佐藤延夫 19年11月2日放送



書道の日  小野道風の書

平安時代後期。
三蹟のひとり、小野道風は
30歳を過ぎたころから能書家になった。
醍醐天皇に命じられ、
唐に渡すための行書などをいくつも担当している。
こんな逸話がある。
小野道風は、空海の文字を見て、
「福」という字の「田」が大きすぎる。
「朱」は、まるで「米」のように見える。
そう批判したため、
罰があたって手が震えるようになったという。

今日11月2日は、書道の日。
書は、真実を語る。

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佐藤延夫 19年11月2日放送



書道の日  最澄の書

平安時代の僧侶、最澄。
空海に宛てた書状「久隔帖」が、
彼の代表作と言われている。
実に淡々とした書きぶりで、
さっぱりしている。
だが、空海と比較すると、
書に対するテクニックや
演出的な要素が薄いとも言える。
最澄は、書に対して
自分なりの理想を描いてはいなかったそうだ。
表現よりも、伝えること。
そこに重きを置いた最澄は、
スケールの大きい書家なのかもしれない。

今日11月2日は、書道の日。
書が、教えてくれること。

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佐藤延夫 19年11月2日放送



書道の日  円珍の書

平安時代の僧侶、円珍。
彼の書状を眺めると、
一瞬、パニックに陥る。
それほどダイレクトに、壮絶に、
文字が脳に飛び込んでくる。
「枯れ枝のよう」と評されるほど文字は細い。
そして単調に書き散らされている。
しかし仔細に眺めると、
基本を崩したものだとわかる。秩序を感じる。
一点一画の書きぶりに味わいがあり、
だんだん魅力的に見えてくるから不思議だ。

万葉仮名から女手へ。
つまり平仮名に近づきつつあるのが
円珍の書。

今日11月2日は、書道の日。
少しだけ、筆をとってみませんか。

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佐藤延夫 19年11月2日放送



書道の日  道鏡の書

奈良時代の僧侶、道鏡は
個性的な字を書いた。
決して名筆ではないが、
無造作で強い、豪胆な書。
そして、真似したくなるような
面白さ、魅力がある。
見れば見るほど無造作で
未完成のようだが、
書きぶりはバリエーションに富み、
書の構成は成熟している。
いわば、道鏡フォントになっている。

悪名高い道鏡だが、
その書には、彼らしい存在感が輝いている。

今日11月2日は、書道の日。
書は、生きざまを語る。

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石橋涼子 19年10月27日放送



銀座のはなし  銀座の始まり

文化とモノが集まる華やかな街、銀座。
その始まりは、徳川家康が江戸幕府を開いた時代に
さかのぼる。

幕府のために銀貨を造り、管理する組織である
「銀座役所」が、この地につくられたのだ。
さらには、幕府から特権を受けて金貨をつくる「大判座」や
金銀の計量に欠かせない分銅をつくる「分銅座」も集められた。

当時の地名は新両替町だったが、
通称である「銀座」が親しまれ、今に残っている。

華やかな街の始まりは、すこし意外だが、
幕府御用達のお役所だった。

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石橋涼子 19年10月27日放送


松岡明芳
銀座のはなし  銀座と能

銀座の楽しみと言えば、ショッピングやグルメに加えて
伝統芸能ではないだろうか。
特に古典芸能のひとつである能は、銀座に縁が深い。

能は、室町時代から武士の嗜みとして保護されたが、
徳川家康が特に好んだことでも知られている。

家康は、人質として今川家に預けられていた幼少時に
観世流の稽古を受け、親しんでいたという。
足軽から出世すると共に能を学んだ秀吉とは、
思い入れの性質が異なったかもしれない。

江戸幕府を開くとすぐに
駿府にいた能役者たちを大勢呼び寄せ、
銀座に屋敷を与えて住まわせた。

観世流の屋敷は銀座2丁目付近にあったと言い、
金春(こんぱる)流の屋敷は8丁目付近に位置した。
観世能楽堂は長らく渋谷に移転していたが、
2017年、150年ぶりに銀座へ戻った。

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熊埜御堂由香 19年10月27日放送



銀座のはなし  Barルパンと太宰治

1928年に創業した銀座5丁目の老舗バー「ルパン」。
様々な文学者に愛された文壇バーだ。

苦悩する顔で知られる太宰治も、
ここでは違う顔を見せた。
当時、太宰と並び、無頼派と言われた、
坂口安吾や織田作之助もよくルパンに集まった。

ある日、ルパンで飲んでいたら、
写真家、林忠彦が織田の様子を写真に収めていた。
すると、「オレも撮れよ」と絡んだ太宰。
大作家とは知らずに、ムッとした林に隣の客が
あれが、今売り出し中の太宰だよ、と囁いた。

残り一枚で、慌てて撮られた写真が今も残る。
太宰は、イスに足を上げて陽気な笑顔でくつろいでいる。
そこには、同世代の仲間と語らう、心解けたひとりの男がいる。

太宰が座っていた席は今でも健在だ。
世界で一番バーが多い街とも言われる銀座で、
ルパンは変わらず人々に暖かな灯りをともし続けている。

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茂木彩海 19年10月27日放送



銀座のはなし  銀座のみゆき通り

銀座を代表する「みゆき通り」。

この名前がついたのは、1940年ごろのこと。
藤田嗣治などの文化人が中心となり、
東京を世界に誇れる美しい街にしようと、
まずは銀座から手を入れた。

そこで名付けられたのが、「みゆき通り」。
「御幸」は丁寧語を表す「御(おん)」と
幸せの「幸(さち)」をめでたく組み合わせた言葉で
天皇、皇后、上皇、皇太后のお出かけを言う。

「みゆき」って、いったい誰の名前だろう?
そう思っていたあなたには、
銀座の歴史を知る楽しみがまだまだありそうだ。

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薄景子 19年10月27日放送



銀座のはなし  銀ぶら

明治5年、横浜―新橋間に日本初の鉄道が開通した。
新橋の駅前商店街として、銀座はにぎわいはじめ、
時計や洋服、洋食屋など、西欧からの輸入品や
目新しい商品の店が次々と開店した。

商人たちは、ショーウインドウを店先に作り、
江戸以前の「座売り」といわれた
店の奥から商品をもってくる販売方法をやめ、
履物を履いたまま、気軽に店内を眺められる
新しい買い物スタイルを切り拓いた。

明治後半には、今でいう百貨店が次々に誕生。
ウインドーショッピングや街並みを楽しみながら
銀座をぶらぶら歩くことは、のちに「銀ぶら」と呼ばれるようになった。

そんな100年ちょっと前の銀座を
想像しながらこの街を歩くのも
新しい「銀ぶら」の楽しみ方かもしれない。

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小野麻利江 19年10月27日放送



銀座のはなし  銀座の柳

実は江戸時代に
東京湾を埋め立ててつくられた、銀座の街。

明治7年。日本初の街路樹として
銀座通りに松や楓、桜が植えられたが、
地下水位が高いため、
松や桜は根腐れを起こし、枯れてしまった。

そこで街路樹に選ばれたのが
湿気に強い、柳の木。

明治17年ごろには、銀座の街路樹は
ほとんどが柳に取ってかわったという。

その後、関東大震災や第二次世界大戦で
焼けてしまったり、
1964年のオリンピックに向けての
建設ラッシュで枯れてしまったりと
銀座の柳は憂き目にあっていたが、

接ぎ木した「二世柳」を復活させたり
毎年5月に「銀座柳まつり」を行うなど、

柳の風情あるたたずまいを残そうという動きは、
今も受けつがれている。

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