大友美有紀 12年2月11日放送


大島育雄「自然と生きる美学」1

グリーンランドにある地球最北の村・シオラパルク。
そこに住む日本人がいる。大島育雄。

1972年、彼は極地最高峰への遠征の準備のため、
この村を訪れた。
到着した初めて夜、彼は村の歓待をうけた。
すべてイヌイットの料理だ。
胃袋が悲鳴をあげた。外に出て夜空を見上げた。

 星が冷たくきらめいていた。
 北斗七星の位置が高い。
 北極星は、ほぼ真上に近い。
 いま、これ以上北に人間は一人もいない。


大島はブルッと胴震いした。
最北の村との出会いだった。





大島育雄「自然と生きる美学」2

大島がシオラパルクを訪れた理由は、
かの冒険家・植村直己だった。

植村は犬ぞり訓練のために村に滞在していた。
大島は極地環境を体験するために植村の協力を仰いだ。
植村とともに村で暮らし、猟を体験し、
その魅力に取りつかれていった。

やがて植村直己は、村を離れ冒険と旅立ち、
さらにその先へと行ってしまった。
大島は、今なおシオラパルクで暮らしている。

 冒険に来て、また帰る。
 それは何か違うと感じた。
 すぐそこにある宝に目を向けず、
 通り過ぎていく気がしたんだよ。




ちづ
大島育雄「自然と生きる美学」3

いったん日本に帰った大島は
シオラパルクでの暮らしが忘れられなかった。
その生活は、人に命令されることもなければ、
命令することもない。

電気もなく娯楽も少ない。
けれど、それを超える狩猟の興奮がある。
また、狩猟を中心とした豊かな文化がある。
単純で豊富な生活。

 とてつもないスケールの自然のなかで猟をして、
 自分の手でとったその獲物を主食とし、衣類とする。
 生活の機構が単純で、自分の働きが
 そのまま生活に直結する。
 良くも悪くも、完全に自分が人生の主人公だ。





大島育雄「自然と生きる美学」4

大島は日本のテレビ局の取材班に同行する形で
シオラパルクに戻ってきた。
取材が終わったあとも、村に残った。
自分の好きなことを、とことんやってみようと
思ったからだ。

8月のある日、住んでいた小屋の外にラジオを持ち出し
無線連絡を聞いていた。
当時、村間の連絡は無線で行なわれていた。
「きのう、どこそこの村ではクジラがたくさん捕れた」という報告や
「誰々が病気だから、親族は行ってやったほうがいい」という個人向けの
連絡までもが放送される。

大島がのんびりラジオを聞いていると
大変な情報がとびこんできた。
「長老イニューツァッソワが、カナックの教会の牧師に
 8月某日に結婚式をしたいから
シオラパルクに来てほしいと要請している」というのだ。

そして、その結婚する2人は、大島とシオラパルク村の娘だった。

 人は驚くと仰天してしまうものだな。
 見上げる空の紺碧の中にチラチラと
 光のようなものが 踊っていたよ。
 でも、ためらいはなかった。
 このなりゆきに身をまかせることにしたんだ。





大島育雄「自然と生きる美学」5

大島とシオラパルクの娘・アンナは結婚して
1男4女をもうけた。

結婚して何年かした頃だった。
世界最北の村、しかも犬ぞりによる伝統的な狩猟で
暮らす村ということで、観光客も訪れようなった。
大島にガイドを頼んでくることもあった。
けれど大島はなるべくガイドを断りたかった。
それよりも好きな猟をしていたかった。

 私は猟が好きで猟師になった。
 金のために自分がやりたくもないことを
 やるのは、つまらない。
 金がなければ物質的な生活レベルを落とせばいいのだ。




Mike Chien
大島育雄「自然と生きる美学」6

大島が幼いこどもを連れて日本へ帰ったことがあった。
198年代時のことだ。彼の生家は東京郊外にあった。
それでも彼の目には、昔小魚をとって遊んだ用水路や川が
汚れてしまって無惨な印象だった。
ちょっとした浦島太郎の感覚だった。

 東京にいると何か世界が縮まってしまった錯覚があった。
 シオラパルクとは風景の尺度が違い過ぎるのだ。
 東京はあまりにも何もかもがひしめきあっているように見えた。





大島育雄「自然と生きる美学」7

今、大島は還暦を過ぎてなお、
グリーンランド、世界最北の村・シオラパルクに住んでいる、
長男と長女は猟師になり、一緒に村で暮らしている。

彼は「腕のいい猟師」として一目置かれる存在になった。
朝7時に起きて約2時間でウミガラスを百羽以上捕獲。
それも柄の長い網一本で、だ。
そのあとは、数日前にとったイッカクを解体、
アザラシ肉の薫製づくりなど一日中体を動かしている。

 猟は動物とのだまし合い。英語で猟をゲームと呼ぶけど、
 こんなに面白いゲームはないね。


自然の余剰分で命をつなぐ、
自給自足に近い生活を送っている。
狩猟は生態系の一部、とさえ誇っている。
そんな生活にも危機が訪れている。
海氷のとける時期と速度が早く、広くなっている。
氷が溶けてしまうと、猟はできない。

 若者には「文明」がひときわ、きらびやかな物に見える。
 自分たちの環境との、あまりの隔たり。
 しかし焦るな、と言いたい。
 とにかくここから始めるしかないのだ。
 焦らず、地に足をつけていかなければならない。


かつてシオラパルクに初めて電気入ったときの、大島の言葉だ。

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三國菜恵 12年2月5日放送

寿
野球をおもしろくした男たち/高畠導宏

落合博満選手、イチロー選手、小久保裕紀選手。
プロと呼ばれる人たちは
何か特別な才能に恵まれているように見える。

けれども、
彼らをずっと育ててきたバッティングコーチ
高畠導弘(たかばたけ みちひろ)は
「才能」というものについて、ただひと言、こんなふうにあらわした。

才能とは、決してあきらめないこと。




野球をおもしろくした男たち/ある少年

異なる野球リーグの人気選手同士が
一晩限りのドリームチームを結成するオールスター戦。

このイベントは
1933年、シカゴ万博のスポーツ記念行事としてはじまった。
そのきっかけは、ある一人の少年のこんな手紙だったとされている。

カール・ハッベルが投げて、ベーブ・ルースが打つ。
そんな夢のような試合が見たいのです。

この手紙に心を動かされた
当時の担当者アーチ・ウォード氏は、実現に向けて尽力。
結果、5万人もの観客を集める大イベントになった。

少年の素直な願望は、野球の世界に
新しいたのしみをもたらしたのだった。

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中村直史 12年2月5日放送


野球をおもしろくした男たち/福本豊

現役時代、名捕手として知られた野村克也は、
キャッチャーの技術を鍛えてくれた人、として
福本豊の名前を挙げる。

福本豊
通算盗塁数1065
最高シーズン盗塁数106
日本が世界に誇る盗塁王。

「福本は・・・」と野村は困ったように言う。
「走ると思えば走らないし、走らないと思えば走る」

福本豊の長所はまさにそこにあった。
つまり、次にどうくるか、「読めない」。

そして解説者になった今も、福本豊は、
持ち前の「読めなさ」で、プロ野球中継を盛り上げている。

盗塁のコツを聞かれて、
「まず塁に出なあかんなぁ」

さらには試合の解説中、アナウンサーにいまのピッチャーの心理は?と聞かれ、
「わからん」

キャッチャー泣かせだった男は、
いま、実況アナウンサーを泣かせている。




k_haruna
野球をおもしろくした男たち/赤星憲広

赤星憲広(あかほし のりひろ)
「赤い彗星」のニックネームで愛された
元・阪神タイガースのスピードスター。

得意としたのは盗塁。
あるとき「盗塁の秘訣」について質問された。

インタビュアーは赤星らしい独特の理論を期待したが、
意外な答えが返ってきた。
盗塁のコツは「勇気」。赤星は言った。

僕にとって盗塁の数は勇気の証です。

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三島邦彦 12年2月5日放送


野球をおもしろくした男たち/新庄剛志

プロ野球選手にとってグローブは大事な商売道具。
一流選手はオーダーメイドの一品を、職人と一緒に作り上げる。
しかし、激しい消耗のため、ほとんどの選手は毎年グローブを変えることになる。

1990年に阪神タイガース入団。
メジャーリーグを経て、2006年に日本ハムファイターズで引退を迎えた新庄剛志は、
その17年間のプロ野球生活を通じ、たった1つのグローブを使い続けた。

それは、18歳の時、プロ入りして初めての給料で買った7500円のグローブ。
壊れても、壊れても、何度も補修を重ねて使い続けた。

グローブの形が微妙に変わるからと、自分以外の誰もそのグローブに指を通すことを許さなかった。メジャーリーグ時代、チームメイトがそのグローブに触れてケンカになったこともあったという。

引退会見の場に現れた新庄はテーブルにそのグラブを置き、こう言った。

こいつがもうプレーできないといってました。

その華麗な守備でファンを魅了した野球人生は、
まさに、グローブと生きた日々だった。




野球をおもしろくした男たち/藤田元司

実力はあるのにピンチになると動揺し、自滅してしまう。
その気の小ささから「ノミの心臓」と呼ばれるピッチャーが
かつてジャイアンツにいた。

平成元年、藤田元司(ふじたもとし)監督が就任。
春先、藤田監督はその投手にやさしく声をかけた。

  おまえは気が小さいんじゃない、優しいんだ。
だからもっと自信を持てばいいんだ。

その投手の名前は、斎藤雅樹(さいとうまさき)。
この年、連続完投勝利の日本記録を樹立し、一躍巨人のエースの座へ。
欠点を長所に変えるひと言が、平成の大投手を生んだ。




野球をおもしろくした男たち/足立光宏

1976年11月2日。
後楽園球場では巨人対阪急の日本シリーズ第7戦が行われていた。
阪急ブレーブスの先発は、足立光宏(あだちみつひろ)。
巨人ファンの声援が轟くマウンドで静かにつぶやいた。

 騒げ・・もっと騒げ。

結果は足立の完投勝利。阪急が日本一を勝ち取った。

命までは取られはしない。
その冷静さが、勝利を呼んだ。

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三國菜恵 12年2月5日放送


野球をおもしろくした男たち/嶋田宗彦

和歌山県・箕島(みのしま)高校出身の野球選手、
嶋田宗彦(しまだ むねひこ)。

彼が出場した、1979年 夏の甲子園は
歴史にのこる名試合だったと言われている。

対戦相手は、石川県の名門・星稜(せいりょう)高校。
両者同点のまま迎えた、延長12回。
星稜高校が1点を追加、箕島高校は窮地においこまれる。

敗戦ムード一色の中、打順がまわってきた嶋田選手。
彼は、ベンチじゅうに聞こえる声でこう叫んだ。

「カントクーッ、ぼく、ホームラン、狙ってもええですかー!」

そのことばに、誰もがハッとおどろいた。
次の瞬間、チームメイト達が顔をあげると
レフトスタンドをめがけてホームランボールが飛んでいた。

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佐藤延夫 12年2月4日放送


松平康隆さんを偲ぶ1

優しい大人が増えている。

学校の先生も、
会社の上司も、
子どもを躾ける親までも。

その優しさは、相手を向上させることではなく、
自分が良く思われたいという思いが見え隠れする。

男子バレーボールの元日本代表監督、
松平康隆さんは、語る。

  大事なことをわからせるために、
  嫌われてもいいという覚悟がなければ
  監督だろうか親だろうが、まともにつとまりゃしない

昨年の大晦日、
厳しい大人がこの世を去った。




松平康隆さんを偲ぶ2

試合を楽しみたい、とコメントするスポーツ選手がいる。

プレッシャーと向き合わない方法なのか、
本気であるが故の照れ隠しなのか、
それとも、本当に楽しむつもりなのか。

男子バレーボールの元日本代表監督、
松平康隆さんは、語る。

  エンジョイしに行くのなら、
  オリンピックとは言わず、ピクニックと言え

こんなことばかり言うから嫌われるんだ、
と松平さんは笑う。




ちづ
松平康隆さんを偲ぶ3

たかがスポーツ、と言う人がいる。

そんな相手に対して、
男子バレーボールの元日本代表監督、
松平康隆さんは本気で抗議した。
ときには作家に、そしてときには政治家にも。

  人間が最も頑張れるのは深い感動の力によって、です。

考えてみれば、
人々が熱狂し、雄叫びをあげるのは
スポーツのワンシーンであることが多い。




松平康隆さんを偲ぶ4

1964年、東京オリンピック。
男子バレーボールは銅メダルを獲得したが、
世間は相手にしなかった。
東洋の魔女、女子バレーが金メダルを取ったからだ。

これを松平康隆さんは、銅メダルの屈辱と呼ぶ。

そして8年後のミュンヘンオリンピックで、
男子バレーボールは、初の金メダルに輝いた。

ウルトラ時間差。
Aクイック。
Bクイック。

現在のバレーボールで常識になった技は、
「小さなナポレオン」と呼ばれた松平さんが開発した。
この言葉を胸に抱きながら。

  常識の延長線上に世界一は絶対にない。
  非常識の延長線上にしか、世界一はない。




松平康隆さんを偲ぶ5

男子バレーボールの元日本代表監督、
松平康隆さんには、
目の不自由なお母さんがいた。
そして人生に必要な多くのことを教わった。

  負け犬になるな
  男は語尾をはっきりしろ
  卑怯なことはするな

松平康隆さんは、サインを求められると
必ず一筆、書き添える。

  負けてたまるか

母から貰った、ありのままの言葉。
その重さを忘れてはならない。



Mike Chien
松平康隆さんを偲ぶ6

それは東京オリンピックの一年前。
男子と女子のバレーボールチームは、
ヨーロッパ遠征に旅立った。

女子は22戦全勝。
かたや男子は22戦全敗。

当時、男子バレーのコーチだった
松平康隆さんは、この屈辱をバネにした。
だからこんな言葉が残された。

  金メダルを取るために、犯罪以外は何でもやった。




松平康隆さんを偲ぶ7

  報われることを期待して、努力してはいけない

男子バレーボールの元日本代表監督、松平康隆さんは、
選手たちに必ずこう言ったという。

それは冷たい言い草のように思えるが、
世の中は、現実は、確かに甘くない。
努力すれば誰でも金メダルが取れるわけではないのだから。

松平さんが言いたかったのは、
「為せばなる」ではなく、
「為そうとする気持ちが大切」ということ。

そして指導者に対しても、自説を語る。

  指導者とは、教える人間ではありません。
  もっとも心掛けなければならないのは、
  生み出すことのできる人間に育ててやることです。

自分の役割をしっかりと心得ている指導者は、
今の日本に、何人いるだろう。

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名雪祐平 12年1月29日放送


ぼくらはすこし死んでいる 1.レイモンド・チャンドラー

女から結婚を持ちかけられたが、
それを断ってしまった男。

その心境はどういうものか。

レイモンド・チャンドラーが書いた
小説『ロング・グッドバイ』の一場面。

私立探偵フィリップ・マーロウは、
女と別れた朝、
ベッドに残された1本の黒髪を見た。

その時、小説家は男にこんなセリフを吐かせる。

 さよならを言うのは、
 少しだけ死ぬことだ。

つらい別れにじっと耐え、
世界から切り取られたような男が
そこにいた。





Monosnaps
ぼくらはすこし死んでいる 2.ボブ・マーリー

ボブ・マーリー、
歌うことで国家を変えた男。

ジャマイカが混乱し、悲惨な時、
人々にこう訴えた。

 おまえの口からついてでる言葉が、
 おまえを生かすのだ。
 おまえの口からついてでる言葉が、
 おまえを殺すのだ。

レゲエの神様は教えてくれた。
自分の言葉が、自分に、世界に影響することを。

完全にポジティブになるまで
すこしのネガティブが、すこし殺していることを。

ほんとうに神様だったのかもしれない。
絶大な存在感で、世界を変えた。




ぼくらはすこし死んでいる 3.草野心平

草野心平は、蛙の詩人、である。

昭和3年の詩集『第百階級』は、
全篇、蛙がテーマ。

どうして蛙なのか。
心平によれば、

蛙は人類よりも古くから存在し、
総理大臣もいなくて全員庶民だから、となる。

『第百階級』には、ゲリゲという蛙が登場する。

蛇に呑み込まれたゲリゲが瀕死状態で叫ぶ。
それはこの世でもがく詩人、心平自身の分身。

ゲリゲは仲間に向かって
必死にこう伝えるのだ。

 死んだら死んだで生きてゆくのだ。

肉体は滅びても、魂は生き残る。

心平は命の限り、晩年まで書き続けた。
その魂は、作品というかたちで、
死んだら死んだで生きてゆくのだ。




ぼくらはすこし死んでいる 4.高村光太郎

死ぬことに想いをめぐらし、
死に近づく。
すると、生きる言葉が浮かび上がる。

自分の最期にどんな言葉を刻むか。
高村光太郎の『ある墓碑銘』という詩は
こう始まる。

 一生を棒に振りし男此処に眠る。
 彼は無価値に生きたり。

光太郎の自嘲的なこの言葉は、逆説であるらしい。

話すこと。歩くこと。詩を書くこと。
そういう腹の足しにもならない無駄こそ
全身全霊、命がけでやる、という強い誇りが、
言葉にあふれている。




ぼくらはすこし死んでいる 5.小熊秀雄

 女よ、
 真実よ、
 お前を先に突落して
 逃げかへるやうな
 私は薄情な男ではない
 人生とは
 その日、その日の、
 情死の連続のやうなものさ

これは、戦前のプロレタリア詩人
小熊秀雄の詩の一節である。

人生とは、それぞれの状況で選択を迫られる。
それは自分を限定し、
他の可能性を死なせていくことでもある。

人生はそのくり返し。情死の連続。
と、詩人は記した。

この世に、情死しない男など
いないのだ。




ぼくらはすこし死んでいる 6.岡倉天心

明治時代の思想家、岡倉天心は
こう書いた。

 堂々男子は死んでもよい。

死にもの狂いで新境地を開いていこうとする
渾身の男の言葉である。

現在の東京藝術大学の設立に奔走し、
日本美術院の創設者としても、
近代日本の美術界を築いてきた天心。

死を覚悟してはじめて、
人間の生命力は
ほとばしるのかもしれない。



tokushima2000
ぼくらはすこし死んでいる 7.松田優作

俳優松田優作が残した言葉がある。

 人間は二度死ぬ。
 肉体が滅びた時と、
 みんなに忘れられた時だ。

その意味で、伝説になった彼は
二度死んでいない。

しかし、いま生きている自分の場合は
どう考えたらいいだろう。

まわりから忘れられた時が死ならば、
毎日死んだり、毎日生き返ったり、
ずいぶん忙しそうだ。

せめて自分で自分のことは
忘れずに気をつけていたいもの。




ぼくらはすこし死んでいる 8.ジェームズ・ディーン

もし、エレガンスな死に方があるとしたら、
どういうものだろう。

ある時、ジェームズ・ディーンは
こう言葉にしてしまった。

 速く生き、若く死に、
 美しい死体になろう。

この言葉がまるで予言となり、
死神がすこしずつ忍び寄ってきたのだとしたら。

24歳での衝撃的な自動車事故死。
その死は、はたして、美しかったのだろうか。

時が過ぎ、美しい伝説のように語ることは、
生き残った者の勝手なのかもしれない。

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渋谷三紀 12年1月28日放送

A. Davey
つくる男/映画/三谷幸喜

三谷幸喜監督の撮影現場でのこと。

大工役に
たくさんの老人俳優をキャスティングしたところ、
どうも思うような絵が撮れない。

撮影前は元気なのに、
カメラの前に立つとパワーダウンして
話し方までゆっくりになってしまう。

思い悩むうち、三谷は気づく。
彼らは老人を演じているのだ。

ご老人役にはご老人俳優という作り手の意図。
そこに、演じるという演じ手のプロ意識が加わることで、
いかにもすぎる不自然な老人ができあがってしまうのだから、
なるほど、映画づくりはむずかしい。
三谷監督は俳優たちにこう声をかけた。

普通な感じで演じて下さい。
心配はいりません。
皆さん、普通のままでも十分お爺さんですから。





acaben
つくる男/ファッション/三宅一生

アップルの前CEOスティーブ・ジョブスのトレードマークとなった
黒いタートルネックは、三宅一生のデザイン。
すでに生産中止になった商品にもかかわらず
全く同じ色合い、肌合い、袖を捲り上げたときの感触のものを、
100枚以上つくらせて積んでおくほどの気に入りようだったという。
考えてみれば、

きれいで終わる服じゃなく
着たいと思う服を作ろう。
という三宅一生のデザイン哲学は、

どう見えるかでなく
どう機能するか。
というスティーブ・ジョブスの哲学とみごとに重なる。

シンプルな哲学でつくりあげた
シンプルなプロダクツは
人の身体にも心にもよく馴染むようだ。



hakkaku
つくる男/笑い/萩本欽一

天然ボケ。
いまでは普通に使われているその言葉を
初めてつかったのは、欽ちゃんこと萩本欽一。

当時明石家さんまの運転手をしていたジミー大西に、
「天然にボケてる人だ」と言ったことが始まりだとか。

悪意がなく、みんなを笑わせてくれるボケ役は、
周囲を和ませ、誰からも愛される。

ボケ役について欽ちゃんはこんなことも言っている。

自分の欠点を突かれてニコニコしていられる人は
いいボケができるよ。

それができたら、お笑いの世界じゃなくても、最強かもしれません。



hello_hiroki
つくる男/歌詞/松本隆

書いた曲は2000曲以上。
51曲のオリコン1位は日本一。
アイドルからロック、クラッシックまで
40年以上ヒットメーカーとして走りつづける作詞家松本隆。
現在も依頼がひっきりなしの松本は、
作詞についてこんなことを言っている。

「愛してる」と連呼されても信用できないでしょう。
どうしたら「愛してる」とか「好き」って言葉を使わずに
その気持ちを伝えられるか。
それがわかれば歌になります。

ともすれば、
イメージの広がりよりもわかりやすさがもてはやされる
現在の音楽シーン。
その中にあってなお
聴き手の想像力を信頼できるかどうかが
消費されない作詞家の条件かもしれない。



steevil
つくる男/エンターテイメント/ウォルト・ディズニー

決して忘れてはならない。
すべての始まりが一匹のネズミだったことを。

黒くて丸い耳に、大きな白い靴。
世界中で愛されているミッキーマウスの生みの親
ウォルト・ディズニーの言葉。

貧しかったウォルトは、
ガレージに古いカメラを据えてやっとの思いでつくった
アニメ『うさぎのオスワルド』の権利を配給会社に奪われてしまう。
うなだれて帰る汽車の中ふと浮かんだのが、ネズミのキャラクターだった。

「蒸気船ウィリー」でのデビュー後は、25年で100本以上
ミッキーシリーズの映画が制作され
ドナルド、プルート、グーフィーなど
多くの人気キャラクターがミッキーとの共演から巣立っていった。

ディズニーの成功は映画だけにとどまらなかった。
カルフォルニアを皮切りに世界中にディズニーランドを開園。
現実に夢の世界をつくりあげた。

夢が現実を変え、それがまた、世界に夢を与えつづける。
そのきっかけは複雑な理論でも難解な思想でもなく
たった一匹のネズミだった。




David_Reverchon
つくる男/詩/ジャン・コクトー

フランスの芸術家、ジャン・コクトー。
小説や演劇、舞踏、評論、デッサンと、その活躍は多岐にわたるが
すべての活動の根底には「詩」があり、
彼自身、「詩人」と呼ばれることを好んだ。

あるインタビューで
「あなたは死んだら、地獄と天国のどちらにいくと思いますか?」
と聞かれたコクトーは、こんな風に答えた。

どちらでも。そのどちらにも会いたい友人がいるのでね。

詩人、ジャン・コクトー。
「人生」という作品の根底にもやはり「詩」があった。



Edwin Leung
つくる/建築/アントニオ・ガウディ

サグラダファミリアにグエル公園、カサミラと、
スペインのバルセロナを歩けば目に飛び込んでくる独創的な建物の数々。
それらを手掛けたのが建築家アントニオ・ガウディ。

「鳥の翼は飛ぶためにあります」といった教師に、
「鶏の翼は走るためにありますよね」と反論した。
というエピソードからわかるように、
少年時代から鋭い観察眼で周囲をあっと言わせていたガウディは
こんなことを言っている。

人間がつくりだすものは、
すでに自然という偉大な書物に書かれている。

つくることは、見つけること。
創造の種は世界中にあふれていると
ガウディは教えてくれる。

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三島邦彦 12年1月22日放送

Misogi
立川談志という男

落語家、立川談志は、
ファンからサインを頼まれるといつも、
その時頭に浮かぶ一言を添えていた。

酒場でサインを求められた時は、

 酔おうよ 世の中がきれいにみえてくる

おいしくない定食屋からサインを求められると、

 がまんして食え

その中で、何度も談志が書いた言葉、それは、

 幸せの基準を決めよ

そして、

 人生成り行き






立川談志という男

万雷の拍手。

向けられる先は、舞台の上で頭を下げる一人の男。落語家、立川談志。

深いお辞儀から顔を上げ、両手をふせて拍手をおさめる。
腕を組んで、何度もうなずき、口を開いた。

  また違った芝浜がやれました。
  よかったと思います。

2007年12月18日。東京、有楽町。
立川談志とっておきの十八番、人情噺「芝浜」を演じる恒例の落語会。
何度となくこの噺をやってきた談志師匠にとっても、この日の出来は格別だった。

一度下がった幕が再び上がり、談志がしみじみと語りはじめた。

 一期一会ですね。
 けど、こんなにできる芸人を
 そう早く殺しちゃもったいないような気もします。
 くどいようですが、一期一会、
 いい夜をありがとうございました。

後に、「神がかりの芝浜」と呼ばれるこの会。
落語の神にふれたせいか、いつになく謙虚な談志師匠。
一期一会の名演に、再び拍手がわき起こった。






立川談志という男

 学問は貧乏人の暇つぶしだ。

そんな、高座での奔放な発言も魅力だった、立川流家元、立川談志。
ある日の落語会で、こう語った。

  俺は正しい人間だと言える。
  なぜかというと、いつも間違ってねえかな、大丈夫かなと思ってる。
  これを正しい人間と言うんじゃないんですかね。

奔放の裏側にある謙虚さ。
これが立川流、嘘のない生き方。






立川談志という男

立川談志、35歳の時のこと。
参議院議員選挙に出馬し、周囲を驚かせた。
選挙当日の夜。
開票がはじまったが、
夜が更けても談志の名前は出てこない。
とうとう最後の当選者となった時、
立川談志の名前が呼ばれた。
リポーターからコメントを求められて一言。

 真打ちは最後に出てくるもんだ。

これぞ、落語家、立川談志の粋。






立川談志という男

落語の中には、色々な登場人物が出てくる。

あくびの作法を教える師匠。
生きているのに死んでいると思い込む人。
犬から人間に生まれ変わった人。
みかん欲しさに病気になる人。
狸に殿様、酔っぱらい。
立派な武士まで、実に様々。

落語家、立川談志は、
落語とは何かという問いを、こう結論づけた。

 落語とは、人間の業の肯定である。

業とは、人間の心の奥にある、どうしようもない部分のこと。

人間のありのままを受けとめる。
それが、落語であり、
それが、立川談志だった。


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中村直史 12年1月22日放送


立川談志という男

2007年1月。渋谷パルコ劇場。
落語をやり終えた立川志の輔は、
割れんばかりの拍手を受けながらも、いまだ緊張しているように見えた。

客席に師匠、立川談志が来ていた。
談志が弟子の落語を客席から見るのは極めてまれ。
しかも芸に厳しい談志。
客の前であろうと、何を言い出すかわからない。

「本日は客席に私の師匠、立川談志が来ております」
志の輔が紹介をした。

談志はすっと立ち上がると
ステージの志の輔に向かって、無言で親指を立てグーサインを出した。
深々とおじぎをする志の輔。
どれほどの賛辞か、本人が痛いほどわかっただろう。

立川談志は死んだ。
けれど、談志は生きている。
たとえば、志の輔の落語の中にも。






立川談志という男

精神に肉体が追いつかない。
病と老いに、談志はとまどった。
いらだち、眠れない日々がつづいた。

ヒツジを数えて寝ようとすると、無限に数えてしまう。
だから、キリのあるものにしようと思って
鈴木と名のつく人を挙げてみる。
すると記憶のひだの中から
有名人、無名人、過去の人、いまの人、いくらでも名前が浮かび上がる。
そしてまた眠れない。

ずば抜けた記憶力が
天才、立川談志の芸を支え、
同じくらい苦しめていたかもしれない。





Jaidn
立川談志という男

立川談志が落語に追い求めた「イリュージョン」を受け継いでいる。
そう評されたのが、弟子、立川志らく。

志らくは最後に談志を見舞った日、
心の中でお別れの言葉を言ったという。

 師匠、私がいるから、落語は大丈夫です。

立川流を名乗る者として、
それ以上の別れの言葉はなかった。


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