紫式部と風邪とニンニク
『源氏物語』第二帖「帚木」の冒頭に、
「雨夜の品定め」というくだりがある。
光源氏の部屋に集まった男性たちが
それぞれの女性論を語るのだが、
そのうちのひとりである藤式部丞の体験談に
風邪をひいた女性とのエピソードが出てくる。
その女性は、会いに来た彼にこう伝える。
月ごろ、風病重きに堪へかねて、極熱の草薬を服して、
いと臭きによりなむ、え対面賜はらぬ。
風邪で薬草を飲んでいてそのにおいが大変に臭いので
面会は遠慮させてください、ということだ。
この薬草とは、ニンニクのこと。
ニンニクの効能が古くから知られていたことがわかる。
それにしても
匂いが気になって男性の前に出られないとは、
作者である紫式部にも
そういう経験があったのだろうか。
2017 年 1 月 21 日 のアーカイブ
藤本宗将 17年1月21日放送
藤本宗将 17年1月21日放送
能登屋甚三郎と風邪と葛根湯
風邪といえば、葛根湯。
2000年前に生まれたこの漢方薬は、
現在に至るまで多くの人々を助けてきた。
江戸時代末期の金沢で暮らしていた
町人・能登屋甚三郎の日記にも、
風邪で葛根湯を飲んだ記述が残っている。
風邪気味だったのを我慢していたところ、
寒さのせいか風邪がひどくなってしまった。
そこで葛根湯を三回飲み、
さらに二番煎じも飲んで今晩は汗をかいた。
さらに翌日には、こうある。
夜に汗をかいたおかげで、
風邪は昨日よりだいぶ良くなってきた。
今晩も昨晩と同じく葛根湯を三回飲んで汗をかいた。
ちなみに日記によれば、
こうして風邪をひいているあいだにも
甚三郎は勤めに出ていたらしい。
風邪でも仕事を休めない。
そんな日本人の悪しき習慣は、
いつになったら治るのだろう。
藤本宗将 17年1月21日放送
福沢諭吉と風邪とフランネル
明治3年に大きな病を患った福沢諭吉。
なんとか全快したものの
風邪をひきやすくなったりして、
体力の衰えに悩んでいた。
そんなとき友人の外国人医師から、
「肌着をすべてフランネルにすれば風邪をひかなくなる。」
と教えられた。
さっそくシャツもモモヒキもフランネルでこしらえ、
足袋の裏にまでフランネルを付けさせて
全身暖かくしてみたものの、いっこうに効果がない。
やはりすぐに風邪をひいてしまい、すぐ熱が出る。
そこで彼は180度考えを改める。
かつて田舎で暮らしていた頃の質素な生活に戻したのだ。
あえてストーブも焚かず、木綿の着物を着て、
薪割りなどの運動をして汗をかくように心がけた。
すると次第に身体が丈夫になり、
風邪をひくこともなくなったという。
福沢は、自伝の中でこう言っている
「こちらから媚びるから、病は段々つけあがる。」
藤本宗将 17年1月21日放送
お染と風邪とお札
江戸時代には、風邪が大流行すると
そのたびに名前がつけられていた。
稲葉風邪、お駒風邪、谷風邪、お七風邪、といった具合だ。
当時の人たちはもちろん知る由も無いが、
それらの風邪は感染力の強さからみて
インフルエンザだったと考えられている。
その後も名づけの習慣は続き、
明治23年から24年にかけて流行した風邪は「お染風邪」と呼ばれた。
お染とは浄瑠璃や歌舞伎で有名な物語のヒロインで、
許婚がありながら久松という男とたちまち恋に落ち、熱を上げてしまう。
そんな役どころのイメージから風邪の名前にされたのだろう。
お染風邪が流行してからというもの、
人々は家の玄関や軒下に「久松るす」という
風邪除けのお札を貼ったという。
あなたの好きな久松さんは留守でいませんよ、
だからお染さんは入って来ないで、という意味だ。
インフルエンザウイルスさえまだ発見されておらず、
効果的な対策もない時代。
多くの死者を出したインフルエンザの猛威を前にして、
人々はお札にでも頼るしかなかったのだろう。
マスクなどの予防手段が日本で普及するのは、
大正時代の「スペイン風邪」からである。
藤本宗将 17年1月21日放送
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竹鶴政孝と風邪とリンゴジュース
日本におけるウイスキーの父、竹鶴政孝。
彼が北海道・余市で興したニッカウヰスキーは、
はじめ「大日本果汁株式会社」という名前だった。
ウイスキーづくりには長い年月がかかる。
その間のつなぎとしてリンゴジュースを販売し、
経営を支えようとしたのだ。
しかし高価な果汁100%リンゴジュースは
当時あまり売れなかった。
そこで彼はリンゴジュースの
高い栄養価を前面に押し出して宣伝。
風邪をひいたときの民間療法として、
ようやくリンゴジュースは普及していった。
当時、宣伝の一環として
ニッカから発行された一冊の本がある。
医師がリンゴの効能について記したものなのだが、
随所にジュースの広告が入っている。
商品を売るために健康本を出版する。
宣伝マンとしての竹鶴もなかなかのものだ。