大友美有紀 12年11月17日放送


Francesco Gola
パウル・クレー「食卓の言葉」
フルッティ・ディ・マーレ

スイスで育った画家クレーは、海を見たことがなかった。
新鮮でおいしい魚介類を食べたこともなかった。
21才の時、ミュンヘンの画塾の友人と、イタリアへ旅立つ。
ヨーロッパの古典芸術を体感するためだ。
この時、彼は海の幸の数々も体感する。
婚約者のリリーにも、その感動を書き送っている。

 フルッティ・ディ・マーレは、ジェノヴァで食べただけ。
 赤みを帯びたタコのカタチをしたもので、油とお酢で
 味をつけた、とてもデリケートな味のするもの、
 船上でも食べましたが期待は裏切られませんでした。

 
フルッティ・ディ・マーレは、イタリアでは海の幸全般をさす。
クレーは料理名と勘違いしたのだろう。
しかしすっかり魅了された様子は伝わってくる。
この旅のあと、クレーの日記には
食事についての記述がたびたび登場する。

topへ

大友美有紀 12年11月17日放送



パウル・クレー「食卓の言葉」
主夫クレー

26歳の時、画家クレーは、3歳年上のピアニスト、
リリーと結婚する。クレーはまだ無名だ。
リリーのピアノ教師としての収入がすべて。
食事の支度はクレーの役割、
息子が生まれてからは、育児も引き受ける。
創作の時間は、極端に少なくなる。
昼間は台所で家事をし、夜通し絵を描く。
モチーフは、数日前にバルコニーから見た光景。
それでもクレーが料理する姿は、
息子フェリックスにとって、とても楽しみだった。

 父は実に軽快で、まるで絵を描いたり
 音楽を奏でたりしているかのように料理をしていた。
 皿に盛られた5、6品の料理は見事なできばえで、
 いつも素晴らしい味だった。

14年に渡る苦悩の時代、クレーは小さな台所で
独自の世界をつくりあげていった。

topへ

大友美有紀 12年11月17日放送


Kike’s
パウル・クレー「食卓の言葉」
チュニジア

無名時代もクレーは、線画を描き続け出版社に売り込んでいた。
やがて、カンディンスキーと出会い
彼の主催する「青騎士」グループに参加する。
画家としての可能性が見えてきた34歳の時、
2人の友人とチュニジアに旅をする。
それまでモノクロームの絵を描いていたクレーが
色彩を手に入れたとされる旅だ。

 色彩は私を永遠に捉えた。
 私にはそれがわかる。
 この至福のときが意味するのは、
 私と色彩がひとつだということ。
 私が、画家だということ。

クレーはチュニジアで色彩に目覚めた。それはほんとうだろう。
けれど、この有名な言葉は、今では後年、日記に書き加えられたとされている。
クレーには、この旅でもう一つの出会いがあった。
それは、帰りの船のディナーだ。

 この夕食については本が一冊書けそうだ。
 スパゲティがとてもおいしかったので、
 ついしっかりと食べてしまった。
 モミの葉で香りをつけた猪に果物の煮込みが出たあたりから、
 胃が重くなってきた。それでも勝負を続けた。

日記にはまだまだ料理の描写が続いていく。
当時のままの、クレーの感動がそこにある。

topへ

大友美有紀 12年11月17日放送



パウル・クレー「食卓の言葉」
ゾフィー

チュニジア旅行から戻った画家クレーは、
無名ながらも絵を描き続ける。
しかしそれも、第一次世界大戦で中断。
兵士となって家を離れることになる。
クレーは、家族の食事の心配をし、
ゾフィーという女性に家事を頼む。
戦争中の彼の日記には、軍務についての記述や、
芸術への深い思索が綴られている。
もちろん家族への愛情も。

 3月14日。やっと手紙が来た!
 手紙がこんなに嬉しいものだとは!
 ただ、手紙の調子がちょっともの悲しすぎる。
 フェリックスは、ゾフィーは料理が上手だと言う。

嫉妬しているのである。

topへ

大友美有紀 12年11月17日放送



パウル・クレー「食卓の言葉」
アトリエ・レストラン

第一次世界大戦後、クレーはカンディンスキーとともに
総合造形学校バウハウスに招聘され、
画家として安定した暮らしを手に入れる。
数年後、学内の政治問題の負担に疲れ、バウハウスを去る。
家族と離れて暮らす土地でアトリエを構え、
そこにも料理場をこしらえた。
その様子を妻リリーへの手紙で伝えている。

 僕のアトリエ・レストランは、とてもすてき。
 今日は若鶏に野菜炒め、天下一品の味。
 アトリエには、いま水彩画とスケッチが壁いっぱいにかかり、
 生き生きとしています。そこに上等な若鶏の匂いがただよって
 欠かせないものとなっています。

topへ

大友美有紀 12年11月17日放送



パウル・クレー「食卓の言葉」
ゲルストット

1920年から30年にかけて
画家として黄金期をむかえたパウル・クレー。
しかし、近代芸術を退廃的なものと見なしたナチスに
突然、家宅捜索され、迫害される。
クレーは故郷ベルンのあるスイスへの亡命を決意する。

クレーの日記は、バウハウス時代から途絶えていたが、
スイスへ移り住んだ後の、メモ書きのようなものが残っている。
幼い頃からヴァイオリンの名手だったクレーは、
晩年、演奏と食事を楽しみに日々を過ごしていた。
1935年、55歳の時のある1日。

 1月3日木曜日。ロートマールのところで弦楽四重奏、
 シューベルトのト長調。チェロはガンギエ嬢。
 クンスハストでクリスマス市。ゲルストット、カリフラワー、
 ミックスサラダ。調理時間44分。バター、玉ねぎ、ニンニク少々、
 セロリー10分フタをして蒸す。大麦をきつね色に炒め、
 熱湯を注ぎ、最後にチーズ。

ゲルストットとはクレーの造語。「ゲルスト」はドイツ語で大麦。
トットはおそらくイタリア語のトゥット「たくさん」からきているのだろう。
再現してみると、やさしい味わいの大麦スープになる。
スイスに亡命し、妻リリーと質素に暮らす中の、愛情を感じる料理だ。

topへ

古居利康 12年11月11日放送



左手の話 ①レオナルド・ダ・ヴィンチ

レオナルド・ダ・ヴィンチは
左利きだった、という説がある。

数多く残されたデッサンをよく見ると、
斜線の筆致が、ほぼすべて、
左上から右下の方向に走っている。

右利きの人間がそのような方向へ
筆を運ぶのは不自然であり、無理がある、
というのが、ダ・ヴィンチ左利き説の
根拠になっている。

topへ

古居利康 12年11月11日放送



左手の話 ②宮本武蔵

宮本武蔵は、
絵を描くのが好きだった。
その腕前は、武芸者の余技を
はるかに超えるものだった。

彼が残した水墨画の
墨の濃淡から、
宮本武蔵は左利きだった、
と唱える人がいる。

武蔵が描く線は、
右側が濃く、左側が薄いことが多い。
筆で線を書いてみるとわかるが、
右利きの人間ならその逆になる。

このあたりから、
宮本武蔵は左利きだった、
という説が生まれた。

topへ

古居利康 12年11月11日放送



左手の話 ③天才たち

人間の脳は左右に分かれていて、
右脳が左半身を、左脳が右半身を司っている。
左右が交差するかたちだ。

右脳は音楽脳とも呼ばれ、
視覚・聴覚などの五感を認識し、
空間認知なども受けもっている。
左脳は言語脳とも呼ばれ、
言葉や文字などを認識し、
論理的な思考に展開する。

左利きの人は左手をよく動かすので、
右脳の働きが活発になり、
結果、感性が豊かになる。
天才に左利きが多いのはそのためだ、
と主張する向きもあるが、
科学的な根拠はなく、俗説の域を出ない。

ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、
ニュートン、ベートーベン、
アインシュタイン、ピカソ…。

左利きだったと伝えられる
そうそうたる天才たちの名を並べると、
左利き天才説を信じたくなってくるのだが。

topへ

古居利康 12年11月11日放送



左手の話 ④ジョージ6世

『英国王のスピーチ』という映画がある。

英国王ジョージ6世が吃音症を克服する
姿を描いてアカデミー賞を獲った。

左利きだった王は幼少時、
父・ジョージ5世から左利きを
むりやり矯正される経験をもつ。

食事のとき、息子の左手に
長い紐を結びつけ、左手を使った場合、
父が乱暴に引っ張って注意した。

この幼児体験がジョージ6世を
ストレス過多にし、内向的にし、
吃音症に悩む原因になったといわれている。

topへ


login