名雪祐平 12年1月29日放送



ぼくらはすこし死んでいる 1.レイモンド・チャンドラー

女から結婚を持ちかけられたが、
それを断ってしまった男。

その心境はどういうものか。

レイモンド・チャンドラーが書いた
小説『ロング・グッドバイ』の一場面。

私立探偵フィリップ・マーロウは、
女と別れた朝、
ベッドに残された1本の黒髪を見た。

その時、小説家は男にこんなセリフを吐かせる。

 さよならを言うのは、
 少しだけ死ぬことだ。

つらい別れにじっと耐え、
世界から切り取られたような男が
そこにいた。


Monosnaps
ぼくらはすこし死んでいる 2.ボブ・マーリー

ボブ・マーリー、
歌うことで国家を変えた男。

ジャマイカが混乱し、悲惨な時、
人々にこう訴えた。

 おまえの口からついてでる言葉が、
 おまえを生かすのだ。
 おまえの口からついてでる言葉が、
 おまえを殺すのだ。

レゲエの神様は教えてくれた。
自分の言葉が、自分に、世界に影響することを。

完全にポジティブになるまで
すこしのネガティブが、すこし殺していることを。

ほんとうに神様だったのかもしれない。
絶大な存在感で、世界を変えた。



ぼくらはすこし死んでいる 3.草野心平

草野心平は、蛙の詩人、である。

昭和3年の詩集『第百階級』は、
全篇、蛙がテーマ。

どうして蛙なのか。
心平によれば、

蛙は人類よりも古くから存在し、
総理大臣もいなくて全員庶民だから、となる。

『第百階級』には、ゲリゲという蛙が登場する。

蛇に呑み込まれたゲリゲが瀕死状態で叫ぶ。
それはこの世でもがく詩人、心平自身の分身。

ゲリゲは仲間に向かって
必死にこう伝えるのだ。

 死んだら死んだで生きてゆくのだ。

肉体は滅びても、魂は生き残る。

心平は命の限り、晩年まで書き続けた。
その魂は、作品というかたちで、
死んだら死んだで生きてゆくのだ。



ぼくらはすこし死んでいる 4.高村光太郎

死ぬことに想いをめぐらし、
死に近づく。
すると、生きる言葉が浮かび上がる。

自分の最期にどんな言葉を刻むか。
高村光太郎の『ある墓碑銘』という詩は
こう始まる。

 一生を棒に振りし男此処に眠る。
 彼は無価値に生きたり。

光太郎の自嘲的なこの言葉は、逆説であるらしい。

話すこと。歩くこと。詩を書くこと。
そういう腹の足しにもならない無駄こそ
全身全霊、命がけでやる、という強い誇りが、
言葉にあふれている。



ぼくらはすこし死んでいる 5.小熊秀雄

 女よ、
 真実よ、
 お前を先に突落して
 逃げかへるやうな
 私は薄情な男ではない
 人生とは
 その日、その日の、
 情死の連続のやうなものさ

これは、戦前のプロレタリア詩人
小熊秀雄の詩の一節である。

人生とは、それぞれの状況で選択を迫られる。
それは自分を限定し、
他の可能性を死なせていくことでもある。

人生はそのくり返し。情死の連続。
と、詩人は記した。

この世に、情死しない男など
いないのだ。



ぼくらはすこし死んでいる 6.岡倉天心

明治時代の思想家、岡倉天心は
こう書いた。

 堂々男子は死んでもよい。

死にもの狂いで新境地を開いていこうとする
渾身の男の言葉である。

現在の東京藝術大学の設立に奔走し、
日本美術院の創設者としても、
近代日本の美術界を築いてきた天心。

死を覚悟してはじめて、
人間の生命力は
ほとばしるのかもしれない。


tokushima2000
ぼくらはすこし死んでいる 7.松田優作

俳優松田優作が残した言葉がある。

 人間は二度死ぬ。
 肉体が滅びた時と、
 みんなに忘れられた時だ。

その意味で、伝説になった彼は
二度死んでいない。

しかし、いま生きている自分の場合は
どう考えたらいいだろう。

まわりから忘れられた時が死ならば、
毎日死んだり、毎日生き返ったり、
ずいぶん忙しそうだ。

せめて自分で自分のことは
忘れずに気をつけていたいもの。



ぼくらはすこし死んでいる 8.ジェームズ・ディーン

もし、エレガンスな死に方があるとしたら、
どういうものだろう。

ある時、ジェームズ・ディーンは
こう言葉にしてしまった。

 速く生き、若く死に、
 美しい死体になろう。

この言葉がまるで予言となり、
死神がすこしずつ忍び寄ってきたのだとしたら。

24歳での衝撃的な自動車事故死。
その死は、はたして、美しかったのだろうか。

時が過ぎ、美しい伝説のように語ることは、
生き残った者の勝手なのかもしれない。

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渋谷三紀 12年1月28日放送


A. Davey
つくる男/映画/三谷幸喜

三谷幸喜監督の撮影現場でのこと。

大工役に
たくさんの老人俳優をキャスティングしたところ、
どうも思うような絵が撮れない。

撮影前は元気なのに、
カメラの前に立つとパワーダウンして
話し方までゆっくりになってしまう。

思い悩むうち、三谷は気づく。
彼らは老人を演じているのだ。

ご老人役にはご老人俳優という作り手の意図。
そこに、演じるという演じ手のプロ意識が加わることで、
いかにもすぎる不自然な老人ができあがってしまうのだから、
なるほど、映画づくりはむずかしい。
三谷監督は俳優たちにこう声をかけた。

普通な感じで演じて下さい。
心配はいりません。
皆さん、普通のままでも十分お爺さんですから。


acaben
つくる男/ファッション/三宅一生

アップルの前CEOスティーブ・ジョブスのトレードマークとなった
黒いタートルネックは、三宅一生のデザイン。
すでに生産中止になった商品にもかかわらず
全く同じ色合い、肌合い、袖を捲り上げたときの感触のものを、
100枚以上つくらせて積んでおくほどの気に入りようだったという。
考えてみれば、

きれいで終わる服じゃなく
着たいと思う服を作ろう。
という三宅一生のデザイン哲学は、

どう見えるかでなく
どう機能するか。
というスティーブ・ジョブスの哲学とみごとに重なる。

シンプルな哲学でつくりあげた
シンプルなプロダクツは
人の身体にも心にもよく馴染むようだ。


hakkaku
つくる男/笑い/萩本欽一

天然ボケ。
いまでは普通に使われているその言葉を
初めてつかったのは、欽ちゃんこと萩本欽一。

当時明石家さんまの運転手をしていたジミー大西に、
「天然にボケてる人だ」と言ったことが始まりだとか。

悪意がなく、みんなを笑わせてくれるボケ役は、
周囲を和ませ、誰からも愛される。

ボケ役について欽ちゃんはこんなことも言っている。

自分の欠点を突かれてニコニコしていられる人は
いいボケができるよ。

それができたら、お笑いの世界じゃなくても、最強かもしれません。


hello_hiroki
つくる男/歌詞/松本隆

書いた曲は2000曲以上。
51曲のオリコン1位は日本一。
アイドルからロック、クラッシックまで
40年以上ヒットメーカーとして走りつづける作詞家松本隆。
現在も依頼がひっきりなしの松本は、
作詞についてこんなことを言っている。

「愛してる」と連呼されても信用できないでしょう。
どうしたら「愛してる」とか「好き」って言葉を使わずに
その気持ちを伝えられるか。
それがわかれば歌になります。

ともすれば、
イメージの広がりよりもわかりやすさがもてはやされる
現在の音楽シーン。
その中にあってなお
聴き手の想像力を信頼できるかどうかが
消費されない作詞家の条件かもしれない。


steevil
つくる男/エンターテイメント/ウォルト・ディズニー

決して忘れてはならない。
すべての始まりが一匹のネズミだったことを。

黒くて丸い耳に、大きな白い靴。
世界中で愛されているミッキーマウスの生みの親
ウォルト・ディズニーの言葉。

貧しかったウォルトは、
ガレージに古いカメラを据えてやっとの思いでつくった
アニメ『うさぎのオスワルド』の権利を配給会社に奪われてしまう。
うなだれて帰る汽車の中ふと浮かんだのが、ネズミのキャラクターだった。

「蒸気船ウィリー」でのデビュー後は、25年で100本以上
ミッキーシリーズの映画が制作され
ドナルド、プルート、グーフィーなど
多くの人気キャラクターがミッキーとの共演から巣立っていった。

ディズニーの成功は映画だけにとどまらなかった。
カルフォルニアを皮切りに世界中にディズニーランドを開園。
現実に夢の世界をつくりあげた。

夢が現実を変え、それがまた、世界に夢を与えつづける。
そのきっかけは複雑な理論でも難解な思想でもなく
たった一匹のネズミだった。


David_Reverchon
つくる男/詩/ジャン・コクトー

フランスの芸術家、ジャン・コクトー。
小説や演劇、舞踏、評論、デッサンと、その活躍は多岐にわたるが
すべての活動の根底には「詩」があり、
彼自身、「詩人」と呼ばれることを好んだ。

あるインタビューで
「あなたは死んだら、地獄と天国のどちらにいくと思いますか?」
と聞かれたコクトーは、こんな風に答えた。

どちらでも。そのどちらにも会いたい友人がいるのでね。

詩人、ジャン・コクトー。
「人生」という作品の根底にもやはり「詩」があった。


Edwin Leung
つくる/建築/アントニオ・ガウディ

サグラダファミリアにグエル公園、カサミラと、
スペインのバルセロナを歩けば目に飛び込んでくる独創的な建物の数々。
それらを手掛けたのが建築家アントニオ・ガウディ。

「鳥の翼は飛ぶためにあります」といった教師に、
「鶏の翼は走るためにありますよね」と反論した。
というエピソードからわかるように、
少年時代から鋭い観察眼で周囲をあっと言わせていたガウディは
こんなことを言っている。

人間がつくりだすものは、
すでに自然という偉大な書物に書かれている。

つくることは、見つけること。
創造の種は世界中にあふれていると
ガウディは教えてくれる。

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三島邦彦 12年1月22日放送


Misogi
立川談志という男

落語家、立川談志は、
ファンからサインを頼まれるといつも、
その時頭に浮かぶ一言を添えていた。

酒場でサインを求められた時は、

 酔おうよ 世の中がきれいにみえてくる

おいしくない定食屋からサインを求められると、

 がまんして食え

その中で、何度も談志が書いた言葉、それは、

 幸せの基準を決めよ

そして、

 人生成り行き



立川談志という男

万雷の拍手。

向けられる先は、舞台の上で頭を下げる一人の男。落語家、立川談志。

深いお辞儀から顔を上げ、両手をふせて拍手をおさめる。
腕を組んで、何度もうなずき、口を開いた。

  また違った芝浜がやれました。
  よかったと思います。

2007年12月18日。東京、有楽町。
立川談志とっておきの十八番、人情噺「芝浜」を演じる恒例の落語会。
何度となくこの噺をやってきた談志師匠にとっても、この日の出来は格別だった。

一度下がった幕が再び上がり、談志がしみじみと語りはじめた。

 一期一会ですね。
 けど、こんなにできる芸人を
 そう早く殺しちゃもったいないような気もします。
 くどいようですが、一期一会、
 いい夜をありがとうございました。

後に、「神がかりの芝浜」と呼ばれるこの会。
落語の神にふれたせいか、いつになく謙虚な談志師匠。
一期一会の名演に、再び拍手がわき起こった。



立川談志という男

 学問は貧乏人の暇つぶしだ。

そんな、高座での奔放な発言も魅力だった、立川流家元、立川談志。
ある日の落語会で、こう語った。

  俺は正しい人間だと言える。
  なぜかというと、いつも間違ってねえかな、大丈夫かなと思ってる。
  これを正しい人間と言うんじゃないんですかね。

奔放の裏側にある謙虚さ。
これが立川流、嘘のない生き方。



立川談志という男

立川談志、35歳の時のこと。
参議院議員選挙に出馬し、周囲を驚かせた。
選挙当日の夜。
開票がはじまったが、
夜が更けても談志の名前は出てこない。
とうとう最後の当選者となった時、
立川談志の名前が呼ばれた。
リポーターからコメントを求められて一言。

 真打ちは最後に出てくるもんだ。

これぞ、落語家、立川談志の粋。



立川談志という男

落語の中には、色々な登場人物が出てくる。

あくびの作法を教える師匠。
生きているのに死んでいると思い込む人。
犬から人間に生まれ変わった人。
みかん欲しさに病気になる人。
狸に殿様、酔っぱらい。
立派な武士まで、実に様々。

落語家、立川談志は、
落語とは何かという問いを、こう結論づけた。

 落語とは、人間の業の肯定である。

業とは、人間の心の奥にある、どうしようもない部分のこと。

人間のありのままを受けとめる。
それが、落語であり、
それが、立川談志だった。

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中村直史 12年1月22日放送



立川談志という男

2007年1月。渋谷パルコ劇場。
落語をやり終えた立川志の輔は、
割れんばかりの拍手を受けながらも、いまだ緊張しているように見えた。

客席に師匠、立川談志が来ていた。
談志が弟子の落語を客席から見るのは極めてまれ。
しかも芸に厳しい談志。
客の前であろうと、何を言い出すかわからない。

「本日は客席に私の師匠、立川談志が来ております」
志の輔が紹介をした。

談志はすっと立ち上がると
ステージの志の輔に向かって、無言で親指を立てグーサインを出した。
深々とおじぎをする志の輔。
どれほどの賛辞か、本人が痛いほどわかっただろう。

立川談志は死んだ。
けれど、談志は生きている。
たとえば、志の輔の落語の中にも。



立川談志という男

精神に肉体が追いつかない。
病と老いに、談志はとまどった。
いらだち、眠れない日々がつづいた。

ヒツジを数えて寝ようとすると、無限に数えてしまう。
だから、キリのあるものにしようと思って
鈴木と名のつく人を挙げてみる。
すると記憶のひだの中から
有名人、無名人、過去の人、いまの人、いくらでも名前が浮かび上がる。
そしてまた眠れない。

ずば抜けた記憶力が
天才、立川談志の芸を支え、
同じくらい苦しめていたかもしれない。


Jaidn
立川談志という男

立川談志が落語に追い求めた「イリュージョン」を受け継いでいる。
そう評されたのが、弟子、立川志らく。

志らくは最後に談志を見舞った日、
心の中でお別れの言葉を言ったという。

 師匠、私がいるから、落語は大丈夫です。

立川流を名乗る者として、
それ以上の別れの言葉はなかった。

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佐藤理人 12年1月21日放送


rknickme
ジェームズ・ブラウンの『少年時代』

子ども時代の貧しさをバネに、成功をつかむスターは多い。
中でもこの男ほど「たたき上げ」と呼ぶのに
ふさわしい人物はいない。

掘立小屋で生まれ、母親はすぐに家出。
父親はいつも仕事でおらず、暮らしは食べるので精一杯。
唯一の友だちは父親が買ってくれたハーモニカだけ。
孤独のあまり、父親が聴いていたブルースを吹いたのが、

 ゴッドファーザー・オブ・ソウル

後に「ソウルの帝王」と呼ばれる
ジェームズ・ブラウンが音楽に目覚めた瞬間だった。

しかし幼いジェームズにとって、
ブルースは決して好きな音楽ではなかった。
一人ぼっちで夜を過ごす子どもにブルースは、
その名の通りあまりに悲しすぎる音楽だったのだ。



ジェームズ・ブラウンの『キング牧師』

ソウルの帝王、ジェームズ・ブラウン。
60年代、彼は公民権運動を支持し、
マーティン・ルーサー・キング牧師と親交を深めた。

1968年4月4日、キング牧師が暗殺され、
全米各地で暴動が起きると、
ジェームズはすぐに自分のラジオ局から、

 平静を保つことでキング牧師の名誉を称えよう

とメッセージを流し続けた。

翌日ボストンで予定されているコンサートもあえて敢行。
その模様をテレビで生中継して、人々を外出させないようにした。

キング牧師を称え、

暴力に訴えることは彼の魂を救うことにならない

と人々に自制を求めたこのコンサートは何度も再放送され、
結果ボストンでは一度も暴動が起きなかったという。


Heinrich Klaffs
ジェームズ・ブラウンの『仕事術』

 The hardest working man in showbusiness.

ショービジネス界一の働き者といえば、
ソウルの帝王、ジェームズ・ブラウンだ。

遅刻を認めず、演奏でミスをしたら罰金をとるなど、
最高のステージをつくるためにメンバーに妥協は一切許さなかった。
その容赦なさにメンバーとは常に諍いが絶えなかったという。

1970年のそんなある日、事件は起きた。
ギャラのアップを求めてメンバー全員がストライキを始めたのだ。

ライブ当日にも関わらず要求を撤回せず、
演奏準備を始めようとしないメンバーたち。
怒ったジェームズはその場で全員をクビにしてしまった。

しかしコンサートを中止するわけにはいかない。
無名の若手バンドを急きょ自家用ジェットで呼び寄せ、
どうにかコンサートは開催された。

そんな彼らとジェームズが初めて作った曲が、
ファンクの歴史的名曲「Sex Machine」になることは、
このとき誰も想像しなかったに違いない。

転んでもただでは起きないのが、帝王の帝王たるゆえんなのである。


Erik K Veland
ジェームズ・ブラウンの『東京』

2006年3月4日、東京国際フォーラム。
そのステージにジェームズ・ブラウンは立っていた。

ソウルの帝王と呼ばれた男もすでに73歳。
一年前には前立腺癌の手術をしたばかり。
正真正銘、病み上がりの老人だった。

癌を公表したときジェームズは、

 人生で多くのことを克服してきた。
癌も同様に乗りこえてみせる。

と語った。
そしてその言葉が嘘ではないことを彼は証明してみせた。

ミラーボール1個だけのシンプルなステージに、
ピンクの衣装を着て現れたジェームズ。
それから2時間。
彼は一度も止まることなく歌い、踊り、動きつづけた。
緻密で流れるようなそのステージを掌握しているのは、
まぎれもなく生きる伝説本人だった。


Heinrich Klaffs
ジェームズ・ブラウンの『命日』

 力がなければ自由は手に入らない。
 そして、自由がなければ創れない。

そう語ったソウルの帝王、ジェームズ・ブラウン。
貧困や差別と闘い、ライバルや時代の流れとも闘いながら、
自らの才能と努力で自由を掴んだ男。

マイケル・ジャクソンやプリンスに師と崇められる一方で、
度重なる暴力事件、麻薬所持、警官とのカーチェイスなどで
有罪判決を受けたことは数知れず。

そんな彼も、病魔には勝てなかった。

2006年12月25日、
才能と狂気が服を着て歩いている男、
ジェームズ・ブラウンは心不全で
その73年の破天荒な人生に幕を閉じた。

決して信心深かったとは思えない彼だが、
その命日は偶然にもキリストが生まれた日であった。


jbspec7
クリス・バングルの『Z8』

映画「007」シリーズでジェームズ・ボンドが乗る車、
通称「ボンドカー」はどれも超高級車でありながら、
いつも無残に大破する。

中でもシリーズ第19作
「ワールドイズノットイナフ」で使われたBMWのZ8は悲惨だった。
大型チェーンソーで真っ二つにされてしまうのだ。

そのZ8をデザインしたのが、
BMWのデザイン責任者を18年間務めたクリス・バングルだ。

その奇抜なデザインは大きな物議を醸し、
バングルはBMWを潰すために
メルセデスが差し向けた刺客ではないか、
と言いだす者さえ現れた。

しかし彼のデザインは爆発的な成功を収め、 
彼自身も世界3大カーデザイナーの一人
という最高の評価を手に入れる。

多くの批判にさらされながらも、
決して意見を曲げることのなかったバングル。
彼は自らのデザイン哲学をこう述べる。

いくらよく走るBMWでもその生涯の80%は停止している。
だから車は、そのものとして美しくなければならない。

そんな彼にとって「完璧」と思えた車が、
あの真っ二つにされたZ8であったのは何とも皮肉な話だ。


Jaidn
ブライアン・メイの『レッドスペシャル』

世界的ロックバンド、クイーン。

そのサウンドの特徴である
クラシックのようなギターオーケストレーションは、
実はたった1本の手作りギターでできていた。

 レッドスペシャル

という名のそのギターは、
ギタリストのブライアン・メイが
100年以上前の暖炉の木で作ったもの。

彼はそのギターを100回以上重ねて録音し、
あの荘厳な音を生み出した。

アルバムには

 No synths

シンセサイザーは使っていない
と誇らしげに書かれている。

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古居利康 12年1月15日放送


Festival Karsh Ottawa
グレン・グールドというピアニストが、いた。 ①

1964年以降に生まれたひとは、
グレン・グールドが
生でピアノを弾く姿を見たことがない。

なぜなら、1964年、このピアニストは、
コンサート活動のいっさいから
身を引いてしまったから。

かれは、1946年、まだ14歳のとき、
トロント交響楽団と共に舞台に立った。

クラシックの世界において、
早熟の天才は決してめずらしいものでは
ないけれど、しかし、かれの場合、
早くから芽生えた
コンサートに対する疑問が、
その後の生きかたを
きわめてユニークなものにした。


Piano Piano!
グレン・グールドというピアニストが、いた。 ②

32歳のとき、ライヴ演奏から
ドロップアウトしたグレン・グールドは、
50歳で亡くなるまで、
どんなに請われてもコンサートへの
出演を断わりつづける。

けれども、こんにち、
われわれは、スタジオにおかれた
一台のスタンウェイに向かうかれの姿を、
映像で見ることができる。

何本もドキュメンタリー映画ができるくらい、
グールドが残した映像は数多く存在する。

床上35.6cmという、異様に低い椅子。
猫背で前のめりになったグールドの
顔と手の距離がきわめて近い。
ピアノにすがりつくように構えた両肘は、
鍵盤よりも下に位置している。

その独特のフォームについて、
レナード・バーンスタインはこう言った。

「まるでかれ自身がピアノになろうと
 しているように見えた」


patte-folle
グレン・グールドというピアニストが、いた。 ③

1955年、
22歳のグレン・グールドは、
コロムビアレコードで
バッハの『ゴルトベルグ変奏曲』を録音する。
これがレコードデビューとなった。

よりによって、『ゴルトベルグ』か。
なんの山場もない、ややこしいだけの
アリアの変奏曲じゃないか。

プロデューサーは選曲に反対した。
ピアニストは、この曲にこだわった。

グールドは、6月にもかかわらず
マフラーを巻いてオーバーを着込み、
手袋をして録音スタジオにあらわれた。

いきなり洗面所にこもって、
両手を30分もお湯につけたまま出てこない。
ピアノの前に坐ったかと思えば
いきなり奇声を発したり、
スタジオの中をうろうろと歩き出して、
ぷいっと外へ出てしまう。

やがて首を激しく振りながら戻ってきて、
何の前触れも合図もなく演奏が始まる。
その手首が、飛び魚のように鍵盤上を
飛び跳ね、うつくしい音がやってきた。

録音室にいた誰もが唖然として、
音に酔いしれた。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ④

グレン・グールドは、
聴衆の存在は、音楽の邪魔である。
とまで言い切った。

そんなかれについて問われた、
ほかのピアニストたちは、
たいてい、やや当惑ぎみに小声で言い添える。

けれど、観客との一体感から生まれる歓びは
ピアニストにとってなにものにも代えがたい、と。

グレン・グールドは違った。
やりなおしのきかないライヴ演奏では、
理想の音楽がつくれない。
スタジオなら、納得いくまでテイクを録って、
最良の演奏が選べるではないか。

かれは、繰り返し、そう主張した。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑤

映画『羊たちの沈黙』に登場した殺人鬼、
ハンニバル・レクター博士が、
娘を誘拐された上院議員に情報を提供する
見返りに、ある音楽テープを要求する場面がある。

レクターが欲しがったのは、
グレン・グールドの『ゴルトベルグ変奏曲』。

ヨハン・セバスチャン・バッハが
2段鍵盤付きのチェンバロのためにつくった
『アリアと種々の変奏曲』。
不眠症に悩んでいたある貴族の依頼で作曲し、
バッハの愛弟子であるゴルトベルグが
演奏したため、『ゴルトベルグ変奏曲』という
通称で知られるこの曲。

おなじアリアが、30もの変奏で、
微妙に描き分けられる複雑さと長大さ。
ピアノではなく、チェンバロのための曲だった
こともあって、弾きこなすのは容易ではない。

あるピアニストは、こう言う。
誰もグレン・グールドのように
『ゴルトベルグ』を弾くことはできない。
せめて、指が6本ほしい、と。

ちなみに、映画では描写が避けられたが、
『羊たちの沈黙』の原作となったトマス・ハリスの
小説において、レクターは左手だけ、
指が6本あったとされている。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑥

グレン・グールドは、
夏目漱石の『草枕』の愛読者だった。
ラジオの番組で朗読までしているから、
相当な入れ込み方だ。

「四角な世界から常識と名のつく一角を
 摩滅して、三角のうちに住むのを
 芸術家と呼んでもよかろう」

といった部分に、グールドは深く共感していた。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
 意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引っ越したくなる。
 どこへ越しても住みにくいと悟った時、
 詩が生まれて、 画(え)が出来る」

冒頭の、あまりに有名なこの一節は、
グレン・グールドの生きかたそのものに
思えてくる。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑦

グレン・グールドの録音に
耳を澄ますと、うなり声が聞こえる。
うなり声というより、主旋律を歌う、
グレン・グールドの鼻歌だ。

グレン・グールドのスタジオ録音は、
聴衆のいないライヴ録音のようなものだ。
かれの息づかいが生々しく刻まれている。

CDジャケットの裏に、こう書いてある。
『グールド自身の歌声など、一部ノイズが
 ございます。どうかご了承ください』



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑧

グレン・グールドは、よくひととぶつかった。

レナード・バーンスタインとは、
ブラームスの協奏曲第一番の解釈をめぐって対立。
演奏会の冒頭で、バーンスタイン自身が、
じぶんはグールドの演奏に賛成しかねる、と
表明してから指揮をはじめる、異例の事態を招いた。

クリーブランド管弦楽団の指揮者、
ジョージ・セルは、リハーサルのとき、
30分間も椅子の高さを調整していたグールドに、
激怒。指揮棒を放り投げてしまう。

けれど、バーンスタインはその後、
「グールドより美しいものを見たことがない」
と、グールドの才能を認め、
セルも、「あいつは変人だが、天才だよ」と脱帽。

グレン・グールドとの
うつくしい共演盤を残したヴァイオリニスト、
ユーディ・メニューインは、こう言った。

「結局、かれは正しかった。」

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大友美有紀 12年1月14日放送


Elke Wetzig
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」1

青春の詩人として知られるヘルマン・ヘッセは、
幼少時代、空想力が豊かで、聡明で、音楽好きだった。
そして動物や植物を愛していた。
その一方で、とてもわがままで反抗心が強かった。

14歳で神学校に入るが、教員と衝突して寄宿舎を脱走。そして自殺未遂。
次に入った高等学校も退学、商店員や父の仕事の手伝い、
機械工、どれも長くは続かなかった。

のちに『デミアン』で書いている。
 
 僕は、僕の内部からひとりでに出てこようとするものだけを、
 生きてみようとしたにすぎない。


 それがなぜ、あれほど難しかったのだろうか。

複雑で傷つきやすい。
夭折してもおかしくない気質だ。

けれども、彼は違った。


Ako
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」2

26歳の時『郷愁』で大きな成功を収めたヘッセは、
結婚をし、こどもにも恵まれた。
そして『車輪の下』など青春文学を世に出していく。
その平和は、第一次世界大戦によって一変。
二度の徴兵検査に落ち、兵役不適格者となる。
戦時奉仕した新聞でも寄稿した論説が非難される。
父の死、こどもの病気、妻の精神病、自身の神経障害。
ついには、座骨神経痛とリューマチを患ってしまう。

ところが治療のために訪れた湯治場・バーデンでの新しい生活が、
ヘッセにとって興味深い、新しい経験となり、発見をもたらした。
 
 彼は待つことを学ぶ。
 彼は沈黙することを学ぶ。
 彼は耳を傾けることを学ぶ。
 そしてこれらのよき賜物を
 幾つかの身体的欠陥や衰弱という犠牲を払って
 得なくてはならないにしても、
 彼はこの買い物を利益と見なすべきである。

ヘッセ46歳の秋のことだった。



ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」3

ある夏、ヘッセはスイスの森を散歩していた。
ふと感じる。
美しく輝かしかった夏が、
何日も続く、たちのわるい雷雨の後、劇的な終焉を迎える。
それは、たくましく元気に見えた50代の男が、
ある病気のあと、ある苦しみのあと、ある失望のあと、
突然、筋ばった、すべてのしわの中に風雪に耐えたあとのある顔に
なってしまうのと似ていると。

そして思う。
侵入してくる衰弱と死に抵抗し、
ささやかな生にしがみつき、
おののきながら死を迎える技術を学ぶのだと。
 
 再び冬が来る前に、私たちの行く手には、
 まだ多くのよいことが待っている。
 次の満月を楽しめる事を期待しよう。
 そして、たしかにみるみるうちに老いるけれど、
 やはり死はまだかなり遠方にあるのを知ろう。

その時、ヘッセ。49歳。


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ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」4

1924年、スイス国籍を得たヘッセは、別居中の妻と離婚。
その後スイスの女性と結婚するも、3年で離婚してしまう。
この時の苦悩を吐露した作品が『荒野の狼』である。

心身ともに危機を迎えていたこの時期、
ヘッセにはひとりの女友達がいた。
彼女の名は、ニーナ。ヘッセより30ほど年上だった。
彼が住むスイス・ティッスーンの、辺鄙な小さな村に住んでいる。
ニーナの家に向かう道は美しい。
ブドウ山と森を通って山を下り、緑の狭い谷を横切って、
谷の向こう側の、急な斜面を登っていく、
そこは、
夏はシクラメンの花でいっぱいになり、
冬はクリスマスローズに満ちあふれる。

ニーナの家は朽ち果て、台所の中をヤギやニワトリたちが歩き回っている。
魔女やおとぎ話に近い場所。
ゆがんだブリキのやかんで淹れるコーヒは、たき木の煙でほのかに苦い。
ここで2人は、世界と時代の外側に生きている。
 
 情熱は美しいものである。
 若い人には情熱がとてもよく似あう。
 年配の人々には、ユーモアが、微笑みが、
 深刻に考えないことが、
 世界をひとつの絵に変えることが、
 ものごとをまるではかない夕雲のたわむれで
 あるかのように眺めることが、
 はるかにずっとふさわしい。


unbekannt
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」5

ヘッセが53歳で出版した『知と愛』は、
それまでの彼の苦悩に和解を示すことが出来た作品だった。
そして再びの結婚を経て、ようやく彼の安定した晩年がはじまる。

ある時、妻に無理矢理カーニバル見物に連れ出される。
笑いさざめく顔、人々が笑ったり叫んだりする楽しげな様子。
ひときわ目を引いたのは、ひとつの美しい姿だった。
自分が仮装していることも、周囲の雑踏も忘れて、
カーニバルの何かに心奪われて、静かに立っている少年。
ヘッセは、カーニバルの喧噪のただ中にいる少年のあどけなさ、
美しいものに対する感受性に魅了されていた。

 成熟するにつれて人はますます若くなる。
 すべての人に当てはまるとはいえないけれど、
 私の場合は、とにかくその通りなのだ。
 私は自分の少年時代の生活感情を
 心の底にずっと持ち続けてきたし、
 私が成人になり老人になることを
 いつも一種の喜劇と感じていたからだ。


FlickrLickr
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」6

戦争も終わり、経済が発展すると、
ヘッセの住む穏やかな村にも開発の大きな波がやってくる。
住みはじめた頃の自然と平和は奪われ、
無傷ではいられないと嘆いている。

 
 老境に至ってはじめて人は
 美しいものが稀であることを知り、
 工場と大砲の間にも花が咲いたり、
 新聞と相場表の間にも、まだ詩が生きていたりすれば、
 それがどんな奇跡であるかを知るようになる。


Kiril Kapustin
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」7

75歳を間近に迎えた時期、ヘッセは少年時代の友人の訪問を受ける。
その人は『車輪の下』で描いた修道院時代の友だった。
友人の土産は、ヘッセが姉にあてた手紙。
それをきっかけに、過去の生活の記憶が鮮やかによみがえり、
語り合い、亡くなった人たちと再会を果たした気持ちを味わう。
おたがい白髪で、しわのよった瞼を持ちながら、
その奥にいる14歳の仲間を見つけだす。
教室の机に座っていた姿、目を輝かせて球技や競争をした姿、
そして精神と美に初めて出会ったときの
興奮、感動、畏敬の念の最初の暁光を見つけだした。

 私たち老人がこれをもたなければ、
 追憶の絵本を、体験したものの宝庫を持たなければ、
 私たちは何であろうか!

友人は帰郷後、知人やヘッセの妹に訪問の報告の葉書を書き、
ヘッセにも便りを送った。そして日々の仕事に戻った。
数日後、苦しむこともなくあっさり亡くなってしまった。

ヘッセはその損失を悲しみはしたが、
友人が最後の日まで誠実に仕事をし、
病床にもつかず、あっさりと穏やかに息をひきとったことを、
立派な調和ある終末として受け止めた。

 老いた人びとにとってすばらしいものは
 暖炉とブルゴーニュの赤ワインと
 そして最後におだやかな死だ
 しかし もっとあとで 今日ではなく!

ヘッセは85歳のある日、モーツァルトのピアノソナタを聴いて床につき、
そのまま翌朝、脳溢血で永遠の眠りについた。

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薄景子 12年1月8日放送



表現する男 レオ・レオーニ

芸術家、レオ・レオーニが生んだ初の絵本作品
「Little Blue and Little Yellow」

幼いブルーとイエローの玉が遊んでいるうちに、
グリーンになってしまうというシンプルなストーリーは、
彼が孫たちをあやそうとして
紙と絵具で遊んでいるうちに、偶然生まれたもの。

やがて世界中のロングセラーになった
絵本の元本にはこう記されている。

ピポとアンとその友達に捧げる

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小野麻利江 12年1月8日放送


Ako
表現する男 アル・ジョルスン

1927年に公開された、
史上初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』。

主演のアル・ジョルスンが発した冒頭のセリフは、
その後のジョルスンの舞台でも挨拶がわりに使われ、
終生、彼のトレードマークとなった。

“You Ain’t Heard Nothin’ Yet”
「お楽しみは、これからだ」

トーキー映画時代の幕開けを告げた、このひと言。
映画という「お楽しみ」は、
ここから本当にはじまったと言っても
言い過ぎではないかもしれない。



表現する男 周防正行

「困ったら伊丹さんを撮っとけ」
と思って、撮影していました。
現場にいる監督の姿は
何の抑えにでもなるだろうと思っていたからです。

映画監督の周防正行が
伊丹十三の「マルサの女」の現場に入り、
メイキング番組「マルサの女をマルサする」を監督したのは、
デビュー作を撮って、少し経ったぐらいの頃。
ドキュメンタリー性と娯楽性を見事に融合させた
この番組は、高い評価を得た。

それから、20年あまり。
周防は映画「ダンシング・チャップリン」の中で、
世界的な振付家ローラン・プティに
演出を拒否されて困惑する自分自身の姿を登場させた。

現場にいる監督の姿は
何の抑えにでもなるだろうと思っていたからです。

「抑え」とは、つまり素材のこと。
現場にあるものはすべて、自分自身さえ
映画をつくるための素材とみなすクールな眼が
美しく叙情的な「ダンシング・チャップリン」に
サスペンスな風味をもたらしている。

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茂木彩海 12年1月8日放送



表現する男 志村喬

ニューヨークタイムズで「世界一の名優」と評された男、志村喬。
黒澤映画のほぼすべてに出演し、
映画『生きる』では胃ガンを宣告される市役所員を
頬骨が浮き出るまで減量して熱演。
撮影中は自身も胃潰瘍になるほどその身を追いこんでいた。

そんな志村の言葉。

役者に完成はない。

どんな自分にも満足しないストイックな一面が
黒澤に愛された理由なのかもしれない。


theseanster93
表現する男 ライアン・ラーキン

25歳で、アカデミー賞短編アニメーション賞、ノミネート。
28歳で、メルボルン映画祭グランプリ獲得など、
瞬く間にその名を轟かせたアニメーション作家、
ライアン・ラーキン。

7年間で、たった4本の短編映画を残し、ホームレスとなった伝説の男。

彼が再びアニメをつくる勇気を取り戻したのは
映画祭のディレクターが、彼の路上生活を偶然知り、
審査員として呼び寄せたことがきっかけだった。

他の審査員たちは年老いたライアンを不審に思っていたが、
ある晩、審査員自身が作った作品を互いに鑑賞する上映会で事態は一変。
ただ人が歩くだけの、わずか5分の短編に、全員が感動のあまり言葉を失った。

その作品こそラーキンの傑作、『ウォーキング』だった。

私は永遠に生きたいんだ。
自分の身体でなくてもいい。
みんなの心のなかでいい。

彼が亡くなってもうすぐ5年。
その願いは、今でもちゃんと叶っている。


うっち~
表現する男 笹井宏之

その男は、短歌という短い詩を書いた。

寒いねと言ふとき君はあつさりと北極熊の目をしてみせる

魂がいつかかたちを成すとして あなたははっさくになりなさい

午前五時 すべてのマンホールのふたが吹き飛んでとなりと入れ替わる

清いものになりたいといういっしんでピアニカを吹き野菜を食べる

歌人、笹井宏之。26歳の若さで突然この世を去った。

ありがとう。
ことばで世界がつくれることを、あなたは教えてくれました。

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