坂本和加 11年01月08日放送



南方熊楠とチョボ六

粘菌研究の一人者、南方熊楠。
50年間毎日続けた日記には、
ときどき猫も登場する。

熊楠は、大の猫好き。
漫画家 水木しげるが、
「熊」でなく、「猫楠」という
伝記を描いたほど。

留学先では、冬の寒さを
猫を抱いてしのぎ、
帰国後は、猫が妻との縁を
とりもつようなこともあった。

けれど猫の名前は、みなチョボ六。

研究用の粘菌が
チョボ六たちによって
なめくじから
守られたこともあったという。

後に、本人曰わく。

ちょっとしたつづきものより、
予の伝の方が面白かろうと思うが、如何。





リンカーンと猫

アメリカの奴隷解放の父とされる
アブラハム・リンカーンには、
猫好きならではのエピソードがある。

南北戦争時代、
軍の本部に迷い込んだ
3匹の子猫を偶然みつけて、
「猫くん、君たちは猫でよかった」と話しかけ、
その後も母猫のいない
その子猫たちを見かけるたび足を止め、
戦争で息子を失った母親もいるんだから、
君たちも元気を出さなければと
声をかけていたらしい。

ユーモアと深い慈悲と情愛にあふれた
リンカーンは、ホワイトハウスで
4匹の猫と暮らした。

大統領官邸で、
はじめて猫を飼った大統領でもある。





養老孟司とまる

解剖学者、養老孟司先生は、
6才になるオスの
スコティッシュフォールドを
飼っている。名前は、まる。
体重は、まるまると、7キロ。
まるは、鎌倉にある養老先生のお宅で、
猫の営業部長をやっているらしい。

天気のいい日は、縁側にデデンと座って、
ひなたぼっこや毛繕いをする。
それを養老先生が、にこにこと見ている。
そんな、まるの本が、もう2冊も出た。
帯のコピーは、養老先生が書いた。

まるを見ていると、働く気が失せる。

なるほど。それでまるが、営業部長なんですね。





熊谷守一と猫

画家でもある作家、赤瀬川源平は
熊谷守一の描いた猫をみたとたん
「猫だ!」と思った。そして、
たいへんなひとがいたものだ。
この画は、神秘に近いと絶賛する。

熊谷守一は、
どんなに貧しくても、
画を描いて金にかえる
ということができない画家だった。

それゆえ
遺した作品は多くはない。
しかし、描きたい想いに忠実だからこそ
画にはにじみ出るような迫力があり、
見る者の琴線に触れるのだろう。

生きものは、ひとと違ってウソがない。

そういって、
とりたてて猫を愛した清貧の画家は、
96才まで生きた。





谷崎潤一郎と西洋猫

猫好きは、マゾヒスティック。

そんなイメージをつくったのは、
もしかしたら
谷崎潤一郎かもしれない。

西洋猫をこよなく愛した谷崎は、
わがままで気品があり
媚びることも緩急自在で、
動物の中でいちばん美しいと
猫を絶賛する。

猫を題材にした作品も遺したが、
猫が登場せずとも、
美少女や妖婦に翻弄され隷属する男など
その作風を、
猫と谷崎の関係に見立てると
なるほど腑に落ちる。

さて。では、あなたは。
猫派ですか? 犬派ですか?







大島弓子とチビ猫

世に発表されたときは、
少女漫画として。けれど、
その作品のクオリティの高さから、
男性が読んでも恥ずかしくない少女漫画に
なったものに「綿の国星」がある。

「綿の国星」は
漫画家、大島弓子の代表作で
擬人化された子猫が世の中を学んでいく物語。

30年以上前に発表されたものなのに、
世代を超えたファンがいる。
それはきっと、
美しさやはかなさといっしょに、
世界のほんとうが、宿っているから。

「綿の国星」こそ
クールジャパンではないか。





稲垣足穂とカア

 特に猫好きじゃあないんだ。
 けれど昔、子猫を死なせてしまったから。

作家、稲垣足穂は
猫を可愛がる、その理由を
生前そんなふうに言っている。

銭湯にいけば、
なまり節を買ってくる。
書き物の上に猫が座れば、どくまで待つ。
12月半ばに、猫一匹救うために
古井戸に飛び込んだこともあるという。

トラ猫のカアは、
ずいぶん永く、足穂と暮らした。
名作も生まれた。

黒猫のしっぽを切った話

ある晩黒猫をつかまえて
鋏でしっぽを切ると
パチン!
と黄色い煙になってしまった
頭の上でキャッ!
という声がした
窓をあけると、
尾のないホーキ星が
逃げていくのが見えた

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厚焼玉子 11年01月02日放送



詩家の晴景

 詩家晴景在新春(しかのせいけいは 新春にあり)

詩人が愛でるべき晴れやかな景色は新春である、と
うたったのは中国の詩人、楊巨源(ようきょげん)。

花の頃になると人でいっぱいになってしまうから
わずかな春のきざしを愛でようという意味だ。

なるほど、言われてみると
葉を落とした木々はもう新しい芽をつけている。
はこべの緑も鮮やかだ。

春はもうそこにある。





年賀はがき

年賀葉書というアイデアを思いついたのは
大阪で洋品雑貨の店を経営していた林 正治(まさじ)さんだった。

戦争以来の苦しい生活のなかで
手紙のやりとりも途絶えてしまった人たちがいる。
もし年賀状が復活すれば
お互いの消息を知らせることができるのではないだろうか。

このアイデアは郵政省に持ち込まれ、実現した。

昭和24年の12月には「お年玉くじつき年賀葉書」が売り出され
日本の年賀葉書の第一号になる。

ちなみにそのときのお年玉賞品は
特等がミシン、1等が純毛洋服地だった。

いまはすっかり定着した年賀状、
俳句や短歌の自信作を挨拶代わりに書く人も多い。





大伴家持

万葉集を編纂した大伴家持は
そのいちばん最後をみずからの新春の歌で締めくくっている。

 あたらしき 年のはじめの初春の 今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)

大伴家持は少年時代に父を失っている。
そのせいだろうか、
若いときは出世の糸口をつかみかけては
地方に飛ばされることが多かった。
富山に鳥取、九州…それから関東にも下った。

それが幸いだったのだ、という意見がある。
万葉集におさめられた多彩な地方の歌は
家持の左遷がなければ
きっと集まっていなかったのだから。

 あたらしき 年のはじめの初春の 今日降る雪のいや重け吉事

新年に降り積もる雪のように
良いことがかさなりますように。

そんな願いを込めて詠まれた歌の通り
晩年の家持は順調に昇進していった。

あたらしい年に良いことがかさなりますように。

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蛭田瑞穂 11年01月02日放送



新年の歌④「お正月」

明治の作曲家、滝廉太郎。

15歳で現在の東京芸術大学に入学すると、
4年後に首席で卒業。

「荒城の月」「箱根八里」など
23歳で亡くなるまでに
数々の名曲をつくった夭逝の天才作曲家。

お正月が待ち遠しい子どもの心を表現した
童謡の「お正月」も彼の手によるもの。





新年の歌⑤「美しく青きドナウ」

1866年にプロイセン王国とオーストリア帝国の間で起こった
「普墺戦争」はプロイセン王国の勝利で終結した。

敗戦したオーストリアの国民は悲しみに沈んだ。

そんな国民を励まそうと、
ウィーン男声合唱協会の指揮者ヨハン・ヘルベックは
ヨハン・シュトラウス2世に合唱曲を依頼する。

それまで合唱曲を書いたことがなかったシュトラウスは
一度はその依頼を断るが、ヘルベックの熱意に押され曲を書き上げる。

そして生まれたのがワルツ『美しく青きドナウ』。

最初は男声合唱曲だったが、
のちにシュトラウスが管弦楽曲に書きなおすと人気を博し、
「シュトラウスの最高傑作」とまで賞讃されるようになった。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が新年に開催する
ニューイヤーコンサートではこの『美しく青きドナウ』が
アンコール曲として演奏される。

アンコールでは、曲の序奏部を演奏したあと、
拍手によって曲をいったん打ち切り、
指揮者や団員の新年の挨拶が行われることが恒例となっている。







新年の音楽⑥「クレメンス・クラウス」 

ウィーンのお正月の風物詩といえば、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が開催する
ニューイヤーコンサート。

1939年に始まったこのコンサートの初代指揮者が
クレメンス・クラウス。

1893年、ウィーンに生まれたクラウスは
その貴族的な容姿と優雅な演奏スタイルで人気を博し、
世界的な指揮者へと登り詰めた。

1954年に亡くなるまで、
ニューイヤーコンサートの指揮者を7度も務めた
クレメンス・クラウス。

その生涯に渡る業績が讃えられ、
現在では「最後のウィーンの巨匠」と呼ばれている。





新年の歌⑦「オールド・ラング・サイン」 

『蛍の光』はスコットランドに古くから伝わる民謡。
原題は『オールド・ラング・サイン』という。

作者は不明だが、歌詞を現代に伝わる形に変えたのが、
18世紀のスコットランドの詩人ロバート・バーンズ。

旧友と再会し、思い出話を語りながら酒を酌み交わす。
その歓びが歌詞に綴られている。

その詞の内容もあり、スコットランドで
『オールド・ラング・サイン』は新年を祝う歌としてうたわれる。





新年の歌⑧「春の海」

琴演奏家、宮城道雄が作曲した『春の海』。
1930年の歌会始の勅題「海辺の巌」にちなんで作曲された。

8歳で失明した宮城道雄はこの曲を
幼い頃祖父母と暮らしていた瀬戸内の風景を
思い浮かべてつくったという。

この曲を有名にしたのが、
フランス人のヴァイオリニスト、ルネ・シュメー。

この曲の旋律に魅せられた彼は
尺八のパートをヴァイオリンに変え、
宮城道雄とアンサンブルした。

その演奏を収録したレコードは日本だけでなく、
アメリカ、フランスでも発売された。

宮城道雄の脳裏に焼きついた瀬戸内の美しい春は、
海を越えて、人々の耳に届けられることになった。


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佐藤延夫 11年01月01日放送



ある正月/芥川龍之介

酒が嫌いで、風呂も嫌い。
生ものは一切食べず、
ハマグリなどの貝類も受け付けない。

芥川龍之介は、作家であると同時に、偏食家でもあった。
唯一、好んで食べたのは、
鰤の照り焼きだったそうだ。

そんな芥川家のお正月。
小松菜、大根、里芋、くわい、タケノコ、鳥肉を並べ、
お雑煮は、切り餅を焼かずに、お湯で煮る。
驚くほど質素だが、
大晦日の晩には、昆布と小梅を入れたお茶を、福茶と呼んでたしなんだ。

新しい年に、福が来るように。

誰もが思う小さな願いは、この偏屈そうな男の心にも、ちゃんとある。





ある正月/高浜虚子

俳人、高浜虚子は長生きだった。

三十歳まで命があればいい、と思っていたそうだが、
実際は八十五歳で生きたし、そのあいだも俳句を詠み続けた。
晩年になっても正月を迎えるたびに、自分の気持ちを言葉にした。


  揺らげる歯 そのまま大事 雑煮食ふ

  酒もすき 餅もすきなり 今朝の春

  斯くの如く 只ありて食ふ 雑煮かな


最後の句は、八十三歳の作。
高浜虚子先生、どうやらお雑煮がお好きだったようで。








ある正月/折口信夫

源氏物語の一節。
「いとかたかるべき世にこそあらめ」
この言葉を、
「なるほど世間はむずかしい」

そう訳したのは、民族学者の折口信夫だ。
古典の口語訳を喜んで引き受けたのは、
同居する弟子たちの食事代を捻出するためだったという。

正月になるとさらに多くの弟子が集まるので
築地市場や百貨店をまわり
おでんの具に高級ハム、合鴨などを買い漁った。

弟子のひとりは、のちにこう語っている。

  食べ物にかけては掏摸のように敏捷で貪欲な先生だった。

なるほど、世間は難しい。





ある正月/南方熊楠

生物学者、南方熊楠。
この人は、学者というよりも
野生児と呼んだほうが、しっくりくる。

普段は服など着ずに裸で暮らし、酒は浴びるように飲む。
ビールなら1ダース。
日本酒は茶碗でがぶがぶと飲んだ。

武勇伝も多い。
アメリカでは、得意の柔道で不良たちを投げ飛ばし、
イギリスの大英博物館に勤めていたころには
侮辱した白人を殴り倒し、入館禁止になった。

その反面、驚くべき記憶力を持つ。
読み漁った本の内容を鮮明に覚えており、
家に帰ってから完璧に写し書いた。
語学力も堪能で、十数カ国語を話したという。

そんな熊楠のお正月。
おせち料理とお雑煮を好んで食べたが、
「おめでとう」という言葉は禁じていた。

  命が縮まるのに、なにがめでたいか。

なにからなにまで破天荒なこの男。
のちに民族学者の柳田國男が、
熊楠を「日本人の可能性の極限」と喩えたのも、よくわかる。





ある正月/柳田國男

食事を味わうよりも、
この人は、食事を調べるほうが好きなのではないか。

民族学者、柳田國男の本をめくると、
ついそう思えてくる。
彼自身も美食を嫌い、質素な食事を好んだ。

正月にまつわる食べ物の記述は多いが、
美味しそうな話はなかなか見つからない。
たとえば鏡餅については、このように記している。

  鏡餅の“カガミ”とは、各人に平等に向けられる鏡で、
  ここに食物分配の本来の意義があるとする。

なるほど。
お正月から、背筋がぴんと伸びました。





ある正月/小泉八雲


  日本人は立派な文明を持っていながら、
  好んで野蛮人の真似をしたがる。


明治時代、欧米の文化に心酔する日本国民を
そう言って批判したのは、小泉八雲だ。

日本人よりも日本人らしいこの男は、
お正月のしめ飾りを気に入り、
一月の末までそのまま飾り続けていたそうだ。





ある正月/幸徳秋水

明治時代の思想家、幸徳秋水。

日露戦争に異を唱え、鋭い論調で政府を批判したが
彼そのものは呑気な性格であり、
私生活では酒と女。放蕩に身を任せていた。

昼酒をあおり大切な帽子をなくす。
給料を前借りして飲みまわる。
そんなことを繰り返すと、
年の暮れには一銭も残らない。

家計にまわす金はなく、
母や妻に対し、不孝の子にして不仁の夫なりき、と自らを戒めている。

幸徳秋水の、ある元旦。
大逆事件の首謀者として疑われ、
獄中で最後の正月を迎えた。
友人への手紙には、こうつづられている。

  弁当箱を取り上げると、急に胸が迫ってきて数滴の涙が粥の上に落ちた。
  僕は始終、粥ばかり食ってる。

この数日後、死刑を宣告された。
今年は、それからちょうど100年。
のどかな正月を送れるのは、本当に幸せなことだと思う。
心配事は、いろいろあるけれど。


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名雪祐平 10年12月26日放送



チャールズ・M・シュルツ1


子どもの頃の自分をモデルに、
ストーリーを作り続けることは、
楽しいだろうか。
苦しいだろうか。

それを50年間続けた漫画家がいる。

チャーリー・ブラウンと
スヌーピーの生みの親、
チャールズ・シュルツ

描き続け、
彼自身が老人になればなるほど
どんどん子どもに戻って
漫画の中で遊んでいたのだとしたら、

やっぱり、なんだか楽しそうだ。





チャールズ・M・シュルツ2


スヌーピーの生みの親、
チャールズ・シュルツは、
内気でダメな子どもだった自分を
忘れていなかった。

漫画に登場する
小学生チャーリー・ブラウンたちは、

やれやれ。

お手上げだよ。

と、よく愚痴や弱音をこぼす。

でも必ず、
困った問題を乗り越えようと悩んだり、
一歩一歩進もうと、がんばるのだ。

スーパーマンはいない。
でも、内気だった漫画家だけが描ける
主人公たちは、
世界中のアイドルになった。





ムハマド・ユヌス1


バングラデシュの大学教授が、
貧しい農村に調査に行った。

42人の村人の話を聞き、
いま必要なお金はいくらかを
訊ねてみた。

合計、たった27ドル。

竹のカゴをつくる材料を買うための、
わずかな現金さえなかったのだ。

教授はポケットマネーから
27ドルを貸した。
少しずつ返してくれればいい、と。

のちに全額きれいに返済された。

お金を借り、貧しい人たちは
自分の仕事と活力を手に入れた。
食料を買った。
石鹸や鉛筆も買えたかもしれない。

これはとても良いことだ。
貧困を救うための画期的な銀行を作ろう。

ムハマド・ユヌスは大学教授を辞め、
グラミン銀行を創設した。








ムハマド・ユヌス2


そんなもの、誰も見向きもしない、
ということに世界で初めて取り組む人がいる。

ムハマド・ユヌスはグラミン銀行を作り、
ほんの少ないお金を貧困に苦しむ人たちに
無担保で貸すことを始めた。

どうせ返せっこないさ。

そんな偏見も、見事にひっくり返った。
返済率は99%に達するほどだった。

グラミン銀行は
世界の貧困で苦しむ人々の向上心を信じ、
救い続けている。

誰も見向きもしなかった事業に、
いま、世界中が注目している。




ムハマド・ユヌス3


世界一尊敬されている銀行家は誰か。

数百億円という年収をふところに入れた
アメリカの銀行家より、
数ドルがなくて困っている人たちを救った
この人かもしれない。

ムハマド・ユヌス
グラミン銀行総裁。

彼の言葉がある。


 どんなことでもいい。
 きみのすぐ目の前にある問題から
 はじめればいいんだよ。
 どんなことでもいい。
 きみの手の届く範囲ではじめればいい。


目の前の貧しい人たちに自分の27ドルを貸したこと。
その小さな一歩が、
グラミン銀行のきっかけとなり、
いま、約10万カ所に上る相談センターで
貧しい人たちにお金を融資している。





ハーブ・リッツ1


ある日、無名の2人の若者が
ドライブに出かけた。

途中、タイヤがパンクしてしまった。

修理中のひまつぶしに
1人がもう1人を撮影した写真が
全米の雑誌に掲載されることになった。

写真に写った若者、リチャード・ギア
写真を撮った若者、ハーブ・リッツ

俳優としてギアが成功するにつれ、
リッツも大人気のプロカメラマンとなった。

タイヤのパンクから、
運が走り始めた。




ハーブ・リッツ2


クリスマスから一夜明けた
何でもない、12月26日。

アメリカの写真家ハーブ・リッツが
50歳で他界した。2002年のこと。
エイズだった。

「最も写真を撮ってもらいたい写真家」
そう呼ばれた。

ずばり、それは
自分を美しく撮ってくれるから。
マドンナを筆頭に、
セレブたちからオファーが殺到した。

逆にリッツが
「最も写真を撮りたかったモデル」は、
誰だったのか。

未発表の彼の傑作を
モデルとなった恋人だけが、
眺めているかもしれない。





ゴルバチョフ


クリスマスから一夜明けた
何でもない、12月26日。

ソビエト連邦は崩壊した。1991年のこと。


 蒔けるだけ種を蒔いておきたい。


その言葉の通り、
国家改革ペレストロイカを進めていた
ゴルバチョフだったが、
ソ連崩壊前日には大統領を辞任した。

それが本望でなくても
怒濤の時代の真ん中に彼はいた。

40年以上続いた冷戦を終結させた
その名前は、
とっくに教科書に載っている。




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坂本和加 10年12月25日放送



モーリス・ユトリロ(1883.12.26生まれ)

画家、モーリス・ユトリロ。
その人気とは裏腹に、
ユトリロの生涯は、
なんと不幸だったのだろうと
ひとは、思うことだろう。

母に愛されず、
10代でアルコール依存症になり、
治療のために始めた絵画が、うけた。
その後、ユトリロは
母に言われるがまま
軟禁状態で画を描くことになる。

クリスマスの画も描いている。
きっと、母親に乞われるままに。

けれどユトリロは
母が、世界のすべてだった。

「シュザンヌ・ヴァラドンと呼ぶわが母は、
 気高く、美しく、善良な女である」

幸福か不幸か。それは他人が決めることではない。








クララ・バートン(1821.12.25生まれ)

アメリカでは
戦場の天使と呼ばれた
クララ・バートン。
その肖像はみな、
シンプルな黒いワンピース。
彼女に、一度でも
華やかなクリスマスが
あったのだろうか。

そう思わせるほどクララは、
その生涯を「人を救うこと」に費やした。

30代で南北戦争に赴き
負傷者救済の経験から後、
アメリカ赤十字の創始者となる。

引退後は、応急手当協会を設立。
自宅を改装してまで
応急処置法と救急箱の普及進めた。
90歳で亡くなるまで。

クリスマスに生まれた
彼女の職業は、慈善事業家。
生き方そのものが、
サンタクロースだった。





アイザック・ニュートン(1642.12.25生まれ)

忘年会にクリスマス、
12月は、なにかとお酒を
飲む機会が多いけれど、
「12時までには寝た方がいい」
と、客観的に自己分析し実行していた
18世紀の自然科学者がいる。

アイザック・ニュートンが、そのひとだ。

それは、12時以降に起きていると
一日中研究をしていた日よりずっと
翌日の疲れが残っていると、
ある日気づいたため。

朝は、紅茶の代わりに
オレンジの皮を煮出した湯に
お砂糖を入れたものを飲むことが
ニュートンのもうひとつの健康法で、
実際、彼は、85歳まで生きた。

きょうは、クリスマス。
ニュートンの誕生日でもある日です。





カール・ユーハイム(1886.12.25生まれ)

クリスマスの
ドイツ菓子といえば、
シュトレン。けれど
日本人にもっと馴染みのある
ドイツ菓子は、バームクーヘンだろう。

それを日本に広めたのは、
ドイツ生まれの菓子職人
カール・ユーハイム。
洋菓子メーカー、ユーハイムの創業者。

戦前にやってきたバームクーヘンが
日本で長く愛されつづけたのは、
あの切り株の年輪のような見た目に
縁起を担いだからに違いない。

けれど残念ながら、
本国ドイツには、そういった
縁起のいい「いわれ」はない。


平和を作り出す人たちは、幸いである。


神戸にあるユーハイムの墓石には、
日本語で、そう書かれている。





クリスマス生まれ

とある占いによると、
12月25日に生まれたひとは、
さっぱりとオープンな性格で、
責任感も強く、直感力があり、
ひとづきあいが得意なひとだそうです。
向いている職業に、医者や公務員、
研究職など。恋愛は、調和や平和を
強く求める傾向にあるのだとか…。

同じ日に生まれた偉人には、
乃木希典、植木等、
コンラッド・ヒルトン、
ハンフリー・ボガードなどがいます。


きょう、12月25日に生まれた方、
おめでとうございます。

そして、メリークリスマス。





コンラッド・ヒルトン(1887.12.25生まれ)

海外のヒルトンホテルの客室には必ず、
聖書と一緒に「be my guest」という
一冊の本が置いてあるのだそうだ。

それは、ホテル王、
コンラッド・ヒルトンの自伝。
ビジネスマン必読の書、
ということになっているらしい。

ところで、この本、
日本でも翻訳され
書店で手に入るのだが、
そのタイトルは、
『ホテル王の告白』。

商売がうまいとは、このことか。

きょうは、クリスマス。
東京のヒルトンは、
ほぼ満室だそうですよ。





金子光晴(1895.12.25生まれ)

若かりし頃は反戦の、
晩年では、家族愛の詩人。
金子光晴は、
クリスマスギフトに
ぴったりな詩集を出している。

題名は「若葉のうた」。
生まれたばかりの孫娘、
若葉ちゃんのために、
72歳の金子が書き下ろした。

そこには、
まるで恋する若者のような、
みずみずしく繊細なことばがある。
けれどそれは、
長く言葉と格闘しつづけた
老齢の詩人だからこそ
出会えたことば。

クリスマスにことばを贈るなら。

あなたは、家族に
どんなことばを贈りますか?

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石橋涼子 10年12月19日放送



ヴィクトル・ユゴーの手紙


作家、ヴィクトル・ユゴーは、
恋人との間に、生涯で2万通にも及ぶ
手紙を交わしたというくらい筆マメだけれど、
一方で、世界一短い手紙を書いたことでも有名だ。

それは、「?(クエスチョンマーク)」が
一文字書かれただけの手紙。

「レ・ミゼラブル」の売れ行きを
出版社へ問い合わせる手紙だった。

返事は、「!(ビックリマーク)」が一文字だけ。

つまり、驚くほど売れてますよ、ということ。









野口英世の母の手紙


野口英世が研究のためにアメリカに渡ったとき、
読み書きのできない母が手紙を出せるように、
住所を刻印したスタンプをプレゼントした。

特に便りのないまま数年が経ったが、
ある日、一通の手紙が届いた。

息子の出世を喜ぶあいさつから始まる手紙は、
やがて、息子に一目会いたいという母の願いに変わる。


 はやくきてくだされ
 いつくるとおせてくだされ
 このへんじをまちておりまする
 ねてもねむられません


早く帰ってきてほしいという願いが
たどたどしいひらがなで綴られた手紙に
英世は激しい衝撃を受け、
忙しい研究の合間を縫って、すぐに帰国したという。

手紙は、文章の上手さではなく、
伝えたい気持ちの強さでしか、伝わらない。





斎藤茂吉の手紙


歌人として、精神科医として、
名を馳せた斎藤茂吉は、50歳を過ぎて恋をした。

相手は、アララギ派に参加したばかりの
若手歌人、永井ふさ子24歳。

茂吉は、この親子ほど歳が離れた恋人に夢中になり、
会えない時はひたすらラブレターを書いて過ごした。
それは、1年余りの交際期間で150通以上にのぼり、
一日に7通も書いた日もあった。

手紙で茂吉は、
ふさ子の写真がほしいと懇願し、
ふさ子の体をすばらしいと誉めたたえ、
愛の歌を惜しみなく詠み贈った。

人々の尊敬を集める歌人が書いたラブレターは、
恥ずかしいくらいウブで赤裸々で、
まるで初めて恋をした若者のようだった。

手紙の最後にはいつもこのような内容が書かれていた。


 読み終わったらただちに焼き捨ててほしい。
 そうすれば次々と心のありたけを申し上げられる。


妻子ある茂吉の立場を考えたふさ子は、
30通ほどを素直に焼いたが、
手紙が灰になった後の言いようのない寂しさから、
つい、残り100通余りを焼かずに手元に残してしまった。

それらの手紙が茂吉の死後に公表され、
物議をかもしたのは少し先の時代のこと。





サンタクロースへの手紙


もうすぐクリスマス。
この時期は、世界中の子どもたちが
サンタさんにせっせと手紙を書く季節でもある。

日本の子どもたちの手紙は、プレゼントのお願いだけでなく
「サンタさん」へのメッセージが多いという。

たとえばこれは、5歳の男の子の手紙。


 サンタさんへ
 ぼくはおとうさんとおかあさんと
 カレーライスのつぎに
 サンタさんがだいすきです


プレゼントのリクエストを書くのも
忘れてしまうくらい子どもに好かれるなんて、
さすがはサンタさんです。





プリニウスの手紙


あの人に手紙を書こう。
そう思っても、何を書いたらいいのかわからず
筆を置いてしまうことがある。

そんなときは、ローマ時代の文人、
プリニウス2世の言葉を思い出そう。
彼は、友人・知人・果ては皇帝までに書き送った
200通余りの手紙をまとめた書簡集の中で
こう語っている。


 汝は書くことがないという。
 ならば「書くことがない」ことを書け。


たしかに。
大切な人からの手紙は、
ポストに入っているだけでもう、立派なギフトなのだ。





一休さんの手紙


とんちで有名な一休和尚は、死の直前、
本当に困ったときに見るように、と
弟子たちに一通の手紙を残した。

やがて、今こそ一休和尚の知恵が必要だという事態になり、
弟子たちが手紙を開けると、そこにはこう書かれていた。


 大丈夫。心配するな。なんとかなる。



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熊埜御堂由香 10年12月19日放送



恋文代筆業フィッシュ兄弟


19世紀のおわりごろ、パリの街で
小さな芝居小屋の劇作家をしていたフィッシュ兄弟は
食うに困ってある商売を思いついた。
恋文代筆業….
それはのちに彼らをまねて恋文横丁という代筆業者が
机をならべる小道ができたほど、繁盛した。

たとえば、初々しい恋のはじまりに、2通の手紙を用意する。
1通目は、引き裂さかれた紙に、乱れた文字で想いが綴られる。

ああ、この気持ちをどうすれば・・・
そして直後にもう一通の手紙が届く。
今度は上等な便箋に丁寧な文字で謝罪の言葉が綴られている。

誤って、日記の一部を投函してしまいました。破棄してください。
こんな具合に彼らのラブレターには、さまざまな恋の罠が仕掛けられていた。

ここで、彼らが、恋文の効果的な書き出しと結びを
一覧化したリストから、おすすめの締めの句をひとつ。
君がうなじに、接吻の雨。

ちょっと吹き出してしまうほど情熱的な言葉が並んでいて、
再出版すれば、今どきの淡白な男の子たちに、
つけるいい薬になるかもしれない。





おしゃべりな手紙 向田邦子


数々の会話の妙で、ひとを惹きつけてきた脚本家、向田邦子は嘆いた。


 男の手紙が、とくに若いひとの手紙が、
 おしゃべりになってきた。字や文章だけでは男か女かわからない。


しゃべりすぎの時代を、ホームドラマのせいだど自省する。

さらにメール時代の現代。
中性的なメールが飛び交う。
そっけないと思われると、
みんな気遣いで賑やかな絵文字を散らす。

おしゃべりは虚飾。
沈黙が味わえるようになったとき、
男と女の時間がはじまるのかもしれない。


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宮田知明 10年12月18日放送



日本人宇宙飛行士1 毛利衛

日本人宇宙人飛行士の応募条件の中に、
「美しい日本語」という項目がある。

人類を代表して宇宙に行く以上、
ミッションを達成するのはもちろん、
その稀有な宇宙飛行体験を伝えることも大事な役割。

宇宙飛行士、毛利衛は言う。

僕は2回、宇宙へ行かせてもらった。
その経験を広く伝える役割を担っていると思うんです。
僕自身の言葉を発することで、
より多くの人たちにメッセージを届けることができますから。

そんな毛利が宇宙から帰ってきて、最初のインタビューで伝えた言葉。

「地球には、国境線はありませんでした。」

その言葉の、何と美しいことか。




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渋谷三紀 10年12月18日放送



日本人宇宙飛行士2 向井千秋

宇宙に行って感動したことはなんですか?

多くの宇宙飛行士が「宇宙から見た地球の美しさ」と答えるこの質問に
日本人初の女性宇宙飛行士、向井千秋は「地球の重力」と答える。

宇宙から戻った夜は、驚きの連続だった。
無重力に慣れたからだは、一枚の名刺にさえ重みを感じた。
上下左右のない空間では見られない
ものが落ちていく姿や描く放物線の美しさに目を奪われた。

彼女はいう。

 私たちは、物が落ちること、雨が降ることを
 当たり前だと思ってしまいますが、
 実は地球で起こるこの現象のほうが不思議なのです。

私たちが常識と呼んでいるものの多くは、
広い宇宙に浮かぶ小さな惑星でしか通用しない
ちっぽけな常識にすぎないのかもしれない。

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