、そこにもう壁はなくなる。
ロジャー・バニスターは、
1マイル4分の壁から人類を自由にしたのだ。





人と、壁。/ウォーレン・バフェット

ニューヨーク、ウォール街。

壁の街という名前は、この街を作ったオランダ人が
外敵の侵入を防ぐために
材木で壁を築いたことに由来する。

2008年にはビル・ゲイツを抜いて
世界の長者番付第1位に躍り出た天才投資家、
ウォーレン・バフェットは
ウォール街から1万キロ離れたところに住んでいる。
そして、こんなことを言う。

みんなが貪欲になっている時は警戒しろ。
みんなが警戒している時は貪欲になれ。

ウォール街の逆をいって富を築くのも
また壁を味方にしたといえるだろうか。





人と、壁。/富山県警山岳警備隊

山を見ると、登りたくなる。
壁を見ると、越えたくなる。

そんな登山家の聖地は飛騨山脈、通称北アルプス。
その厳しく切り立つ岩肌は、山と言うよりもはや壁。
どんなベテランの登山者でも
思わぬ事故に遭遇することもある。

しかし、そこには富山県警山岳警備隊がいる。
富山県警山岳救助隊は1965年に結成され
隊員数27人。救助した人は3,000人。
日本一の山岳警備隊と呼ばれ、
「落ちるなら、富山側へ」と言われるほど登山者の信頼は厚い。

想像を絶するような過酷な状況での人命救助の場で
人体の限界という壁に直面した時、彼らを支える言葉がある。

苦しくても、苦しくない。 

彼らもまた、壁を越えているのだ。





人と、壁。/ネルソン・マンデラ

倒れている時、地面は壁になる。
壁をなくすには、立ちあがればいい。
立ちあがった時、地面は壁ではなく、道になるから。

南アフリカ共和国の元大統領、ネルソン・マンデラ。
人種の壁と闘い続けた彼は、こんな言葉を残している。

転ばないことより、
転ぶたびに立ちあがること。
そこに人生の輝きがある。

倒れることを、恐れない心。
それが、壁を道に変える極意のようです。



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三國菜恵 10年09月12日放送



人と、壁。/坂口弘

坂口弘は
死刑を言い渡されて7年が過ぎようとしている。

彼は、拘留所のなかでペンを執り
短歌を書きつづけた。
そしてそれを、新聞の寄稿欄に投稿していた。

定期的に届く歌に
多くの人がハッと心を動かされ、
気づけば、彼は歌壇の「常連」になっていた。

紙を滑る筆ペンの音の心地よさよ 房(ぼう)にも秋はひそやかに来ぬ

彼の短歌は一冊の本になって
壁の外で、ささやかな脚光を浴びている。





人と、壁。/ピーター・ブルック

イギリスの舞台演出家、ピーター・ブルック。
彼は、なにもない空間に可能性を見出すことによって
伝統の壁を軽々と超えた。

 どこでもいい、なにもない空間―
 それを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。
 ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、
 もうひとりの人間がそれを見つめる―演劇行為が成り立つためには、
 これだけで足りるはずだ。

いままで誰も見たことがなかったピーター・ブルックの演劇を
言い表す言葉はどこにもなかった、
それはいま、ふたつの言葉で表現されている。
「古典的、かつ、前衛的」





人と、壁。/中村一義

自らつくった心の壁が、
自らを閉じ込めてしまうこともある。

ミュージシャン・中村一義にもそんな時期があった。
自分の部屋をスタジオにして閉じこもり
壁のように閉ざしたドアの向こうで
ひとり聴きつづけた心の声。

自分の心に光をあてたその歌に救われた若者は多い。

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細田高広 10年09月11日放送



ストラディバリウス

現代の技術をもってして、
何故300年も前のヴァイオリン、
ストラディバリウスを越えられないのか。

その秘密を解き明かそうと、
いくつもの科学者チームが分析をしてきた。

木材に秘密がある。ニスの塗り方が決め手だ。
いくつもの仮説は生まれた。
しかし、ストラディバリウスには近づけない。

ヴァイオリニスト
イツァーク・パールマンは言う。

ストラディバリウスは ”音”を持っています。
すでに音楽がそこにある。
自分は弓を楽器の弦にのせて動かすだけで、
音楽が流れ出てくるのです。

科学はまだ、感性を超えられない。









レス・ポール

3度のグラミー賞を
受賞した音楽家にして、
発明家の殿堂入りも果たした男。

レス・ポール。

彼が生まれなければ、
B.Bキングも、ジェフ・ベックも、
キース・リチャーズも生まれなかった。

彼のギターを愛する男を並べれば、
アメリカの
ポピュラー音楽史になってしまう。

94歳で無くなるまで、
毎週月曜日にイベントを開催し、
現役でギターを弾き続けたレス・ポール。

彼は、語る。

成功する秘訣は、
今より少しだけ上を目指すこと。
これを続けることだね。

天国でもきっと、
レス・ポールは鳴りやまない。





スティーブ・ヴァイ

 譜面はモナリザよりも美しい

と言ったのは、
ギタリストのスティーブ・ヴァイ。

フランク・ザッパから技術を学び、
バークレー音楽院で理論武装をした。

奇抜な衣装を身に纏い、
長髪をたなびかせるその姿。

3本のネックがついたギターから
繰り出される、
ギターの制約や定石を完全に無視した
フレーズの数々。

そんなスティーブ・ヴァイを
ファンたちは変態ギタリストと呼ぶ。

「上手」や「かっこいい」を追い求めても、
新しい音楽は生まれないから。

「変態」は、音楽家にとって
最大の誉め言葉かもしれない。





久保田五十一(いそかず)

バット職人、久保田五十一。

父親が51歳の時に生まれたから、
五十一と書いて、「いそかず」と読む。

51という数字の魔力だろうか。
彼は「51番」を背負うある男と
運命の出会いを果たす。

メジャーリーグのシアトルマリナーズで活躍する、
イチロー選手だ。

木を見極め、精巧な技術を駆使してバットを仕上げる。
イチロー選手は、そんな久保田がつくるバットしか使わない。

それでも久保田は、控えめに言う。

バッターと木が主役。私は脇役です。

10年連続200本安打への期待がかかる今年。
イチロー選手と久保田の記録は、
どこまで伸びるだろうか。

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八木田杏子 10年09月11日放送



あるお婆さんと蝉

都会と田舎では、セミの鳴き方も違うらしい。

青森の八戸から東京に来たお婆さんは、
排気ガスに咳き込みながら、
セミの鳴き声が違うことに気がついた。

わずかに残された木々にしがみついて、
せわしない鳴き声をたてる東京のセミ。

そんなセミも、
山にかこまれた田んぼが青々と広がる場所では、
のんびりと鳴いているらしい。

明日は日曜日。
せめて、一日のんびりと過ごしませんか。





ある教師の宿題

夏休みを振り返ってみよう。

頑張った夏は、これからのチカラになる。
さぼった夏は、これからもずっと足をひっぱる。

ある小学校の先生は、
漢字ドリルをやらなかった子供に、
その何倍もの夏休みの宿題を出していた。

おどろいた親に、先生はこう言った。

私は厳しいから、
そのときは恨まれるけど、
あとから感謝されるんです。

やり残した夏の課題は、ありませんか。
まだきっと、間に合いますよ。





ある歌手とサトウキビ

昭和20年の夏
沖縄には270万発の銃弾と6万の砲弾が撃ち込まれた。
ロケット弾は2万、機関銃の弾はおよそ3000万発だそうだ。

それでも沖縄の海は青い。
空も高くぬけるように青い。
あの年の夏も、きっと青かっただろう。
さとうきび畑の風も
きっと同じように吹いていただろう。

沖縄から生まれたバンド「かりゆし58」は、
「ウージの唄」に想いをこめる。

ウージの小唄ただ静かに響く夏の午後
あぜ道を歩く足を止めて遙か空を見上げた
この島に注ぐ陽の光は傷跡を照らし続ける
「あの悲しみをあの過ちを忘れることなかれ」と

沖縄に行くと、誰もが癒される。
その居心地のよさは、
辛い体験をした人たちが、破壊された土地の上に
もう一度築きあげてくれたもの

それを忘れないようにしたい。

もうすぐ、65年目の夏が終わります。

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小山佳奈 10年09月05日放送



「フランツ・カフカの日常」


朝8時に役所に行き、
午後2時まで働く。
午後3時に家族と昼食をとり、
仮眠をし、散歩をし、夕食をとった後は、
夜10時半から午前5時まで執筆。

これが、
20世紀最高の作家、
フランツ・カフカの
すべてであった。

独身で
役所勤めで、
実家暮らし。

おそろしく規則正しく
おそろしく不規則な生活。

そこから彼は
おそろしく奇妙な作品を
次々と生みだした。









「公務員 フランツ・カフカ」


カフカは優秀な
公務員であった。

「労働者傷害保険協会」という
聞くからにまじめそうな役所に
勤めていたカフカは
それにも負けないまじめな仕事ぶりで
上司からの信頼も厚かった。

何よりも頼りにされたのが
文書の類だった。

友人たちが文壇で活躍する中、
彼は黙々と
協会の年次報告書や
保険に関する論文といったものを
書き続けた。

カフカはあくまで
優秀な公務員であった。






「フランツ・カフカの奇妙な行動」


フランツ・カフカは
数多くの芸術家と同じように
生きている間はほぼ無名であった。

生涯で出版した本は全部で7冊。
それもごく少ない部数しか刷られず
一般の人にはなかなか目につかなかった。

であるのに、カフカはなぜか
せっかく書店に並んでいる本を
ことごとく買い占めた。

売れ残っているのが恥ずかしいのではない。
自分の作品が人の目に触れることを
極度に嫌がったのだ。

そんなカフカは死ぬ間際、
親友のブロートに切願した。


 すべての手紙と作品は破棄するように。


ブロートは深くうなずきながら、死後、
彼の作品を次々と世に送り出した。

私たちは
親友の大いなる裏切りに
感謝しなければならない。





「フランツ・カフカ少年」


14歳のフランツ・カフカが
友人の家に遊びに行った時の話。

「作家になりたい」と口にしたカフカを
その友人の兄が笑った。

それに対してカチンときたカフカは
帰り際、その家の訪問帳にこう書いた。


 出会いがあり、交わりがある。
 別れがあって、そしてしばしば再会はない。


残された中でおそらく
人生最初の作品において
その類まれなる文才と皮肉は
すでに完成されていた。





「フランツ・カフカと女」


カフカはめんどくさい男だ。

フェリーツェという女性と
二度、婚約して、
二度、破棄した。

500通と言う尋常ではない数の手紙を送っては
返事がないと不満をもらす。

彼女がカフカに魅かれ始め
実際に会いたいと言った途端に
さまざまな理由をつけて逃げ回る。

挙句の果てに
仲介役に入った彼女の友人と
こっそり文通を始める。

カフカは本当に
めんどくさい男だ。

そんなめんどくさい男を
好きになってしまうのが、
女という生き物。

その証拠に、フェリーツェは
カフカからの手紙を
生涯、捨てることはなかった。





「フランツ・カフカの発明」


フランツ・カフカ。

作家であり公務員でもあった
彼の仕事は、
工場で事故にあった労働者に
ちゃんと保険が支払われているかを
監督することだった。

現場へ視察に行くと心配性の彼は必ず
「安全ヘルメット」をかぶった。
それを見た工員たちが
ヘルメットを着用するようになると
工場では事故が大幅に減った。
そこから「安全ヘルメット」が
世界中に普及したのだ、とか。

工事現場を見かけたら
カフカをちょっと思い出そう。





「フランツ・カフカと南京虫」


今やらなくてはならないことがあるときほど、
今やらなくていいことがはかどる。

フランツ・カフカは
5年の間、長編小説に
かかずらっていた。

逃げたい一心で書きだした
とある短編は
その短さも手伝って
一気に書き上がった。

それが後に
カフカの名を不朽のものにした
「変身」。

ちなみにこの「変身」、
当初は「南京虫物語」という
タイトルだったという。





「フランツ・カフカの最期」


1924年、
カフカは死んだ。
結核だった。

激しい痛みの中でも
彼は書くことをやめなかった。

最後の作品は「断食芸人」。
自ら食べることを拒む男の話を
食べることを拒まれた作家は
震える手で書きあげた。


 ぼくの書くものに
 価値がないとしたら、
 それはつまり、
 この自分がまるで
 無価値だということだ。


フランツ・カフカは
やはり作家だ。
やさしくて孤独な
世界最高の作家だ。


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佐藤延夫 10年09月04日放送



異色のひと/モラエス

ラフカディオ・ハーンが来日した数年後、
ひとりのポルトガル人が神戸の町に降り立つ。

ヴェンセスラウ・デ・モラエス。

ポルトガル領事館の日本総領事長を務め
「日本通信」という本を発表したが、
ハーンほど有名にはならなかったし、
もてはやされることもなかった。

最愛の人、おヨネが亡くなると
彼女の故郷、徳島で暮らし始める。
そびえ立つ眉山と自然の美しさに惹かれたのだろうか。
こんな言葉を残している。

  立ち並ぶ木々の茂み、轟音をあげて鳴る珍しい滝、
  囁く小川、美しい田畑で飾り立てたふんだんに緑また緑の風景・・・


いつも和服姿で正座をしていたポルトガル人は、
島国の小さな町で、
緑の中に溶けていった。







異色のひと/尾形亀之助

宮沢賢治の生まれた4年後、
尾形亀之助は、産声をあげた。

どちらも東北出身で
病気に悩まされ
若くして亡くなったが、
ふたりとも詩人だった。
亀之助は、有名になろうとも
金持ちになろうともしなかった。

これは、「ある来訪者の接待」という作品の一説。

  どてどてとてたてててたてた
  たてとて
  てれてれたとことこと
  ららんぴぴぴぴ ぴ
  とつてんととのぷ
  ん んんんん ん

  てつれとぽんととぽれ



世捨て人のように暮らした亀之助が紡ぐ言葉は、
常人の理解を遥かに超えている。





異色のひと/鈴木紀夫

世界50カ国を放浪した青年は、
1974年、フィリピンのルバング島に渡った。
残留日本兵、小野田寛郎(ひろお)を探すために。

冒険家、鈴木紀夫、24歳。
小野田さんを日本に送り届けたあとは、
雪男を探そうと思った。
何度もヒマラヤを訪ねたが、
世間をあっと言わせる証拠は見つけられず、
苦しい胸の内を明かす。

  早く雪男の件は片づけたいのに、神様はどうして助けてくれないのだ。
  神は、この俺の運命を如何に決めてあるのだ。


そして六度目の雪男探索のとき、
雪崩に遭い帰らぬ人となった。

慰霊のためヒマラヤを訪れた小野田さんは、
彼のことを、友と云ったそうだ。





異色のひと/菅野力夫

現存する明治、大正時代の絵はがきには、
時折、髭ぼうぼうの痩せた男が写っている。
彼こそが、世界探検家、菅野力夫だ。

明治44年から、のべ8回も世界探検旅行に赴き、
そのたび、新聞に大きく取り上げられた。

足跡は全て写真で残されている。
スマトラ島では酋長の格好をし、
満州ではラクダに跨がり、
ビルマでは象の前で腕を組み、
ブラジルではアリ塚の上に立ち、
ペルーでは頭蓋骨を持ってポーズをとった。
それが全て、絵はがきにプリントされた。

テレビなどあるはずもなく、
ラジオも新聞も今ほど普及していない時代では、
絵はがきが最大級のマスメディアだった。

世界探検旅行を経験し、
彼が何を語ったのか。
その真実は謎に包まれている。
だけど、
どれほど楽しかったのか。
それは数々の絵はがきが、雄弁に語っている。





異色のひと/熊谷守一(くまがいもりかず)

トレードマークは、
仙人のような長く白い髭。
明治生まれの画家、熊谷守一は
いい絵を描こうとも、有名になろうとも思わなかった。
絵を描くのは、気が向いたときだけ。
知人に金を借りては、千駄木や東中野の借家を転々とする。

絵が売れるようになったのは晩年のことで、
文化勲章も全て辞退した。

  お国のために何もしたことないから。

身の回りだけを見つめ、
自由に、気ままに生きて、97歳で目を閉じた。

  下手も絵のうち。

画壇の仙人と言われたが、
まさに生き方も仙人なのである。





異色のひと/五寸釘の寅吉

人並み外れた運動能力は、
スポーツ以外にも生かされることがある。
たとえば、刑務所からの脱獄。

明治時代の囚人、西川寅吉は
脱獄を六度も重ねた。
濡れた囚人服を壁に叩きつけ、
一瞬の吸着力を利用して壁を乗り越えたという。

盗みに入った質屋では
逃亡する際に五寸釘を踏み抜いたが、
そのまま12キロも逃走し、
五寸釘の寅吉と呼ばれるようになった。

世間を騒がす痛快なアンチヒーローは、
このご時世、なかなか現れにくいようだ。





異色のひと/大上宇市(おおうえういち)

11月になると
赤い小さな実を付けるコヤスノキは
トベラ科の常緑樹で、
日本では兵庫県の一部と岡山県の東部でしか生きられない。
この珍しい植物を発見したのは、
明治時代の博物学者、大上宇市だった。

農業の現状を知らない都会の学者を
名指しで批判する武骨な男だったが、
牧野富太郎とは親交を深めた。
ふたりとも学歴に乏しく、学会から冷遇されたせいかもしれない。

  秋空晴れて日は高し
  今こそ我等の散歩時
  芒(すすき)は野道に招くなり
  小鳥は森によばうなり
  よばう小鳥は何々ぞ
  雀 山雀(やまがら) もず 鶉(うずら)


こんな自作の歌を口ずさみながら、
野山をねり歩いた。
村人には、ヒマ人が来たと疎まれたが、
やがてその研究内容が評価され、郷土の英雄となった。

ひとつの道に通じていれば、いつか必ず花開く。
そんなメッセージが込められているようでならない。

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蛭田瑞穂 10年08月29日放送



イングリッド・バーグマンを偲んで①
「アルフレッド・ヒッチコック」



アルフレッド・ヒッチコックは
『山羊座のもとに』という映画で
カメラの長回しを多用する撮影手法を試みた。

すると、主演のイングリッド・バーグマンが彼に詰め寄った。
「どうしてそんな面倒な撮影をしなければならないの?」

口論の嫌いなヒッチコックは最初黙って聞いていた。
しかし「なぜ?」「どうして?」という
彼女の度重なる追及に辟易し、しまいにはこう言い放った。


 イングリッド、たかが映画じゃないか。


サスペンスの神様ヒッチコックに
「たかが映画」と言わせたイングリッド・バーグマン。

その女優魂には畏れ入るしかない。





イングリッド・バーグマンを偲んで②
「エレットラとイザベラ」



2007年、コスメティクスブランドのランコムは、
ブランドの美の象徴であるミューズに、
イタリア人モデルのエレットラ・ロッセリーニを選んだ。

エレットラ・ロッセリーニの母親は、
イザベラ・ロッセリーニ。
映画『ブルーベルベット』の主演女優として知られる彼女は、
やはりランコムのミューズを長い間務めた。

そして、イザベラ・ロッセリーニの母親が、
イングリッド・バーグマン。

イングリッドの残した美の遺産は、
こうして脈々と受け継がれている。





イングリッド・バーグマンを偲んで③
「ティ・アーモ」



1948年、イングリッド・バーグマンは
ブロードウェイの小さな映画館で、
イタリアの巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督の
『戦火のかなた』という映画を観た。

衝撃的だった。

ロマンス映画にばかり出演してきたイングリッドにとって、
戦争の悲劇を克明に描いた『戦火のかなた』こそ
本物の芸術だと思えた。

この監督の作品に出たい。
その一心でイングリッドはロッセリーニに向けて手紙を書く。


 もしスウェーデン人の女優が必要でしたら、
 わたしは「ティ・アーモ」しかイタリア語は知りませんが、
 喜んでイタリアへ行って、
 あなたといっしょに映画を作るつもりです。


イングリッドがロッセリーニに対して抱いた気持ちは
最初、純粋に尊敬の念だった。
しかし、それがいつしか愛へと変わる。
そしてついには仕事も家庭も捨て、
ロッセリーニのもとへ走ることになる。

「ティ・アーモ」。
彼女が唯一知っていたイタリア語は、
奇しくも「あなたを愛しています」という言葉だった。





イングリッド・バーグマンを偲んで④
「君の瞳に乾杯」



「君の瞳に乾杯」。

映画『カサブランカ』でハンフリー・ボガードが
イングリッド・バーグマンに囁く有名なセリフ。

もとの英語は“Here’s looking at you, kid.”、
直訳すると「君を見つめることに乾杯」という意味になる。

このセリフを「君の瞳に乾杯」と訳したのは、
昭和の名翻訳家、高瀬鎮夫。

彼は原文にはない「瞳」という言葉を加えて、あえて意訳をした。
そうすることで、このセリフの持つ甘美で切ないニュアンスを
日本人にも伝わるようにしたのだ。

『ゴッドファーザー』や『サタデーナイト・フィーバー』など、
数々の字幕制作に携わり、洒落た翻訳で知られた高瀬鎮夫。

映画『ある愛の詩』の名セリフ、
「愛とは決して後悔しないこと」も彼によるものである。









イングリッド・バーグマンを偲んで⑤
「後悔」



1957年1月19日。
ニューヨークのアイドルワイルド空港に降り立った
イングリッド・バーグマンを待ち受けていたのは、
大勢の新聞記者とカメラのフラッシュだった。

映画監督ロベルト・ロッセリーニとの
不倫スキャンダルによって、
イングリッドは長らくハリウッドを追われていた。

その彼女が、ロッセリーニとの破局の末、
再びアメリカに戻ってきたのだ。

記者から辛辣な質問が飛ぶ。
「ミス・バーグマン、
あなたは自分の行動を後悔してないのですか?」

その質問に対して、
イングリッドは微笑みを浮かべてこう答えた。


 いいえ。
 わたしが後悔しているのは、
 しなかったことに対してであって、
 したことを後悔してはいません。


スキャンダルを乗り越え、
のちにオスカーも獲得したイングリッド・バーグマン。
彼女は美しいだけでなく、強い女性だった。





イングリッド・バーグマンを偲んで⑥
「As Time Goes By」



その日、ロンドンの
聖マルタン・イン・ザ・フィールズ教会には
亡くなったイングリッド・バーグマンにお別れを言うために、
200人の人々が集まった。

追悼の言葉と歌が捧げられると、
教会の片隅からバイオリンの音色が聴こえてきた。

それは彼女の代表作『カサブランカ』のテーマ曲
“As Time Goes By”だった。

知性的な美貌と、オスカー主演女優賞に2度も輝く演技力で、
世界中の映画ファンを魅了したイングリッド・バーグマン。

彼女は1982年の今日、67年の生涯に幕を閉じた。

この世から去った後も、
イングリッドは人々の思い出の中で輝き続ける。
“As Time Goes By”
どんなに時が流れても。





イングリッド・バーグマンを偲んで⑦
「薔薇の名前」



2000年に開催された第16回世界バラ会議で、
「イングリッド・バーグマン」という品種が
史上10番目の「バラの殿堂」に選ばれた。

その薔薇の名はもちろん
女優のイングリッド・バーグマンに由来する。

深紅の花びらが醸し出す高い気品と燃えるような情熱。
それは彼女の魅力そのもの。

かつて銀幕の花として、多くの人々を魅了した
イングリッド・バーグマン。
彼女はいま薔薇となって人々を魅了し続ける。





イングリッド・バーグマンを偲んで⑧
「カサブランカ」



映画史上最高の脚本は何か?

アメリカ脚本家協会によれば、
それは『カサブランカ』である。

2006年、アメリカ脚本家協会は
「史上最高の映画脚本ベスト101」の第1位に、
『カサブランカ』を選出する。

この脚本を執筆したのは、ジュリアス・エプスタイン、
フィリップ・エプスタイン、ハワード・コッチの3人の脚本家。


 「ゆうべはどこにいたの?」
 「そんなに昔のことは憶えてないね」
 「今夜は会えるの?」
 「そんなに先のことはわからない」


イングリッド・バーグマンと
ハンフリー・ボガードが交わす男と女の粋な会話。
1943年のアカデミー脚本賞も受賞した『カサブランカ』には
珠玉のセリフが溢れている。


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小宮由美子 10年08月28日放送



妻たち〜 山口(安田)静江

詩人・山之口獏の生活は貧しかった。

戦後、貧乏を語る専門家のようにマスコミにひっぱりだされたことも
手伝って、生活の苦労は一躍有名になってしまう。

妻である静江は、新聞記者やアナウンサーから
不躾な質問を浴びせられた。

「逃げ出したいと思われたことは何度かあったでしょうね?」

それに対して、
静江は詩人の妻としての矜持に溢れた返答をしている。

「貧乏はしましたけれど、
 わたくしたちの生活にすさんだものはありませんでした。
 ともかく詩がありましたから…」








妻たち 〜中川暢子

似た者夫婦という言葉があるが、
正反対の夫婦もある。

中川一政は、
女房となった暢子を画家らしい視点から観察した。

「どうも自分の女房は人が好きらしい。
 私の家へ客が来る。客がくれば食事をする。
 面倒くさいだろうと思うのだが、長年の間、
 そういうことで嫌な顔をしたことが一度もなかった」


麦や胡瓜は食べるが、その生態には興味がない。
鳥や樹木を愛でるが、その名前にも興味がない。
黙々と知識を得るより、人とのかかわりによって生き生きとする妻。

「私は考えた。私の女房は人生派である。
 私は自然派であると。
 その極端が夫婦になったのだと」


「さみしい家庭」に育ち、人を怖れていたと語る一政。
暢子への視線には、自分にないものを持つ妻への
信頼と憧れとを感じることができる。





妻たち〜節子・クロソフスカ・ド・ローラ

「夫婦の愛というのは、それぞれの夫婦によって
 築いていくものが違います」


この一文からはじまる「愛について」という随筆の書き手、
節子・クロソフスカ・ド・ローラ。

2001年にこの世を去った画家・バルテュスと
彼女の場合、それは<仕事>だった。

「私はバルテュスという人間と、彼が作る作品を愛しました。
 美しい作品を生むためには何でも受け入れることができる、という
 気持ちがあったことが、長く続く基盤になったのです」


最期の別れのとき、
節子は昏睡状態にある夫・バルテュスの耳元にそっとささやいた。

「今まで何から何まで本当にありがとうございました」
「再婚はいたしませんよ」


そう付け加えると、バルテュスの口元が、微笑んだという。





妻たち〜 西武子

西武子は、夫を、硫黄島の戦いで亡くした。

夫の名は、バロン西こと、西竹一。
男爵家に生まれ、莫大な財力と華やかな容姿、
人を魅了してやまない独特の魅力に恵まれた男。
その竹一に嫁いだのが、名家に生まれ、美貌の人だった武子。
のちに竹一はロサンゼルスオリンピックの馬術競技で金メダルを獲得し
さらに輝かしい栄華に包まれるも、太平洋戦争、勃発。
二人もまた、時代の渦にのみこまれていく。

生前の栄光と、過酷な戦場であった硫黄島での戦死という
壮絶なコントラストによって、死後も注目を集める竹一。
周囲が特別な視線を遺族に浴びせ続ける中で、
女手ひとつ、のこされた一男二女を育てあげた武子は、
後年、次のような文章を残している。

「戦後、花やをやり、デパートでもんぺをはいて、
 売り場に立ったこともあります。もとの知人が私を見て、
 『気の毒で声をかけられなかった』と、あとで聞きましたが、
 残念でした。私にとっては当たり前のことでしたのに」


西武子は、昭和53年に亡くなった。73歳だった。
年を重ねたときの彼女は落ち着いた気品があり、
若いときよりさらに美しかったという。





妻たち〜 吉野きみ子

戦「おまえなんか、酒田へ帰れ!」
と、押し入れからトランクを引っぱり出す夫・弘(ひろし)。
「ええ、帰ります!」と、トランクに物を詰め始める妻・きみ子。
「まあ、まあ」と、そこに同居の父が割って入って事なきを得る。

吉野家で繰り返された、夫婦喧嘩の一場面。
互いに気持ちをわかっていながら、時に烈しくぶつかり合う。
ぶつかりながら、長い年月をかけて信頼を築く。
そんな、妻・きみ子との夫婦生活の中から、詩は生まれた。

 二人が睦まじくいるためには
 愚かでいるほうがいい
 立派すぎないほうがいい
 立派すぎることは
 長持ちしないことだと気付いているほうがいい…


結婚式で、新しい門出を迎えたふたりに贈られることの多い『祝婚歌』。
夫である、詩人の吉野弘の作による。





妻たち 〜グラフ

「あなたの直感を信じればいいのよ」
「僕の直感は、僕のことを信じていないんだ」


夫婦そろって、世界no.1プロ・テニスプレーヤーで
あったことで知られる、アンドレ・アガシとグラフの会話。

ふたりの考え方は、まったく違う。
「そこが、結婚生活がうまくいっている秘訣なんだ」とアガシは言う。

彼が長年に渡ってテニス界のトップに君臨し続けることが
できたのは、同業者であり、考え方の違う、この妻の存在が
大きかったといわれている。





妻たち 〜檀ヨソ子

「あるとき、檀のことをどのくらいわかっていたと思うかと質問された。
 それに対して、私は傲慢にも、檀の気持ちのかなりの部分は
 わかっていたと思うと答えてしまった。たぶん10のうち7か8は、と。
 だが、本当は何もわかっていなかった」


檀ヨソ子が、夫である作家・檀一雄の代表作『火宅の人』を通読したのは、
檀の17回忌を過ぎた後だった。
愛人との暮らしを綴った私小説ともいえるその内容は、
妻であるヨソ子にとっては堪え難いものだった。

ヨソ子はその苦悩を、インタビューを受けるかたちで、
『檀』という一冊の本に記す。
過ぎ去った日々の記憶に傷つき、
夫の死後に知る、夫婦の距離に茫然とするヨソ子の心情が
率直に書かれた本の中には、
だが時に、夫と妻の間だけで交わされた、甘い思い出が滲む。

一年に渡るインタビューによって書かれたというその本は、
ヨソ子のこんな言葉によって締めくくられている。

「あなたにとって私とは何だったのか。
 私にとってあなたはすべてであったけれど。
 だが、それも、答えは必要としない」

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