中村直史 11年6月12日放送



あの人の師/平岩弓枝

「はやぶさ新八御用帳」(はやぶさしんぱちごようちょう)など、
すぐれた時代小説で知られる作家、平岩弓枝(ひらいわゆみえ)。

歴史資料のその奥に潜む
人間をていねいに描きだすことで、
オリジナルな物語を生みだす。

彼女にそのことを教えてくれたのが、
恩師であり、大衆文学の祖とも言われた
長谷川伸(はせがわしん)だった。

長谷川は、小説家としての大事な心構えのほかに、
お守りとなる言葉をひとつ、平岩にのこした。

 将来、本当に君が人生に行きづまり書けないとなったら、
 必ず幽霊となって出てくる。
 だから、君が僕の幽霊に出会わない限り、行きづまりの壁にぶつかっていないのだ。

平岩はまだ、恩師の幽霊に
出会ったことがないという。
それが少しさみしいようでもある。

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三島邦彦 11年6月12日放送



あの人の師/竹本住大夫

伝統芸能、文楽。
物語の語り手を「太夫」と呼ぶ。
人間国宝、七代目竹本住大夫(たけもと すみたゆう)は、
父も人間国宝という文楽の家に育ったが
父の勧めにより進学した。

しかし徴兵され、戦地におもむく送別会で
義太夫を語る住太夫を見て父は言った。

 お前そないに好きやったら、帰ってきて太夫になれ

これはしめた、生きて帰ろう、と
住太夫は決心したそうだ。

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三國菜恵 11年6月12日放送



あの人の師/戸田奈津子

職業のなかにはいくつか、
「どうやったらなれるのかわからないもの」がある。

戸田奈津子(とだ・なつこ)さんも悩んでいた。
映画字幕の翻訳家になりたいけれど、なり方がわからなかった。
そこで彼女は、映画のエンドロールの中に、師匠をさがすことにした。

字幕翻訳家、清水俊二(しみず・しゅんじ)。
生涯で2000本もの映画を翻訳した、重鎮だった。

清水さんは戸田さんに、簡単には仕事をくれなかった。
それどころか、いつもこう聞いた。

まだ、あきらめないの?

そのたびに戸田さんは言った。「あきらめません」。

いま、映画のエンドロールに、彼女の名前を見ない日はない。
それは、師匠が鍛えてくれたねばり強さの証かもしれない。

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小山佳奈 11年6月11日放送



エディ・タウンゼント1

昭和の日本ボクシング界に
伝説のトレーナーがいた。

彼の名前は
エディ・タウンゼント。

40才を過ぎてから日本にやって来た彼は
片言の日本語で世界チャンピオンを
幾人も育てあげる。

彼はあっけないほどあっさりと
タオルを投げ入れることで
有名だった。

まだ闘えたのに、と詰め寄る
報道陣たちにエディはこう諭す。

「ボクシング辞めた後の方が長いの。
誰がそのボクサーの面倒を見てくれるの?
無事に家に帰してあげるのも私の仕事。」

一瞬の未練が
一生の後悔になる。

エディは人生を
よく知っている。



エディ・タウンゼント2

殴って強い方が勝つ。

ボクシングほど
シンプルで残酷なスポーツはない。

世界チャンピオンを幾人も育て上げた
伝説のトレーナー、エディ・タウンゼント。

彼は言う。

「勝った時には友達おおぜい出来るから
私はいなくてもいいの。
誰が負けたボクサー励ますの?
私は負けたボクサーの味方。」

ボクシングほど
シンプルで残酷なスポーツはない。

そして
愛のあるスポーツもない。



エディ・タウンゼント3

日本ボクシング界における
伝説のトレーナー、
エディ・タウンゼント。

初めて育てた世界チャンピオン、
藤猛との出会いは、ちょっとした奇跡だ。

職もなくお金もなくただ
家でごろごろしていた藤。

そんな藤が
たまたまテレビのボクシング中継で
声を枯らす白人のセコンドを見かける。

それは紛れもなく
近所でよく遊んでくれた
エディおじさんだった。

藤はすぐに
エディのもとを訪れ
弟子入りする。

たまには
暇も大事ということ。



エディ・タウンゼント4

日本ボクシング界における
伝説のトレーナー、
エディ・タウンゼント。

彼が育てた選手の中に
カシアス内藤というボクサーがいる。

「今まで見た選手の中で一番素質がある。
 でも、最後に打つ勇気がない。」

そうエディが語るように
内藤はあまりある才能を持ちながら
最後のところで非情になりきれず
世界タイトルを逃し続けた。

しかし、いや、だからこそ
みんなに愛された。

彼は小説の主人公となり、映画のモデルとなり
歌謡曲にも歌われ、その歌は大ヒットする。

完璧じゃないから
余計にかわいい。

それはエディも同じだったようで
弟子の中でも内藤だけは我が子のように
「ジュン」とファーストネームで呼んでいた。



エディ・タウンゼント5

日本のボクシング界に
世界チャンピオンを幾人ももたらした
伝説のトレーナー、
エディ・タウンゼント。

彼の指導法はそれまでの
根性論一色だった
ボクシング界の常識を
くつがえす。

エディは決して手をあげない。
ほめてのばす。

「試合で殴られるのに
 どうしてジムに帰ってきてまで
 殴られなくちゃならないの」

常識をくつがえした
エディの方が
よほど常識的だった。



エディ・タウンゼント6

日本のボクシング界
伝説のトレーナー、
エディ・タウンゼント。

彼に育てられたボクサーの一人、
田辺清がエディと初めてジムで会ったときの話。

エディは入ってくるなり
田辺の肩をポンとはたく。
「ゴミがついてるよ」

見るとゴミなんてついていない。

田辺ははっとした。

それだけ自分のことを
注意深く見ていると
エディは言いたかったのだ。

信じられるかどうかは
出会った瞬間に決まる。



エディ・タウンゼント7

日本のボクシング界に
世界チャンピオンを幾人ももたらした
伝説のトレーナー、
エディ・タウンゼント。

彼の最後の
弟子だった井岡弘樹の
初防衛戦。

エディは癌におかされた体をおして
会場まで出向き、
エールを送った直後に昏睡。
井岡の勝利を知った5時間後に
息を引き取る。

出来すぎた話だ。
しかしその出来すぎた話に
人は心を動かす。

亡くなってから20年以上たった今。
井岡はこう言っている。

「生まれ変わっても
 エディさんに教わりたい」

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蛭田瑞穂 11年6月6日放送

ロッティ・ドッド

1887年のウィンブルドン選手権。
女子シングルスで優勝したロッティ・ドッドは
その時弱冠15歳と9ヶ月。

これは現在も破られていない、
ウィンブルドン女子シングルスの最年少優勝記録である。

この年を皮切りに、ウィンブルドンで5度の優勝を成し遂げた
ロッティ・ドッドはその後ゴルファーへ転向する。

そこでも才能を発揮し、
1904年には「全英女子ゴルフ選手権」も制覇した。

その圧倒的な万能ぶりに、
人々はロッティ・ドッドを“The Little Wonder”、
「小さな奇跡」と呼んだ。

フレデリック・ジョン・ペリー

1929年の世界卓球選手権ブダペスト大会。
男子シングルスで優勝した
イギリスのフレデリック・ジョン・ペリーは、
ほどなくテニスプレイヤーに転向した。

テニスでも彼の才能は遺憾なく発揮された。

1934年に全豪オープン、ウィンブルドン選手権、
全米オープンに優勝すると、
35年には全仏オープンも制覇。
「キャリア・グランドスラム」を達成した
史上初の選手となった。

その後ウィンブルドンの3連覇も成し遂げ、
「テニスの神様」と讃えられた
フレデリック・ジョン・ペリー。

引退後、彼は自らの名前を冠した
スポーツウェアブランドを設立する。
それが月桂樹のマークで知られる
「フレッド・ペリー」である。

ボー・ジャクソン

大学時代、野球とアメリカンフットボールの
花形選手だったボー・ジャクソンは
1986年、メジャーリーグのカンザスシティ・ロイヤルズに
入団した。

翌年、アメリカンフットボールのドラフトで、
ロサンゼルス・レイダーズがボー・ジャクソンを指名する。

ロイヤルズではレギュラーに定着していたが、
彼はレイダーズからのオファーを受け入れた。

こうしてジャクソンは野球とアメリカンフットボールの、
ニ足のわらじを履くことになった。

4月から9月までは野球選手としてプレーし、
9月から1月まではアメフト選手としてプレーした。
シーズンが重なる9月は野球を優先した。

1989年には打者として32本のホームランを打ち、
ランニングバックとして950ヤードを獲得した。

史上初めて、メジャーとNFLの両方で
オールスターにも選ばれたボー・ジャクソン。
人気と実力を兼ね備えた、偉大なプレイヤーだった。

ベーブ・ディドリクソン

1932年のロサンゼルスオリンピックに出場した
アメリカの女子陸上選手、ベーブ・ディドリクソン。

やり投げと80メートルハードルで金メダルを獲得し、
走り高跳びでも銀メダルを獲得した。

オリンピックの後、彼女はゴルファーへ転向。
そこでも才能を発揮し、「全米女子オープン」を3度制覇。
生涯で4度の賞金王に輝いた。

陸上競技とゴルフというまったく異なるスポーツで
頂点を極めたベーブ・ディドリクソン。

“天は二物を与えず”という言葉は、彼女には当てはまらない。

ボブ・ヘイズ

弾丸と呼ばれた男、ボブ・ヘイズ。

1964年の東京オリンピックに出場し、
100メートルと4×100メートルリレーで金メダルを獲得した。

オリンピックが終わると、
ヘイズはアメリカンフットボールに転向し、
NFLのダラス・カウボーイズに入団した。

俊足のワイドレシーバーとして活躍し、
1971年にはスーパーボウルの優勝も経験。
オリンピックの金メダルとスーパーボウルの両方を手に入れた
史上初の選手となった。

彼の足はまた、NFLの戦術を変えた。

どんなディフェンダーも世界最速のヘイズに追いつけない。
対戦するチームはマンツーマンディフェンスから
ゾーンディフェンスに変えて彼を止めにかかった。

そのためNFLのゾーンディフェンスの技術は、
ヘイズの活躍した1960年後半に大きく向上したといわれる。

ダニー・エインジ

1981年のNCAA男子バスケットボールトーナメント。
ブリガム・ヤング大学のダニー・エインジは、
試合終了の7秒前、自陣でリバウンドを奪うと、
相手ゴールまでドリブルで持ち込み、
劇的な逆転シュートを決めた。

「NCAA史上最高のシュート」とも謳われる
このシュートを決めたダニー・エインジ。
彼は大学バスケットボールのスターとして活躍する一方で、
トロント・ブルージェイズにも所属し、
メジャーリーガーとしてプレーした。

大学卒業後はボストン・セルティックスに入団し、
バスケットボールに専念することになったが、
ダニー・エインジはメジャーリーグとNBAを経験した
史上稀な選手となった。

ディオン・サンダース

プレーもファッションも言動も、
すべてが派手だったことから「ネオン・ディオン」の
愛称で呼ばれたディオン・サンダース。

1989年から97年まで、
アメリカンフットボールとメジャーリーグのチームを掛け持ちし、
ワールドシリーズとスーパーボウルの両方に出場する
快挙を成し遂げた、史上唯一の男。

同じ週にホームランとタッチダウンの両方を記録するという
離れ業をやってのけたこともある。

ディオン・サンダース。
さすがは「ネオン」と呼ばれるだけの派手な活躍ぶりである。

ジム・ソープ

陸上競技のアメリカ代表としてオリンピックに出場し、
五種競技と十種競技で金メダルを獲得した。

メジャーリーガーとして289試合に出場し、
通算2割5分2厘の打撃成績を残した。

プロフットボール黎明期のスタープレイヤーとして活躍し、
のちに全米プロフットボール殿堂に選ばれた最初のひとりとなった。

すべてひとりの選手が成し遂げたことである。

彼の名はジム・ソープ。
20世紀初頭に陸上競技、野球、アメリカンフットボールで
活躍した伝説の選手。

その功績は今に語り継がれ、
1999年にAP通信が発表した
「20世紀の最も偉大なスポーツ選手」では
第3位に選ばれた。

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佐藤延夫 11年6月4日放送



エラ・フィッツジェラルド1

恵まれない幼少期。
この特殊な環境が、ときに大きな才能を開花させる。

アメリカのジャズシンガー、
エラ・フィッツジェラルド。

七歳のときから
売春宿の見張りをし、
違法カジノではノミ屋となり、
ほんのわずかなお金を稼いだ。
ときどきレコードを買い、
同じ曲ばかりを繰り返し歌った。
裕福ではないから、音楽だけが生きる全てになった。

1929年代のニューヨーク。
どこにでもいそうな内気な少女は、
歌が抜群に上手かった。



エラ・フィッツジェラルド2

どんなに才能があっても、歌が上手くても、
肌の色が違えば、ステージでは成功できない。

そんな時代にも関わらず、
エラ・フィッツジェラルドの周りでは、
多くのミュージシャンがこんな噂をしていた。

  まるで管楽器のような声を出す女の子がいる。

  ハーレムをぶらぶらしていたら、背筋がぞくぞくするような声が聴こえてきた。

  そこにいるのは十五か十六の、驚異的な才能を持った女の子だった。

やがて彼女は、ひとつのバンドに誘われる。

才能がある人の元には、
必ずそれを磨く人が現れる。
差別や偏見に邪魔されることなく。



エラ・フィッツジェラルド3

管楽器のような輝きを持つ、二オクターブ半の声域。
それは、どんなに教えても生み出すことのない響きだった。

エラ・フィッツジェラルドの才能をどう育てていくべきか。
幼い彼女の保護者まで引き受けた
バンドリーダーのチック・ウェッブは言った。

  早く昇りたがってはいけない。
  同じように早く落ちてしまうから。
  きみが昇るとき、先に昇った人たちが落ちてくるのに出会うだろう。

それは、一流の歌手にだけ与えられる、
超一流のアドバイス。



エラ・フィッツジェラルド4

歌よりもダンスが好きだったある少女は、
十代のとき、友達とアマチュアコンテストに参加する。

ステージの上に立ったのはいいが、
緊張のあまり体は氷のように固まり、
客席がにじんで見えた。
ダンスも踊れないみすぼらしい少女に、
観客は苛立ち始める。

そのとき彼女は、ひらめいた。
「動けなくても、歌うことができる。」

彼女の澄みきった声に、
客席は、ぴたりと静かになった。
歌い終わると、喝采に包まれていた。
少女の名前は、エラ・フィッツジェラルド。
彼女は、のちに語っている。

  その舞台で、自分は生涯、人々の前で歌いたいんだとわかったんです。

私はあがり症だから、歌手なんかできない。
そう思ったことのある人は、
エラ・フィッツジェラルドを参考にすればいい。



エラ・フィッツジェラルド5

1941年。
ついに始まってしまった戦争は、
エラ・フィッツジェラルドの環境を大きく変えていく。

バンドメンバーの何人かが徴兵され、
ヨーロッパ巡業のチャンスは消えた。
レコードの吹き込みも禁止となり、エラは孤立する。
でも、逃げなかった。
米軍ラジオで歌い、
軍隊のキャンプをまわり、
兵隊の心を慰めた。

戦争になると、バラードが流行るという。
エラの歌声は、人々が求めるものと見事に重なった。

  わたしはバラードが大好きなんです。
  人がなんと言おうと、それは決して変わりません。



エラ・フィッツジェラルド6

1950年代の半ば、
エラ・フィッツジェラルドは困惑した。
彼女だけでなく、
フランク・シナトラや
ナット・キング・コールも
口々に、この音楽を批判した。

あるムーブメントは社会現象となり、
もうすでに誰も抑えることのできない存在に変わっていた。
若者は熱狂し、踊り狂った。

ロックンロールは、
世界を相手に中指を立てて挑発する。
予想よりも遥かに深く、激しく。



エラ・フィッツジェラルド7

100枚を超えるアルバムを出し、
グラミー賞を13回も手に入れ、
3つの大学から名誉博士号を授与された。

それでもエラ・フィッツジェラルドは、
いつも不安そうな少女であり、
バンドのメンバーにさえ
自分の心をさらすことはなかったという。

巨匠。
大御所。
伝説。

ある年齢を過ぎると、
メディアの多くは、エラを究極の存在に導く。
でも、彼女はそれを拒んだ。
過去の遺物になったように思えたから。

ステージで歌えればいい。
お客さんの喜ぶ顔が見られたらいい。
愛する家族と過ごす時間があればいい。

78歳で亡くなるまで、
エラの心の中は少女のままだったのかもしれない。

変わることがもてはやされる世の中だけど、
人はそう簡単に変われない。
変わらないほうがいいことも、多い。

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佐藤延夫 11年5月29日放送



幕末の人々/ヘボン

明治時代に、ヘボン式ローマ字を作った
アメリカ人宣教師、
ジェームス・カーティス・ヘボン。

医者でもあった彼は、
一切の報酬を受け取ることなく
私財を投じて患者の治療にあたった。
多いときでは一日で百人の診察をしたそうだ。

もともとヘボンの専門は、眼科。
それにもかかわらず、
直腸炎、脳水腫の手術まで
やってのけたというから恐れ入る。
のちに和英辞書の編纂も手掛けるヘボンだが、
彼が日本にやってきてすぐに覚えた言葉は、

   アブナイ
   コラ
   シカタガナイ

という3つの言葉だったという。
最後の一言は、いかにも日本人らしい。



幕末の人々/若尾逸平(わかおいっぺい)

財をなすには機を逃さぬこと。
そう教えてくれるのは、
幕末の商人、若尾逸平だ。

40里も離れた甲州と江戸を何度も往復し
桃、葉煙草、真綿を運んでいたが、
黒船来航の噂を聞くと、外国人との商売に目をつける。

生糸や真綿が売れるとわかれば真っ先に買い占め、
地元の鉱山で捨てられていた水晶の屑石も売り捌いた。
そして稼いだ1500両。
いつの間にか、水晶大尽と呼ばれるようになる。

ビジネスチャンスは、道端に転がっていた。



幕末の人々/岸田吟香(きしだぎんきょう)

幕末の横浜。
そこはまだ発展途上の街であり、
道は舗装などされていなかった。
風が吹くと土埃や馬糞が舞い上がり、
人々は目の病に苦しんだという。

幕末の事業家、岸田吟香もそのひとり。
横浜で名医と評判の宣教師、ヘボンの治療を受ける。
ところがヘボンは、吟香をひと目見るなり、
助手にならないかと持ちかけた。

のちにヘボンから与えられたのは、目薬の処方箋だった。
硫酸亜鉛を主成分とするこの薬を
「精錡水(せいきすい)」と名付け売り出したところ、
日本初の点眼薬として一躍評判になった。

岸田吟香は新聞の創始者として名を馳せたが、
商品を宣伝する方法にも創意工夫を見せた。
錦絵を用いたポスター広告、
新聞では初めてとなる連載広告、
架空の読者の質問に答える手法など、
広告プランナーとしても一流だったようだ。



幕末の人々/堤磯右衛門(つつみいそえもん)

人生の分岐点は、
どこで待ちかまえているかわからない。

江戸時代末期のこと。
堤磯右衛門という男の場合、
運命の瞬間は、油で汚れた手を洗っているときに訪れた。

フランス人の知り合いが渡してくれた四角い物体。
これを使うと、しつこい汚れが魔法のようによく落ちた。
さっそく作り方を聞き出し
磯右衛門は、石鹸の製造を決意する。

  大いに感慨する所あり、輸入を防ぎ国益を興すの一端

新たなビジネスを生む原動力は、感動にあり。



幕末の人々/中川嘉兵衛(なかがわかへえ)

商売の才能とは、
目先の金勘定だけではない。
時代の先を読むこと。
いつだってこの結論に達する。

幕末の商人、中川嘉兵衛は
廃品回収の仕事を足がかりに、
アメリカ人医師の助手、
牛乳販売、イギリス軍の食料調達などに精を出す。
そのうちに、外国人が大量の牛肉や牛乳を消費することに注目した。

そして始めた牛鍋屋は繁盛するのだが、
嘉兵衛はすぐに次の商売に切り替える。
それは、食品の保存用、医療用として必要不可欠な氷の調達だった。
函館、五稜郭の外堀に張られた天然の氷を買い付け、船で横浜に運ぶ。
もちろん港には貯蔵庫を用意し、
道行く人にもコップ一杯八文の値段で売り出した。
横浜の馬車道では、この水欲しさに2時間待ちの行列ができたという。
水の名前は、五稜郭の氷。
その味に感動した九代目市川団十郎は、こんな句を残している。

  身に染むや夏の氷のありがたき

ミネラルウォーターは、明治時代にもあった。



幕末の人々/田中平八

相場師というのは、
生まれたときから相場師のようだ。

信濃生まれの商人、田中平八は
わずか14歳で大坂の堂島に乗り込んで
米相場に手を出したという。

彼がのちに巨万の富を築いたのは、生糸相場。
市場で生糸の値が上昇する気配を見極め、
直ちに産地で買い占めを行った。

度胸があり、
駆け引きもうまく、
押し出しもきく。
田中平八が「天下の糸平」と呼ばれるのも
生まれたときから決まっていたみたいだ。



幕末の人々/大谷嘉兵衛(おおたにかへえ)

幕末から明治時代にかけて
多く輸出されたのが、緑茶だった。
横浜には多くの産地から茶葉が集まったが
なにしろ人馬や船で運ぶため、
種類も鮮度も入り乱れる。
うまく調合しないと売り物にはならなかった。

その点、大谷嘉兵衛という商人は、
製茶の技術に秀でていた。

のちに嘉兵衛はアメリカの商社に雇われ、
大坂で茶葉の大量仕入れを命じられる。
わずか3ヶ月で26万8千両。
今でいう百数十億円の買い付けに成功した。

芸は身を助く。そして財を生む。



幕末の人々/快楽亭ブラック

スコットランド生まれの実業家、
ジョン・レディー・ブラックは数々の事業に失敗し、
幕末の日本に流れ着く。

日本では新聞事業に乗り出すが、
商売としては上手くいかなかった。

彼の後を追って来日した息子は、
なぜか芸の世界に身を置いた。
名前は、快楽亭ブラック。
流暢な日本語で話題を集めたものの、
人気は長続きしなかった。

生まれてくる時代が、少し早かったのだろうか。

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渋谷三紀 11年5月28日放送



ある夫婦のおはなし「和田誠さんと平野レミさん」

一目惚れというものがあるとすれば、
一耳惚れというものがあっても、おかしくはない。

イラストレーターの和田誠さんは、
ラジオから聞こえてきた声の持ち主に、恋をした。
いちども姿も見ないうちに。

何とか約束をとり付け、初めて彼女に会いに行く途中、
「和田さん、どこに行くの?」
と聞かれ、
「僕のお嫁さんになる人に会いに行く。」
と答えたそうだ。

そのお嫁さんこそが、ご存じ料理愛好家の平野レミさん。

ちなみに和田さんは結婚して40年近くたった今でも
奥さんの絵を描いたことがない。

その理由を平野レミさんは笑ってこう答える。

「好きな人の絵は描けないんだって」



ある夫婦のおはなし「伊丹十三さんと宮本信子さん」

「一本でいから、映画を撮ってもらいたいの。」

妻で女優の宮本信子の言葉をきっかけに、
伊丹十三はメガホンをとった。

その後の伊丹映画すべてに主演した宮本。
それまでどちらかといえば脇役の女優だった彼女は、
夫の映画でその才能を大きく開花させた。

「タンポポ」では、寂れたラーメン屋の強くけなげな女主人。
「マルサの女」では、そばかすにおかっぱの憎めない女性。
スクリーンの中の愛くるしい宮本に、日本中が恋をした。

しかし伊丹の演技指導の厳しさはよくしられたところ。
妻だからといって容赦はしない。
いや妻だからこそ余計に容赦はしない。

監督としての厳しさ、夫としての愛情、
それに懸命に応えた女性の歴史は、
日本映画史に残る名作として、愛され続けていくはずだ。



ある夫婦のおはなし「まどみちおさんと奥さん」

まどみちおさんの詩「トンチンカン夫婦」。
そこに描かれているのは、
91歳のまどさん自身と84歳の妻の日常。

左右の靴下を同じ足に履く。
米を入れずに炊飯器のスイッチを入れる。
いわゆる認知症の症状も
まどさんにかかれば、こうだ。

おかげでさくばくたる老夫婦の暮らしに

笑いはたえずこれぞ天の恵みと

図にのって二人ははしゃぎ

夫婦が老いていくことを、
嘆くでもなく美化するでもなく
愛をもって受け入れてしまおうと、
その詩は語りかける。

 明日はまたどんな珍しいトンチンカンを

お恵みいただけるかと胸ふくらませている

厚かましくも天まで仰ぎ見て…



ある夫婦のおはなし「谷川俊太郎さんと佐野洋子さん」

詩人 谷川俊太郎さんと画家 佐野洋子さん夫婦。

「それでも彼を愛していたのよ」

そう前置きをして佐野さんが話すのは、
こんな結婚生活のエピソード。

ある日、谷川さんがこんなことを言って来た。

「僕がキミに書いた手紙、雑誌に載せていい?」

ふたりだけの思い出を世間に公開するなんて。
さすがに佐野さんも驚く。
でもそこは、アーティストどうし。
詩人の彼には、ラブレターもひとつの作品だからと
自分に言い聞かせ、うなづいた。

「いいわよ。じゃ、もって来る。」

谷川さんはさらに言う。

「大丈夫。もうコピーとってあるから。」

あなたが凡人なら、
天才をすべて理解しようと思わないほうがいいし、
あなたがおんななら、
おとこをすべて理解しようと思わないほうがいい。



ある夫婦のおはなし「お龍と松兵衛」

幕末のヒーロー坂本竜馬
そしてその妻お龍

ふたりが夫婦として暮らしたのはわずか3年だった。
龍馬の死後、お龍は35歳で西村松兵衛と再婚し
66歳で死ぬまで松兵衛の妻だった。

松兵衛は呉服の行商人で
龍馬に較べれば当然ながら平凡な男だっただろう。
お龍は晩年酒びたりになり、
竜馬の名をつぶやきながら亡くなったと言われる。

お龍の墓は横須賀の信楽寺(しんぎょうじ)にある。
墓石には「坂本龍馬の妻」と刻まれている。

再婚しても龍馬の妻でいたかったお龍と
その世話をした松兵衛。
これも一途な夫婦のありかたかもしれない。



ある夫婦のおはなし「岡本太郎さんと敏子さん」

いつまでも恋人のような夫婦でいたい。
たとえば、岡本太郎さんと敏子さんみたいに。

ある日、太郎さんが書いた「男女」という文字を見て、
敏子さんが尋ねた。

「やっぱり男が上なのね。」

その言葉に、太郎さんはにっこり笑って答えた。

「そうだよ、いつだって女が支えてるんだ。」

たいていの恋は長く続かないというけれど、
何度も恋してしまう相手となら、
きっとずっと恋していられる。



ある夫婦のおはなし「庵野秀明さんと安野モヨ子さん」

漫画界のWアンノこと、
「エヴァンゲリオン」の庵野秀明、
「働きマン」の安野モヨ子夫婦。

妻の描いたエッセイ漫画「監督不行届」には
人気漫画家どうしのユニークな日常がつづられている。

自他共に認めるオタクの夫は、
大人になった今でも戦隊ヒーローを愛してやまない。

結婚式ではウェディングドレスの妻の横に、
仮面ライダーのコスプレで立ち、
ウルトラマンの「シュワッチ」ポーズを
所かまわずくりかえす。

戸惑いながらも、そんな夫の習性を受け入れ、
自らもオタク的生活を楽しんでしまう妻の姿は、
笑いをこえて、感動をよぶ。
そんな妻に対して、夫はこんなコメントをよせている。

「嫁さんは気丈な女性だと思われてますが
ものすごく繊細で脆い女性なんです。
だから全力で守りたいですね。この先もずっとです。」

地球を救うヒーローにはなれないかもしれないけど、
愛する妻を救うヒーローにはなれそうですね、庵野さん。

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三國菜恵 11年5月22日放送



生き物のはなし/いとうせいこう

ベランダで、花を育てている。
けれども、うまくいかず
ときには、枯らしてしまうこともある。

クリエイター・いとうせいこうは
そんな失敗を繰り返すひとり。

けれども彼はその失敗を、とても大事に考えている。

園芸は植物を支配することではないのだ。
むしろそれが出来ないことを教えてくれるのである。



生き物のはなし/高村光太郎

作家としてはもちろん、
彫刻家としても数多くの作品を残した
高村光太郎。

彼は、ある生き物のことが
特別好きだった。

それは、セミ。

彫刻のモチーフとして
すばらしい姿をしている
と考えていたようで、

セミを見つけにいくことを
「モデル漁り」、なんて言い方をしていた。

加えて、やかましく聞こえがちなあの声も
高村にとっては愛らしく聞こえていたらしい。

あの一心不乱な恋のよびかけには
同情せずにいられない。

まっすぐなセミの声は、
まっすぐな心をもつ高村に、心地よく聞こえていたようだ。

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三島邦彦 11年5月22日放送



生き物のはなし/コンラート・ローレンツ

卵からかえったひなは、
最初に見た生き物を母親だと思いこむ。

この、「刷り込み」理論の研究などで、
動物行動学をうちたてたノーベル賞学者、コンラート・ローレンツ。

従来の動物学の主流であった解剖による研究とは一線を画し、
生きた動物とともに暮らし、
徹底的に観察することによって、
その行動に隠された法則を発見した。

幼いころから家に様々な動物を引っ張り込んでは
熱心に観察していた彼。

一緒に暮らす両親や妻の忍耐が、
彼の生き生きとした発見を支えていた。
彼はそんな自らの研究生活への
家族の理解に深く感謝し、こう語った。

 ネズミを家の中で放し飼いにして、そいつが家じゅう勝手に走りまわり、
 敷物からきれいなまるい切れはしをくわえだして巣をつくっても
 我慢してくれ、といえる夫は、私のほかにはいそうもない。



生き物のはなし/ファーブル

「哲学者のように思索し、芸術家のように観察し、
詩人のように感覚し表現する偉大なる学者。」
と称えられた昆虫学者、ファーブル。

彼が人生をかけて何度も追加や修正を繰り返した『昆虫記』は、
単なる観察記録に終わらず、世界への発見に満ちている。

晩年、その『昆虫記』の決定版を完成させるにあたり、彼はこう語った。

 昆虫の世界は実にあらゆる種類の思索の糧に富んでいる。
 もしも私が生まれ変わり、また幾度か長い生涯を再び生き得るものとしても、
 私はその興味を汲みつくすことはないであろう。

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