渋谷三紀 11年12月17日放送



幸せを運ぶ男/サンタクロース

ニューヨークの新聞社に一通の手紙が届く。
差出人は8歳の少女バージニア。

サンタクロースっているんでしょうか。
手紙に書かれた子供らしいまっすぐな問いかけに、
ある記者が新聞を通じて返事を返した。

サンタクロースを見た人がいないことは、
サンタクロースがいないことの証拠にはなりません。

愛や、思いやり、そしてサンタクロース。
目に見えないものを信じることができたら、
人生は楽しく美しいものになる。
ひとりの子どもに向けて書かれたその手紙は、
サンタクロースを信じられなくなった
すべての大人たちへの手紙でもあったのです。



幸せを運ぶ男/佐々木則夫監督

ドイツワールド杯を制し日本中を沸かせた、
なでしこジャパン。
チームを率いた佐々木則夫監督は、
大変な愛妻家として知られている。

いまから20年ほど前、
病気で倒れた妻の看病に専念するため
サッカーを辞めようとした監督をひきとめたのは、
妻だった。

私のための人生じゃなくて、
あなたの人生なんだから、
大好きなサッカーを辞めないで。

夫としても、監督としても、
ぐいぐい引っ張っていくタイプではないだろう。
自分を捨ててでも、献身的に相手を支えるその姿が
女性たちの心を掴んできたことは、想像にかたくない。

ワールド杯の優勝はもちろん、
そばにいる女性たちとその人生を輝かせたことも、
佐々木監督の偉業なのだと思う。



幸せを運ぶ男 中原淳一

可憐な少女のイラストで知られる画家、中原淳一。

女性を見つめ描きつづけた中原先生は、
若い娘たちにこんなアドバイスをおくっている。

 誰が見ていなくても
 美しい寝まきを着て寝てください。
 それは昼間のあなたを明るく美しくしますから。

ほんとうの美しさは、しぐさや表情といった
普段の何気ない所作にこそ現れる。
美しいひとになりたいなら、
生き方が美しい人にならなければね。
中原先生からのやさしくもきびしいお言葉です。

topへ

岡安徹 11年12月17日放送



幸せを運ぶ男/メンデルスゾーン

結婚式では定番となった、
メンデルスゾーンの結婚行進曲。

もともとは、シェイクスピアの戯曲、
「真夏の夜の夢」に対して後年作曲された
劇付随音楽であることをご存知だろうか。

「真夏の夜の夢」の劇中では、
目を開けて最初に見た人を愛してしまうという魔法により、
男女の運命が翻弄される。

「結婚行進曲」が流れるのは、その魔法から解き放たれ
結ばれるべき者どうしが結ばれる結婚式の場面。

色んな恋を経験して初めて、真の愛が分かる。
そんなメッセージが聞こえてくるようだ。



幸せを運ぶ男/ヒュー・ヘフナー

プレイボーイ誌創刊者、ヒュー・ヘフナー。
85歳にして若い恋人をつくり続ける、
世界に名だたる正真正銘のプレイボーイ。

「プレイボーイとは別れ方が上手な男のことさ」
という言葉は彼のためにあるかのように、
破局を次の恋の始まりにしていく。

なぜ、彼はもてるのか。もちろん、地位や名誉も魅力のひとつ。
しかしなにより、若々しさというファッションで身を包んでいるからこそ、
若い女性とうまくいくのかもしれない。

一番最近別れた彼女は、60歳年下の25歳。
「僕より若い男達よ。じっとしていてはいけないよ」
そう、激励されているような気がする。

topへ

宮田知明 11年12月17日放送



幸せを運ぶ男/浅尾拓也

打率リーグ最下位。
今年、そんなチームをリーグ優勝まで導いた原動力は
まぎれもなくその層の厚い投手陣。

中でも、特に輝いていたのは、
セ・リーグMVP、
中日ドラゴンズのセットアッパー、浅尾拓也。

2011年は球団新記録の79試合に登板し、
防御率は0.41。

絶対的な安定感でドラゴンズに
リーグ優勝をもたらした彼のMVP受賞式。
そんな彼へのインタビューは、なぜか謝罪会見に。
そこには、浅尾らしい、
謙虚さがにじみ出ていた。

 吉見が取るもんだと思っていました。
 ボクが吉見の勝ちを2つ消してしまったので、
 本当は20勝してるはず。
 ごめんなさいって言いたいです。



幸せを運ぶ男/小林武史

Mr.Childrenをはじめ、
日本を代表する数々のアーティストを
スターダムに押し上げてきた音楽プロデューサー、小林武史。

NHKの番組で
アーティストとの接し方について、
意外にも「友達として」と答えた。

プロデュースする若いバンドのやりたい
路線ではない方向性を示した後、
彼はこんな言葉を使った。

・・・これは友人として言うんだけどね。

今のそのバンドは、殻を破った方がいいが、
でも、殻を破ったからと言って絶対成功するとは限らない。
だから、友人として、そのことを言う、ということ。

相手が若いアーティストだからと言って、
上から押しつけるわけではない、
そのフラットな「友人」としての一言が、
アーティストの心に届くのだろう。

topへ

蛭田瑞穂 11年12月11日放送

旅する作家村上春樹①

1986年の秋、村上春樹は突然日本を離れ、ヨーロッパへ旅立った。
半ば衝動的に旅に出た時の心境を、
村上春樹は太鼓の音という比喩的表現を用いて、こう綴っている。

 ずっと遠くの場所から、ずっと遠くの時間から、
 その太鼓の音は響いてきた。とても微かに。
 そしてその音を聞いているうちに、
 僕はどうしても長い旅に出たくなったのだ。

遠い太鼓に誘われて、村上春樹は旅に出た。
それから丸3年、彼は妻とふたりでヨーロッパを流離い続けた。

村上春樹、作家は旅をする。

旅する作家村上春樹②

1986年秋から1989年秋まで、村上春樹は長い旅に明け暮れた。
ローマを拠点としながら、ヨーロッパの各地を転々とした。
こうした異国の生活を村上春樹は「常駐的滞在者」と自ら呼んだ。

その間、村上春樹は集中して小説を書いた。
『ノルウェイの森』はギリシャで書きはじめ、
シシリー島に移り、ロンドンで完成させた。

『ダンス・ダンス・ダンス』は大半をローマで書いて、
最終的にロンドンで仕上げた。

のちに村上春樹はこれらの作品に関して、こう述べている。

 このふたつの小説には
 宿命的に異国の影がしみついているように
 僕には感じられる。

村上春樹、作家は旅をする。

旅する作家村上春樹③

村上春樹が1990年に出版した『遠い太鼓』は、
1986年から1989年までヨーロッパを旅していた間の
生活を綴った長編エッセイである。

外国でいう本格的な「トラベル・ライティング」で、
彼の好きな作家ポール・セローが書いた旅行記に近い。

3年の間に、村上春樹は妻とふたりで、ヨーロッパを転々とした。
イタリア、ギリシャ、イギリス、フィンランド、オーストリア。

慣れない異国の生活は予想外の出来事の連続だった。
ミコノス島では吹き荒れる冬の風に悩まされ、
シシリー島では車の騒音に辟易し、
ローマでは路上駐車と郵便事情に振り回され、
ロンドンではイギリス英語に手を焼いた。

それでも、村上春樹は『遠い太鼓』のあとがきでこう綴っている。

 旅行というのはだいたいにおいて疲れるものです。
 でも疲れることによって初めて身につく知識もあるのです。
 くたびれることによって初めて得ることのできる喜びもあるのです。
 これが僕が旅行を続けることによって得た事実です。

村上春樹、作家は旅をする。

旅する作家村上春樹④

旅とはいったい何か。

かつて村上春樹は3年もの間日本を離れ、
ヨーロッパの各地を旅してまわった。
その旅を一冊にまとめた『遠い太鼓』という本の最後で
村上春樹はこう書いている。

 僕はふとこういう風にも思う。
 今ここにいる過渡的で一時的な僕そのものが、
 僕の営みそのものが、要するに旅という行為なのではないか、と。
 そして僕は何処にでも行けるし、何処にも行けないのだ。

村上春樹によれば、旅とは人生そのもの。
その意味においては、人は誰もが旅人なのである。

村上春樹、作家は旅をする。

旅する作家村上春樹⑤

村上春樹はかつてウイスキーをめぐる旅をした。

スコットランドのアイラ島を訪ね、
世界的に名高いシングルモルトウイスキーの蒸留所を見学した。
それからアイルランドに渡り、町なかのバーにふらっと入り、
アイリッシュウイスキーを心ゆくまで堪能した。

旅のあと、東京に帰った村上春樹は、
いきつけのバーでウイスキーを飲む度に、
そこで見た風景を懐かしく思い出したという。

緑の草をなでつけながら、丘を駆け上がって行くアイラ島の海風。
あるいは、アイルランドの小さな町のパブに流れる親密な空気。

そして村上春樹はこう綴る。

 旅行というのはいいものだなと、そういうときにあらためて思う。
 人の心の中にしか残らないもの、
 だからこそ何よりも貴重なものを旅は僕らに与えてくれる。
 そのときには気づかなくても、あとでそれと知ることになるものを。
 もしそうでなかったら、いったい誰が旅行なんかするだろう?

村上春樹、作家は旅をする。

旅する作家村上春樹⑥

村上春樹が初めてトルコを訪れたとき、
彼を引きつけたのはそこにある空気だった。
他のどことも違う不思議な空気がトルコにはあった。
そのことを村上春樹はこう綴っている。

 旅行というのは本質的には、
 空気を吸い込むことなんだと僕はそのとき思った。
 おそらく記憶は消えるだろう。
 絵はがきは色褪せるだろう。
 でも空気は残る。少なくとも、ある種の空気は残る。

7年後、そのとき感じた空気を確かめるように、
村上春樹はトルコを再び訪れる。
そのために車の免許を取り、初歩的なトルコ語もならった。
そして頑丈な車を一台借りて、21日間でトルコ全土を一周した。

村上春樹、作家は旅をする。

旅する作家村上春樹⑦

旅先で多くの人は写真を撮る。
そこで見た風景を、ずっと記憶に残すために。

しかし、できあがった写真を見て、
旅先で実際に感じた印象と大きな隔たりがあることも多い。
「こんな感じじゃなかったはずだ」というふうに。

村上春樹はいう。

 残念ながら、僕らの写した写真が、僕らの目にした風景の
 特別な力を写し取っていることは、極めて稀である。

でも、それも悪くないことだと村上春樹は続ける。

 僕は思うのだけれど、人生においてもっとも素晴らしいものは、
 過ぎ去って、もうニ度と戻ってくることのないものなのだから。

村上春樹、作家は旅をする。

旅する作家村上春樹⑧

村上春樹はいう。

 僕は旅行というものがあまり好きではない。
 旅行というのはそもそも疲れるものだ。
 疲れるように出来ているのだ。

そしてこう問いかける。

 それでもあなたは旅に出る。それでも僕も旅行に出る。
 何のために?

村上春樹によれば、それはこういうことである。

 たぶん僕らはそこに自分のための風景を見つけようとしているのだ。
 そしてそれはそこでしか見ることのできない風景なのだ。
 どれほど使いみちがなかったとしても、
 それらの風景を僕らは必要としているのだし、
 それらの風景は僕らを根本的にひきつけることになるのだ。

かくして人は旅に出る。
自分だけの特別な風景を探しに、旅に出る。

(ex)旅する作家村上春樹⑨

1995年の阪神淡路大震災の2年後、
村上春樹は西宮から神戸までをひとり歩いた。

そこは村上春樹が幼少期から10代の大半を過ごした場所である。
しかし、被災した実家はすでにその土地を離れ、京都に移っていた。

家という具体的な絆を失った「故郷」が自分の目にどう映るのか、
そして、自分の育った町に震災がどのような影響を及ぼしたのか、
それを自分の目で確かめるために村上春樹は歩いた。

観光名所に行くことだけが旅ではない。
僻地に行くことだけが旅ではない。
旅とは極めて個人的な体験。
だからこそ人はどんな場所にでも旅することができるのだと、
村上春樹は教えてくれる。

村上春樹、作家は旅をする。

topへ

佐藤理人 11年12月10日放送



ランス・アームストロングの『母』

 病気で死ぬこととレースで負けることは、
 私にとっては同じことだ。

そう言って癌を克服した後、
世界最大の自転車レース『ツール・ド・フランス』で
前人未到の7連覇を成し遂げた男がいる。

ランス・アームストロング。

その不屈の精神を養ったのは、
幼い頃母に言われたこんな一言だった。

  あらゆるマイナスをプラスに変えなさい。
  昔の傷や屈辱は張り合うエネルギーの元になる。

この世で一番大切な人の名を聞かれると、
彼は真っ先に母の名を挙げるという。



ランス・アームストロングの『癌』

癌を乗り越え、『ツール・ド・フランス』で
史上初の7連覇を成し遂げた男、ランス・アームストロング。

病魔が彼を襲ったのは弱冠25歳の時。
当時彼は世界ランクで1位を獲得し将来を大いに期待されていた。

しかし医師が下した診断は残酷だった。
病名は精巣腫瘍。既に肺と脳にも転移しており、生存確率は50%。

ベッドの上でランスは毎日自分に問い続けた。

  もし生き残れるとしたら、
自分は一体どんな人間になりたいのか。

そして彼は過酷な化学療法と脳の手術を受け、
プロの自転車選手として生き続ける道を選んだ。

復帰後、彼は

癌は僕の人生に起こった最良のことだ。

と語った。

主治医が後に語ったところによると、
彼の生存確率は実はたったの3%だったという。



ランス・アームストロングの『山道』

癌から生還し、世界で最も過酷な自転車レース
『ツール・ド・フランス』で史上最多の7冠に輝く男、
ランス・アームストロング。

彼が特に強さを発揮したのは山道のコースだった。
従来の重いギアをゆっくり踏む走り方とは正反対の、
軽いギアでペダルの回転数を上げる走法で、
ランスは2位とのタイム差を積極的に広げた。

後にこの走り方は、
エネルギー効率や筋肉への負担軽減の点で優れていることが証明されたが、
彼の強さの秘密は、何と言っても癌との闘病で得た強靭な精神力だった。

闘病生活を振り返って、彼は言う。

僕には自分の人生全体が見えた。それは単純なことだった。
僕の人生は長くつらい上り坂を上るためにある。



タッカーの『アメリカンドリーム』

1945年、春。
第二次世界大戦の勝利を目前に控え、
アメリカのルーズベルト大統領はある決断をした。

増えすぎた国内の軍需工場を、
既存の大メーカーではなく中小企業に貸し出すというのだ。

どんな大企業も最初は無名の人物によって始まった。
  自由競争こそアメリカンドリームである。

ルーズベルトはそう考えた。

ミシガン州出身のカーデザイナー、
プレストン・トマス・タッカーもその恩恵に預かった一人だ。
かつては爆撃機のエンジンを製造していた
シカゴにある世界最大の工場を借りた彼には、

  理想のクルマを人々に提供したい。

という夢があった。

数年後、彼の夢は、当時の常識では考えられないほど画期的で、
時代を遥かに先取りしたクルマとして実を結ぶことになる。



タッカーの『トーピード』

1948年、ミシガン州出身のカーデザイナー、
プレストン・トマス・タッカーが作ったクルマは世間の度肝を抜いた。

未来的なデザイン、3つのヘッドライトによる安全性の確保、
アメリカ初の後輪駆動がもたらす運転性の向上など、
全てが当時の水準では考えられないほど先進的であった。
彼はそのクルマを「トーピード‐魚雷‐」と名付けた。

トーピードは発表されるや否や大反響を呼び、多くの問い合わせが殺到した。

しかしその出現を脅威に感じた、
フォード、GM、クライスラーのビッグ3は露骨な妨害工作を開始。
タッカーはありもしないクルマを売りつけたとして、
詐欺罪をでっち上げられ告訴されてしまう。

被告人となったタッカーは、裁判の最終弁論で訴えた。

  もし大企業が斬新な発想を持った個人を潰したなら、
  進歩の道を閉ざしたばかりか自由という理念を破壊することになる。
  こういう理不尽を許せば、いつか我々は世界のナンバーワンから落ち、
  敗戦国から工業製品を買うことになるだろう。

翌年、タッカーは無罪を勝ち取ったが、会社は倒産。
トーピードはわずか51台しか生産されず、幻の名車となってしまった。

しかしそのうちの47台が今も現役で走り続けていることは、
タッカーの先見性がいかに高かったかを証明している。

最終弁論でタッカーがした予言は、
やがて日本車とドイツ車の台頭により現実のものとなった。



ミッキー・ロークの『レスラー』

80年代、セックスシンボルの名を欲しいままにした俳優ミッキー・ローク。
しかしその後は薬物中毒や整形手術の失敗などゴシップばかり。
キャリアも私生活も、ルックスまで失った彼のもとに、
ある日一本の脚本が届いた。

50を過ぎても現役を続けるかつての人気レスラー、ランディ。
家族には見放され、長年の無理とドラッグで体はぼろぼろ。
心臓発作を起こし、医者から廃業を勧告される。命の危険がある、と。
引退して私生活を立て直そうと試みるランディ。しかしうまくいかない。

やがて彼は自分にはプロレスしかないことを悟り、
命と引き換えにかつての輝きを取り戻そうとする。

まるで自分の人生のような話に、ロークの心は昂ぶった。
もしこの仕事をしくじったら、
オレは俳優としても、人間としても終わってしまう。
10数年ぶりのチャンスに、ロークは死に物狂いでくらいついた。
夜遊びもきっぱりやめ、数か月に及ぶ厳しいトレーニングにも耐え抜いた。

結果、この映画「レスラー」はベネチア映画祭で最高賞を獲得、
ローク自身もアカデミー主演男優賞にノミネートされる快挙となった。

映画のラストでランディは

  あそこが俺の居場所だ。

と呟き心臓をおさえながらコーナーポストから跳ぶ。
果たして彼は死んだのか。それは誰にもわからない。

しかしロークは再びリングに舞い戻り、見事甦った。



AC/DCの『ベストアルバム』

全世界のアルバム総売上は2億枚を超え、
1980年に発表した「Back in Black」が、
マイケル・ジャクソンの「スリラー」に次いで
歴代2位の売上記録を持つ
オーストラリア出身の世界的ロックバンド、AC/DC。

40年近く第一線で活躍し続けてきた彼らだが、
意外にもまだやったことのないことがある。

ベストアルバムを出したことがないのだ。

その理由をフロントマンのギタリスト、
アンガス・ヤングに尋ねると、

  ファンが持っている曲を
もう一度買わせるようなことはしたくないし、
  アルバムそれぞれに個性があるから
それを壊すような売り方はしたくないんだ。

と、何とも律義な答が帰ってくる。

世界一のロックバンドは、世界一ファン想いでもある。

topへ

三島邦彦 11年12月04日放送



男たちは旅をする/ 安藤忠雄

大阪から四国に渡り、九州、広島を巡って北上、東北へ。

建築家、安藤忠雄は20代のはじめ、旅に出た。
目的は、建築を見ること。

民家から県庁まで大小様々な建築の、
写真ではわからない細部を見て、
建築という仕事の面白さを味わった。

安藤は言う。

 自分の思いを投げかけるのにこれほどすばらしい仕事はないなと思いました。



男たちは旅をする/ パウル・クレー

画家は時に、光を求めて旅をする。

スイス生まれの芸術家パウル・クレー。
30代半ばにして画家としての限界を感じていた彼は、
仲間とともに旅に出た。

行き先は、北アフリカのチュニジア。
彼が求めたものは、パリにはない光だった。
地中海の光が照らす小さな町で、
ついに、クレーは自分にとっての理想的な色彩を見つけた。
それはクレーにとって、画家としての希望の光であった。
当時のクレーの日記に、こんな一節がある。

 色彩が私と一体になった。私は画家なのだ。



男たちは旅をする/ 伊丹十三

1965年、一冊の本が日本の若者に大きな衝撃を与えた。
その本の名は、『ヨーロッパ退屈日記』。
作者の名前は、伊丹十三。
当時俳優だった彼が、外国映画に出演しながら
パリやロンドンで暮らした日々の見聞をまとめた、
一冊のエッセイである。

まだ海外旅行が一般的でない時代。
スパゲッティの正しいゆで方、
アーティチョークという名前の野菜など、
伊丹が描くヨーロッパの姿は、一つ一つが新鮮だった。

そんな伊丹にとっても、
長い旅先の生活で、ホームシックと無縁ではなかった。
伊丹は、それが外国生活を仮の生活だと考えていることが原因だと考えた。
これは、そんな彼の言葉。

  なるほど言葉が不自由であるかも知れぬ。孤独であるかも知れぬ。
  しかし、それを仮の生活だといい逃れてしまってはいけない。
  それが、現実であると受けとめた時に、
  外国生活は、初めて意味を持って来る、と思われるのです。

『ヨーロッパ退屈日記』。
この本には、伊丹がヨーロッパと格闘しながら得た知恵が詰まっている。

topへ

中村直史 11年12月04日放送



男たちは旅をする/咸臨丸の水夫たち

咸臨丸と聞いて、何を思い浮かべるだろう。
咸臨丸。江戸幕府の威信をかけて、太平洋を横断した船。

真っ先に浮かぶ名前は、艦長勝海舟。
同乗者に福沢諭吉、ジョン万次郎。
いずれも、帰国後日本の礎を築いた人々だ。

けれど、日本に帰れなかった者たちもいた。

苗字も持たぬ咸臨丸の水夫たち。
長崎出身の峯吉(みねきち)、香川出身の富蔵(とみぞう)、
そして源之助(げんのすけ)。

夜明け前の日本の夢を乗せて運び、
旅先で静かに息を引き取った3人の水夫。
歴史の試験に出てくることはないけれど、
文明開化の立役者である。



男たちは旅をする/司馬遼太郎

「アメリカに行きませんか」
新聞社の企画として、アメリカの紀行文の依頼を受けたとき、
司馬遼太郎は「とんでもない」と思った。
自分にとってのアメリカは映画や小説の中で十分。
安易に知らない国に出かけるのはどうも気が進まない。
けれど、友人のつぎの一言で、なぜか気持ちが変わる。

 アメリカという国がなければ、この世界はひどく窮屈なんでしょうね。

司馬遼太郎は思った。
日本をふくめ、世界の人々はその国独自の「文化」に
いつの間にか、がんじがらめになっている。

そんな「文化」の対極にあるのが、アメリカが生み出している「文明」なのではないか。
ジーンズしかり、ハンバーガーしかり、ポップミュージックしかり、
どんな文化にも受け入れられるフォーマットが「文明」。
アメリカは歴史上久々に現れた巨大な文明発生装置だ。

興味がわいた。
少しだけ安易な気持ちになれた。
行ってみるか。

その心変わりがあったおかげで、私たちは、
名著「アメリカ素描」を読むことができる。

topへ

三國菜恵 11年12月04日放送



男たちは旅をする/椎名誠

本場のラーメンを求め、中国へ。
プロレスを観に、メキシコへ。
犬ぞりをしに、アラスカへ。
海を見に、ベトナムへ。

さまざまな理由を見つけては
あちこちに旅へと出かけてしまう作家、椎名誠(しいなまこと)。
自らを「旅する作家」と称するほど旅好きの彼に、
いままで行った中でいちばん好きな場所を聞いてみた。

いちばん好きなところは
やっぱりパタゴニアと新宿の居酒屋だなあ

あたらしい場所であたらしいものと出会えるのも、旅のいいところ。
いっぽうで、いつもの場所の大切さに気づけるのも、
旅のいいところかもしれない。



旅と男/倉岡裕之

山岳ガイド、倉岡裕之(くらおかひろゆき)。
世界の山々を旅した彼だが、
何度登っても山への不安は消えないのだという。
けれど、この不安感こそが大切なのだという。

心配するからこそ、
すべての危険を乗り越える解決策を見出す

不安は、試練を大胆に乗り越えるために必要なものなのだ。



男たちは旅をする/沢木耕太郎

「深夜特急」などの代表作で知られる作家、
沢木耕太郎(さわきこうたろう)。
彼は、あるときユーラシア大陸を旅した。
目的をもたず、期限も設けず。
いつを旅の終わりにするかは自分次第だった。

沢木は、旅を終えるにふさわしい場所を探していた。

そこが夢のような景勝地や桃源郷である必要はないが、
どこか心に深く残る土地であってほしい

そう思っていた。

そして、沢木の旅は
ユーラシア大陸のいちばん端、
ポルトガルのサグレスという町で終わりをむかえる。

水平線にはいままさに昇ろうとする朝日が輝いていて、
そこで朝食を食べていたときに、
ふと「帰ろう」と思ったのだという。

topへ

佐藤延夫 11年12月03日放送



アル・カポネという男1

「高貴な実験」。

のちに世間の嘲笑を浴びたアメリカの禁酒法は、
1920年からおよそ14年も続いた。

この法律のおかげで、
酒の密造や密輸、犯罪が爆発的に増えていった。
密造酒ビジネスで巨万の富を得た暗黒街のボス、アル・カポネは語る。

「禁止というものは、トラブル以外、何も産み出さない」

国民が健全になるはずの法律で、アメリカは不健全を覚えた。

いつの時代も、国家が迷走すると
闇の男が主人公になる。



アル・カポネという男2

「家具販売業者」。

これが、アル・カポネの表の顔だった。
本業は、密造酒ビジネスに違法カジノ、売春宿の経営。

稼いだ金は、1927年の1年間だけで、
日本円に換算して、180億円とも言われている。
現在の貨幣価値では、10兆円を超えるという。
カポネは語る。

「私がしていることは、ほかの人と変わらない。
 需要に対して供給をしているだけだ」

悪い奴ほど、悪びれない。



アル・カポネという男3

「シカゴの夜の市長」

暗黒街のボス、アル・カポネはそう呼ばれていた。
秘密酒場や違法カジノの経営で儲けた金は、
自分の仕事をしやすくする場所に出資する。
その投資先は、政治家、警察、裁判所。
中でも禁酒法に関わる捜査官は、一人残らず買収したと言われている。
彼の言葉を拝借すると、

「やさしい言葉に銃を添えれば、
 やさしい言葉だけのときよりも
 多くのものを獲得できる」

正しい者よりも、強い者が正義になる。



アル・カポネという男4

「ムーンシャイン」

アメリカで禁酒法の時代に密造された酒は、
すべてスラングで語られた。

月明かりでこっそり酒を造るから、ムーンシャイン。
ブーツに酒を隠す密売業者は、ブートレガー。
もぐりの酒場は、スピークイージーと呼ばれた。
こっそり酒を注文できる、という意味だ。
また、ギャングたちが当時流通し始めたトンプソン・マシンガンを乱射することから、
この機関銃は、シカゴ・タイプライターという異名を持つ。

不条理がルールとなり、
非常識が、常識になる時代。

シカゴ暗黒街のボス、アル・カポネは
こんな言葉を残している。

「俺が酒を売ると密造と呼ばれるのに、
 パトロンの連中が銀のお盆に載せて出すと、それは「もてなし」と呼ばれるんだ」

この男は、アメリカの黒い歴史を謳歌した。



アル・カポネという男5

「スカーフェイス」

これは、アル・カポネの若かりしころのニックネーム。
傷のある顔、という意味だ。
喧嘩で顔に傷を付けられたことから、
チンピラ仲間が、からかい半分に名付けた。

それから数年、
カポネは暗黒街のボスになった。
スカーフェイス。
シカゴ中を探しても、誰もそう呼ぶ者はいなくなったそうだ。

権力は、暗い過去を消してしまう。



アル・カポネという男6

「38口径のコルト・ポリスポジティブ」

それは、暗黒街のボスと呼ばれたアル・カポネが
実際に使用した拳銃だ。

彼が暗躍したおよそ90年後の今年、
この銃はロンドンのオークションで落札された。
日本円で、870万円の値がついた。

当時シカゴでは、
何人の男が、銃口を向けられたのだろうか。



アル・カポネという男7

「囚人85号」

1931年、アル・カポネは23件の脱税容疑で逮捕され、
アルカトラズ刑務所に叩き込まれる。

全盛期には、配下の殺し屋が700人。
経営するもぐりの酒場は、2万軒を越えたという。

自宅には、三カ所に門番を配し、
裏手の桟橋にはモーターボートとクルーザーが停泊する。
そして愛車のキャデラックには、厚い装甲が施された。

のちにシカゴの高級ホテル、レキシントンを住まい兼事務所にし、
ギャングとして初めてアメリカの雑誌、タイム誌の表紙を飾った。
カポネは語る。

「他人が汗水たらして稼いだ金を
 価値のない株に変える悪徳銀行家は、
 家族を養うために盗みを働く気の毒な奴より、
 よっぽど刑務所行きの資格がある」

悪を突き詰めると、男はセクシーになる。

topへ

名雪祐平 11年11月27日放送



肉体コンプレックス チャールズ・ブコウスキー1

父が失業した。
そして、息子への虐待が始まった。

息子の精神は追い詰められ、
全身が悪性のニキビに襲われた。
その酷さは整形手術を受けるほどだった。

写真など撮られたくもない。
人に近づきたくもない。
ぽつんと孤独な学生時代。

やがて大学を中退し、アメリカ放浪の旅に出た。
肉体労働で稼ぎ、酒びたりになりながら。

安いモーテルで、いつもいつも詩を書いた。

それが、いま世界中でカルト的人気を誇る作家
チャールズ・ブコウスキーの
若い日々だった。



肉体コンプレックス チャールズ・ブコウスキー2

若いときから、
女にまったくモテなかった。

肌はでこぼこ、醜く、孤独な作家
チャールズ・ブコウスキーの小説や詩は
労働者たちに愛された。

ロサンゼルスの郵便局を辞め、
やっと作家一本でやれるようになったのは
50歳のとき。

作品が売れ出したとたん、
いままで無視していた女たちが次々と寄ってきた。
それはまるで甘い砂糖水にたかる虫。

そんな女たちを、恨みでも晴らすかのように抱き、
インタビューでは
「一晩で6人の女と寝た」と笑った。

73歳で亡くなるまでパンクな人生を貫いた
ブコウスキーの墓には、こんな言葉が刻まれてる。

DON’T TRY.
やめておけ。



肉体コンプレックス  三島由紀夫1

肉体は、人生を左右する。

文豪・三島由紀夫の
子どものころのあだ名は、アオジロ。

青白い顔、貧弱な体のせいでイジメられた。

肉体にコンプレックスを抱えた三島は、
作家になってからボディビル、剣道、水泳に通い、
肉体改造にいそしんだ。

そして見事な、
筋肉隆々になった三島はこう書いている。

 私はようやくこれを手に入れると、
 新しい玩具を手に入れた子供のように、
 みんなに見せ、みんなに誇り、
 みんなの前で動かしてみたくてたまらなくなった。

 私の肉体はいわば
 私のマイ・カーだった。

1963年、そのマイ・カーを撮影した
前衛的なヌード写真集『薔薇刑』が発表された。

当代きっての人気作家が世の中に
センセーショナルな裸を突きつけたのだ。

この写真集は、三島の死後、
世界の代表的な写真集として
「20世紀101冊の名作」に選ばれている。

筋肉とは何だろう。
強いものこそ美しいという哲学か。



肉体コンプレックス 三島由紀夫2

三島由紀夫といえば、
数々の名作とともに、ボディビルの印象が強い。

幼いころから
か細かった体を大人になって鍛え上げ、
頑健な肉体に改造した。

作家なのに、なぜそんなに鍛えるのか。
三島はニヤリと答えた。

 ぼくは切腹して死ぬからだよ。

 本当に切腹するとき脂身が出ないよう、
 腹筋だけにしようと思っているんだ。

この強烈なナルシストは用意周到に、
自決する日に向かって
自らの姿をイメージをしていたのだろう。

1970年11月25日、クーデターに失敗し、
三島は本当に腹筋を引き裂いた。



肉体コンプレックス カレン・カーペンター

神から授かった美声の持ち主
カレン・カーペンター。

兄リチャードとのポップ・デュオ、
カーペンターズのヴォーカリストとして、
世界中でメガヒットを飛ばし続けた。

すべてが順調のようにも見えた。

幼いころから兄を崇拝するがために、
自己評価が低いカレン。
すこしぽっちゃりした体型も
ステージ中央に立つことになってしまったことで、
コンプレックスになってしまったのか。

よくあるダイエットは、
狂気の拒食症へと変貌していった。

歌のツアーで非常に激しい仕事をしながら、
下剤を一晩に80錠以上も服用していたという。

身長163cmに対して、
体重はたった35kgに落ち込んだ。

享年32歳。

何がカレンをそうさせたのか。
いまは、美しい歌声が聞こえるだけ。



肉体コンプレックス ゲーテ

文豪、ゲーテ。

ワインを1日2~3リットル吞み、
肉料理や甘い菓子が大好きな大食漢だったという。

74歳のとき、心筋梗塞を患い、
死の危機に直面するが、復活した。

ゲーテは医者に聞いた。

 自分の年齢で結婚は体に毒か?

実はこのとき、
ゲーテははるか年下の17歳の少女に
熱烈な恋をしていたのだった。

医者には止められなかった。
しかし、少女の母親からは猛反対され、
結婚は叶わなかった。



肉体コンプレックス 松田優作

1970年代、テレビに松田優作がいた。

人気抜群だったゆえに
固まってしまった自分のイメージに
苦しめられた。

自分自身を壊せ。

映画『野獣死すべし』では
奥歯を4本抜き、体重を10kg減量する。

185cm近い身長も高すぎる、と感じた。
骨を削って低くできないか、
足を5cm切ろうかと思ったという。

ものすごい役者魂。

足が短い人には、
考えもつかない話である。



肉体コンプレックス サミー・デービスJr.

美貌の女優マイ・ブリッドを妻に射止めた
歌手サミー・デービスJrが言った。

 いまの自分に不満は一つもない。

すると、底意地悪いインタビュアーが聞いた。

あなたのつぶれた鼻や、
片方しかない目や、
醜さについても?

サミーはこたえた。

 ぼくみたいな完璧に醜い男は、
 かえって魅力的なのさ。

並みの男くらいなら醜いほうが目立ち、
そのうち魅力にも気づいてくれる、
という持論だった。

なるほど。
きっと、並みのインタビュアーが
足元にもおよばないくらい
モテたに違いない。

topへ


login