中村直史 11年5月22日放送



生き物のはなし/ルドルフ・シェーンハイマー

「私」という存在は何者なのか。
その難題に答えを出そうとしてきたのは
哲学者だけではない。

科学者もまた、
「私」が何者かを探し続けてきた。

その中でも
1930年代に活躍した生物化学者
ルドルフ・シェーンハイマーの研究は
「私」のとらえかたに大きな変革をもたらすものだった。

シェーンハイマーは体の中にとりこまれた食物が、
どのように体の一部となり、
どれくらいの期間とどまり続けるのかを解明した。

その結果、驚くべきことに、
動物の細胞はほんのわずかの期間に
どんどんいれかわっていることがわかった。

つまり、物質的な意味で言えば、
今日の「私」は、数ヵ月後にはもうまったく違う「私」になっている。
シェーンハイマーはこういった。

 生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが、生命の真の姿である。

私という存在は
言ってみれば、移りゆく粒子のよどみ。
そう聞くと、少し世界が変わってみえませんか。



生き物のはなし/阿部宗明

その魚は、自分につけられた名前に
少しがっかりしているかもしれない。
その名も「ウッカリカサゴ」。

名づけ親と言われているのが、
魚類学者である阿部宗明(あべときはる)。

うっかりすると、カサゴと区別できない。
そして、日本の学者が毎日見慣れたカサゴが
別種だったことをロシアの学者に発表され、
「いやはやうっかりしていた」と、この名前がついた。

ちなみに、カサゴは体の斑点が不明瞭なのに対して
ウッカリカサゴの斑点はくっきりしている。

このつぎ魚屋さんに行ったら
じっくり観察してみませんか?
うっかりしなければ、
きっと見分けることができるはず。

topへ

三島邦彦 11年5月22日放送



生き物のはなし/大根常雄さん

海の命を恵みとして受け取る仕事。それが漁師。
石川県の漁師、大根常雄(おおね つねお)さんは、
無数の生き物たちを抱える能登の海について、こう語る。

 海はちゃんとうめえようになっとる。
 ここは恵まれたいい海よ。
 船を下りても、年寄りはみんな海を見に、毎日きとるわ。

人間もまた、海に育てられる生き物のひとつのようです。

topへ

三國菜恵 11年5月22日放送



生き物のはなし/野毛山動物園の飼育員たち

横浜市にある野毛山動物園には
いっぷう変わった場所がある。
その名も、「しろくまの家」。

名前のとおり
しろくまが暮らしているのか、と思いきや
そこには何の姿もない。

そして入口には、こんな文字。

みなさんもホッキョクグマになったつもりで、
また飼育係になったつもりで探検してみましょう。

そう、ここはかつてしろくまが暮らしていた家。

飼育員さんたちはそこをお客さんに開放して、
自由に見てもらえるようにしたのだ。

しろくまがいたのと同じ場所に立って
景色を眺める人もいれば、写真を撮り合う人もいる。
それはとっても明るい光景。

飼育員さんたちのはからいで
「しろくまの家」は、今も変わらず
お客さんのいい顔であふれている。

topへ

小山佳奈 11年5月21日放送



湯川秀樹の衝撃

1949年。
あるニュースに
日本中が狂喜した。

日本人の物理学者が初めて
ノーベル賞を受賞したという。

敗戦ですべてを失ったこの国に
彗星のごとく現れたニューヒーロー。

彼のもとに押し掛けた
信じられない数の報道陣の中から
一人の記者がたずねた。

「賞金で何を買いますか」

彼はにやりと笑ってこういった。

「まずは子どもにグローブでも
 買うてやりましょうか」

湯川秀樹。

その軽妙な受け答えはまぎれもなく
ニューヒーローの誕生であった。



少年、湯川秀樹

物理学者、湯川秀樹の
少年時代はというと。

内気で無口で
友だちはほぼいない。
算数が得意で鉄棒が苦手。
納得がいかないと「言わん」と
押し黙ってしまうその頑固さから、
ついたあだ名は「イワンちゃん」。

ノーベル賞のような晴れ舞台など
クラスの誰も想像しなかった。

それから30年。

スウェーデンでの授賞式、
壇上に立ち流暢な英語でスピーチをする彼は
もう内気で無口な少年ではなかった。

ただどんなに結果が出なくても
あきらめなかった頑固さは
「イワンちゃん」のままだった。



湯川秀樹と家系

湯川秀樹が中学生の頃。

湯川の父は息子の進路について
悩んでいた。

一家は代々学者の家系。
子供たちも当然学者にするべく育ててきた。

しかしこの三男、秀樹に関しては、
成績もぱっとせず、記憶力もよくない。
いっそのこと専門学校にやり
手に職をつけさせた方が
子どものためなのではないか。

河原町通りを悶々と歩いていると
秀樹の中学校の校長にばったり出会う。
校長は即座に言った。

「あの少年ほどの才能は滅多にない。
 わたしの養子にしたいくらいだ」

そしてめでたく秀樹は学者の道を歩む。

そのとき父が校長に会わなければ
危うく自動車工になっていたかもしれない。



湯川秀樹と奥さん

湯川秀樹の妻、スミさん。
彼女は研究室の誰もが手を焼く気難しい夫を
いとも簡単にあやつる術を身につけている。

研究が上手くいかず
いらいらして帰ってきた時には
だまって熱燗をさしだす。

かと思えば
「日本人はノーベル賞をとれないんですかね」
と無邪気に言ってみせ、夫の尻をたたく。

夫の力学はどの方程式より
単純で明快だということを
スミさんは知っている。



湯川秀樹とノルマ

ノーベル賞を受賞するほどの研究といえば
幾十年もの苦難を想像するが
湯川秀樹の場合はそうではなかった。

彼が何年もかかずらっていたテーマは
あまりに壮大で難解であったため
研究は遅々として進まず
担当教授から「論文はまだかね」と
催促される日々。

研究員という職業柄、
とにかく何か書かなければ
お給料がもらえない。

焦った湯川秀樹は
とりあえず別のテーマで一本書き
当座をしのごうと考えた。

それがまんまと
当たった。

だから人生はおもしろい。



湯川秀樹と学者

学者とはロマンチストな生き物である。

湯川秀樹はこう言う。

「わたしは学者として生きている限り、
 見知らぬ土地の遍歴者であり、
 荒野の開拓者でありたい。」

知識や才能はもちろんだが
夢を見続けられるかどうかが
もっとも大切。

学者とはロマンチストな生き物である。



湯川秀樹の研究所

1953年。
湯川秀樹のノーベル賞を記念して
京都大学に「基礎物理学研究所」が
つくられた。

もともと湯川のためだけの研究所だったが
せっかくなら若い研究者たちが集える場所にしたいと
湯川は考えた。

学外でも国外でも
湯川の考え方と反する者も
構わず受け入れる。
大腸菌を飼い始める者でさえ
にこにこと見守っていた。

「好きにやったらええ」

彼は本当に学問を愛していた。
学問を愛する人間を愛していた。

topへ

蛭田瑞穂 11年5月15日放送

檀一雄の食卓

小説『家宅の人』で知られる作家、檀一雄。

世間には無頼派作家として通っていたが、
食生活に関しては規則正しく、ほとんどの食事は
自分の手でつくっていた。

その腕は文壇随一とも言われ、
『檀流クッキング』というエッセイも書いている。

買い物カゴを提げて商店街を歩くのが
日課だったという檀一雄はこんな言葉を残している。

この地上で、私は買い出しほど、好きな仕事はない。

寺山修司の食卓

寺山修司の食卓はいつも賑やかだった。

劇団「天井桟敷」を主宰していた彼のもとには、
陽が沈む頃になると、その日の夕飯にありつけなかった
劇団員たちが集まってきた。

家出してきた者が土産を持ってくることもあれば、
飲食店を営む劇団OBから、
不意に付届けが来ることもあった。

日ごとに違う人物が登場し、
日ごとに違う風景が繰り広げられた寺山修司の食卓。

彼は言う。

人生同様、食卓もまた劇場である。

澁澤龍彦の食卓

作家、澁澤龍彦。

ジャン・コクトーやマルキ・ド・サドの作品を日本に紹介し、
『高岳親王航海記』などの小説も執筆した。

百科事典的な博学の持ち主として知られ、
その著作は思想から美術、ヨーロッパ文化まで
幅広い範囲に渡った。

彼はまた美食家でもあった。

朝起きると「今日何を食おうか」というのが常で、
その日に捕れる相模湾の魚を心待ちにしていたという。

食に関して澁澤龍彦はこんな文章を記している。

アストロノミーは天文学のことだが、
この言葉の前にGをつけると、
ガストロノミーすなわち美食学となる。
アストロは星の意であるが、ガストロは胃の意である。
私はガストロノミーという言葉を聞くと、
自分の胃のなかで、無数の星が
軌道を描いて回転しているような気がしてくる。

まことに澁澤龍彦らしい表現である。

向田邦子の食卓

向田邦子の少女時代、向田家ではふたつの鍋で
カレーをつくっていた。

大きい鍋は家族用。小さい鍋は父親用。
父親のカレーは辛口で、肉も多かった。
早く大人になって、そのカレーが食べたい。
彼女はいつもそう思っていた。

カレーといえばもうひとつ、
向田邦子にはこんなエピソードがある。

人気ドラマ「寺内貫太郎」の脚本を執筆していた時、
彼女は寺内家の朝食として台本にこう書き加えた。

「ゆうべの残りのカレー」。

下町の家族の暮らしをわずか一行で表現した邦子の感性に
出演者もスタッフも感心したという。

井上ひさしの食卓

井上ひさしは歯医者が大の苦手だった。
虫歯ができても放置し続けたため、
やがて前歯を除くほとんどの歯が虫歯になった。

その痛みに耐えきれず、ある時彼は入院し、
重症の虫歯を一気に13本抜いた。

それ以来、井上ひさしは
やわらかいものしか食べられなくなった。

そんな彼のために、妻は歯に負担の少ない料理をつくった。

ハンバーグと揚げたチーズと
ニンジンを絞ったジュースを井上ひさしは特に好んだ。

彼は妻のつくる料理にこんな感想を述べている。

ただひとつのしあわせは、
家人が世にもまれな料理下手だったということだ。
彼女がもし料理上手だったら、
心をこめて作った料理に渋面を作る夫を、
やがて憎むようになっただろうから。

井上ひさしらしい感謝の仕方である。

遠藤周作の食卓

遠藤周作の家では
夕飯は漬物とあと一品と決まっていた。

毎日の献立を決めるのは妻の仕事で、
彼女には食事は質素をもって旨とすべし
という考えがあった。

周作はたまには贅沢をしたいと思うが仕方ない。
自分の仕事に口を出させないかわりに、
妻の仕事にも口を出さないというのが、
遠藤家のルールだったから。

そう思いながら、遠藤周作は明るく言う。

何はなくても家族みんなでたべる食卓はたのしい。
それはどこの家庭でも同じでしょう。
時々、夢で血のしたたるビフテキを食べている
自分の姿を見ますがね。

齋藤茂吉の食卓

歌人、齋藤茂吉は鰻に目がなかった。
その生涯で1000匹以上の鰻を食べたともいわれる。

太平洋戦争の最中、疎開先の山形で友人から鰻を送られた。

久しぶりに食べる極上の鰻に、茂吉はこんな句を詠んだ。

肉厚き
鰻もて来し
友の顔
しげしげと見む
いとまもあらず

田村隆一の食卓

詩人、田村隆一の晩年、朝食は決まって
妻のつくる弁当だった。

幼い頃から病弱で心臓の手術もした妻は朝が弱かった。

そのため、前の晩に弁当をつくり、
隆一の朝食として用意した。

目ざめると、隆一は弁当を持って2階に上がり、
窓の外を眺めながらそれを食べた。

朝早く、妻のつくった弁当をひとりで食べる。
その時間が隆一は好きだった。
窓の外には美しい鎌倉の海が見えた。

彼は妻の料理の味付けを気に入っていた。

家内の味つけは、
今風の料理屋より数段上です。

田村隆一はことあるごとに友人にそう吹聴していたという。

topへ

小野麻利江 11年5月14日放送



希望のことば 「ショーシャンクの空に」のアンディ

希望とは、素晴らしいものだ。
たぶん、なによりも素晴らしい。
そして、それは決して、失われることがない・・・

アンディはそう言って、
決して希望を捨てようとしなかった。
冤罪をかけられ、
「終身刑2回」を言い渡されたにもかかわらず。

1994年に公開された映画、
「ショーシャンクの空に」の話である。

劇場公開時の興行収支は
赤字だったにもかかわらず、
この映画が、年を経るごとに
多くのファンを魅了しているのは、

希望を持ち続けたい。
私たちが無意識のうちに抱いているそんな願いを、
圧倒的なカタルシスとともに、
肯定してくれるから、かもしれない。



希望のことば アラン・ケイ

計算機科学者、アラン・ケイ。
コンピュータがまだ巨大かつ高価なマシンで、
そのため、複数の人間のあいだで「共有」するのが
当たり前だった時代に、
それを「個人ごとに利用する」という環境を構想した
通称「パソコンの父」。

「私たちはこれから、どうなるんだろう?」
そういった、将来に対する
不安や恐れに対しても、
天才的アイデアパーソンである彼が、
ありきたりな回答を、するはずもなく。

未来を予測する最善の方法は、
自らそれを創り出すことである。

こんなあざやかな「解」を
はじき出してしまうのだった。



希望のことば 山本一力

作家・山本一力の小説には、
一生懸命やっている人は、報われなくちゃね。
そんな、あたたかい眼差しがある。

バブル時代に億単位の借金を抱え、
その返済のために、小説を書いた。
しかし、新人賞を獲ってからも、
編集者にペケを出され続ける日々が続く。

そんな「しんどい」の連続の中で、
ずっと支えにしてきた言葉がある、と彼は言う。

『明日は味方』。
誰の言葉かは分かりませんが、
これは、一生の言葉です。
ひたむきにやっていれば、
必ず明日は、味方になる。

topへ

石橋涼子 11年5月14日放送



希望のことば ケント・M・キース

逆説の十か条を、ご存じだろうか?

マザーテレサの「孤児の家」の
壁に書かれた言葉として有名になったのだが、
もとは、ケント・M・キースという
アメリカに住む若干19歳の大学生が
高校生向けの小冊子に書いたものだった。

その内容は、例えば、こう。

人は不合理でわからず屋でワガママな存在だ。
それでもなお、人を愛しなさい。

今日の良い行いは明日になれば忘れられるだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。

何年もかけて築いたものが、一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築きあげなさい。

逆説の十カ条を通じて19歳の青年は、
この世界の理不尽を受け入れながらも、
それでもなお、希望を持とう、と唱えている。



希望のことば ルイーザ・メイ・オルコット

四姉妹の成長を描いた名作「若草物語」。
その作者であり、おてんばな次女のモデルでもあるのが
ルイーザ・メイ・オルコットだ。

ルイーザの父親は、理想主義的な教育家で
娘たちは自由にのびのびと育てられたのだが、
一家の暮らしは貧しいものだった。

彼女は生活のために教師や看護婦、ベビーシッターなど
さまざまな仕事をこなす一方で
作家になるという希望を持ち続け、
37歳のときに「若草物語」でようやく成功を収めた。

その後も奴隷制廃止や女性参政権の運動家として
自分にできることやりたいことを実践しつづけた
ルイーザは、こんな言葉を残している。

「希望を持って忙しく」というのが、
うちのモットーです。

topへ

薄 景子 11年5月14日放送



希望のことば ルイ・アラゴン

フランスの詩人、ルイ・アラゴンは言った。

教えるとは希望を語ること
学ぶとは真実を胸に刻むこと

大人が希望を語りつづければ、
子どもたちの希望は育つ。
大人が真実にもとづいて行動すれば
子どもたちは真実を胸に刻める。

未来に希望を連鎖していく、
そんなひとりになりたいと思う。

topへ

熊埜御堂由香 11年5月14日放送



希望のことば サトウハチロー

日本でいちばん多く母の詩を書いた詩人サトウハチロー。
3000に及ぶそのなかにこんな詩がある。

きょうも一日、いやなことがなかったと
日めくりのカレンダーに
おじぎをしてしずかにはぎとった母。

その姿とはぎとる音がいまでも目に見え
耳の奥に浮かぶのです。

わたしが日めくりカレンダーが好きなわけは これなのです。

仏教の考えかたに
あるがままの暮らしを静かに受入れる、
幸せを外の世界に求めず、みずからの内に求める、というのがあるが
サトウハチローの詩にうたわれた母は
意識もせずにそれを実践している。

おかあさんは、やっぱりすごい。
おかあさんは、やっぱりえらい。

topへ

古居利康 11年5月8日放送



一番 セカンド ジャッキー・ロビンソン

1947年4月15日。
アメリカ・メジャーリーグ、
ブルックリン・ドジャースの開幕戦。
フィールドに飛び出した9人の中に、
1人だけ肌の色の違う男がいた。

男の名は、
ジャッキー・ロビンソン。
半世紀のあいだ閉め出されてきた
アフリカ系アメリカ人が、
初めてメジャーリーグの舞台に立った
瞬間だった。



二番 キャッチャー ブランチ・リッキー

ブルックリン・ドジャースの
ブランチ・リッキーは、
メジャーリーグきっての敏腕GMだった。

マイナーチームを
メジャー傘下に組み入れたのも、
開幕前のキャンプを
暖かいフロリダでおこなったのも、
リッキーが最初だった。

しかし、黒人をチームに加える、
という大胆な試みは、
全米の白人社会から猛反発を受けた

彼は、慈善運動家でも
黒人解放の活動家でもなかった。
ただ、ブルックリン・ドジャースを
強くしたい一心で、
ジャッキー・ロビンソンという
有能な若者をチームに入れた。



三番 ファースト ジョージ・シスラー

シスラーは、現役引退ののち、
ドジャースでスカウトになった。

メジャーのシーズン最多安打記録を
もっていたことより、
それをイチローに破られたことで
有名になった、あの、ジョージ・シスラーだ。

メジャーで通用する能力をもち、
かつ、どんな差別に遭っても耐えられる
強い精神をもった黒人選手を探せ。

それが、
ブランチ・リッキーから与えられた
ミッションだった。

ジャッキー・ロビンソンは、
ニグロリーグの名門、
カンザスシティ・モナクスというチームにいた。

知性。情熱。身体能力。
この青年は、すべてをもっている。
彼に出会ったシスラーは、そう確信した。



四番 サード レオ・ドローチャー

ドジャースの選手の中には、
ロビンソンと同じグラウンドに立つことを
嫌う者もいた。

バラバラになりかけたチームに、
監督レオ・ドローチャーは、
こう宣言する。

「私は、
 選手の肌が黄色であろうと黒であろうと
 構わない。優秀な選手であれば使う。
 もし反対する者がいたら、
 チームを出ていってほしい」



五番 ショート ピー・ウィー・リース

当時、ドジャースのキャプテンだった
遊撃手ピー・ウィー・リースは、
人種差別の激しいケンタッキー州ルイビルで生まれた。
彼自身、差別意識と無縁ではなかった。

あるとき、敵地で激しい野次が飛んだ。
ロビンソンにではなく、リースに、だ。
「南部出身の白人のくせに、
 なぜ黒人なんかと野球をやっている!」

リースは黙ってロビンソンのところに
歩いていって、彼の肩を抱いた。

静かな、しかし強い意志表示に、
観客席はシーンとなった。

その後も、ロビンソンに対する嫌がらせは、
あとを絶たない。
球場に来たら射殺してやる、という、
物騒な脅迫さえ何度もあった。

そんなとき、リースが冗談めかして言った。
「ジャッキー、俺から離れてよ!
 撃つやつが下手だったら俺に当たるだろう」

チームの誰かがそれに答える。
「だったら、チーム全員で背番号42を着ればいい!
 そうすれば誰がロビンソンかわからなくなる」

差別や迫害は、かえって
チームの結束を強くしていった。



六番 レフト ロバート・B・パーカー

15歳の少年が、
ブルックリン行きのバスに乗る。
乗客は、少年以外、すべて黒人だ。

ひとりの女性が話しかける。
「何をしに来たの?」
「ぼくはドジャースファンだ。
 ボストンから、ジャッキーを見に来た」
女性が大声で仲間に言う。
「この子はね、われらがジャッキーを見に、
 はるばるやって来たんだよ!」

少年の名は、
ロバート・B・パーカー。
後年、ハードボイルドの作家になる。

この話は、
『ダブルプレー』という小説に登場する。
ロビンソンを命がけで守る
クールなボディガードの話だ。



七番 センター ウォルター・オマリー

1947年シーズン、
ドジャースはリーグ優勝。
ロビンソン在籍の10年で
優勝6度を数えた。

しかし、球団オーナー、
ウォルター・オマリーは、
観客動員数の飛躍を求めて、
1958年、球団をロサンジェルスに移転。

すべてのブルックリン市民が
悲嘆にくれた。



八番 ピッチャー 野茂英雄
九番 ライト レイチェル・ロビンソン

ロサンジェルス移転から37年後。
1995年、ドジャースに野茂英雄がやってくる。
球団オーナーは、ウォルターの跡を継いだ
息子、ピーター・オマリーだった。

野茂は、この年、
全米に旋風を巻き起こし、新人王に選ばれる。

ジャッキー・ロビンソンがデビューした
1947年に、初めて制定された新人王。
その第一回受賞者がロビンソンだった。
それを記念して、1987年からは、
新人王の別名がジャッキー・ロビンソン賞になる。

野茂英雄にトロフィーを手渡したのは、
亡きジャッキー・ロビンソンの妻、
レイチェル・ロビンソンだった。

topへ