2012 年 10 月 13 日 のアーカイブ

祝!五島のはなし(182)

あした、10月13日。
この「五島のはなし」の20回目を書いてくれた鳥巣くんが
五島で結婚式をあげます。

祝!鳥巣くん。そして新婦の優さん。

Vision執筆者である小野さんや三島くんもお祝いのために五島に上陸するようです。

五島の皆さま、新郎と新婦を見かけたら、ぜひ一声かけてあげてもらえませんか。
五島が好きで、五島で結婚式をあげる、というのです。うれしいじゃありませんか。
ぜひ、祝福してあげてください。

また、ぼくの会社の友人たちもお祝いのために五島に集結しています。
へんな一団を街で見かけたら、アガダナンバシヨットカ
と一声かけてやっていただければと思います。

いやあ、それにしても、めでたい。

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蛭田瑞穂 12年10月13日放送



食べる作家①太宰治

太宰治というと、
痩せぎすの小説家という印象があるが、
実は大食漢で旺盛な食欲の持ち主だった。

いちばんの好物は毛ガニで、
ある時、酔って新宿の街を歩いていた太宰は、
毛ガニをうず高く積んだ夜店を見つけると、
素手で一匹を掴み、
その場でムシャムシャ食べ始めたという。

ニワトリの解体も得意だった。
さばいたトリは骨付きのままぶつ切りし、
豪快にトリの水炊き鍋をつくった。

一方で繊細な面もあった。
箸の使い方が上手で、長い箸の先だけを使って、
きれいに魚を食べたという。

よく食い、よく飲む。
太宰はそんな作家だった。

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蛭田瑞穂 12年10月13日放送



食べる作家②林芙美子

昭和5年に『放浪記』でデビューし、
一躍時代の寵児となった林芙美子。
芙美子はその翌年憧れのフランスに渡った。

パリに下宿を借りた芙美子は、
映画やオペラに通い、美術館を巡り、
花の都の生活を満喫した。
しかし、ただひとつ報われなかったのは
日本食への思いだった。

半年間の滞在を終えた芙美子は船で神戸に着くと、
すぐに港の近くの小さなうどん屋に行き、
葱を振りかけた熱いうどんを食べた。

 天にものぼるやうにおいしい。
 たつた六銭だつたのに吃驚してしまった。

うどんの味を芙美子は日記にそう記している。

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蛭田瑞穂 12年10月13日放送



食べる作家③内田百閒

太平洋戦争真っただ中の昭和19年、
内田百閒は『餓鬼道肴蔬目録(がきどうこうそもくろく)』
という作品を書いた。

 まぐろ 霜降りとろノぶつ切り
 ポークカツレツ
 シユークリーム
 富山のますの早鮨

料理の名前だけが延々と列記されている風変わりな作品。
百閒はこの作品を
「食ベルモノガ無クナツタノデセメテ記憶ノ中カラ
ウマイ物食ベタイモノ物ダケデモ探シ出シテ見ヨウ」
と思いついたという。

百間の、食への執着心の、
なんとすさまじいことか。

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蛭田瑞穂 12年10月13日放送



食べる作家④江戸川乱歩

江戸川乱歩が酒を飲むようになったのは、
50を過ぎてから。
当然、あまり強くはなかった。

日本酒を一合飲むと赤ら顔になった。
二合飲むと動悸が激しくなった。
三合飲むと心臓が苦しくなった。

詩人の堀口大學の家で日本酒をふるまわれ、
酔ってそのまま床に寝てしまったこともある。

そんな乱歩もビールは好んで飲んだ。

 喉のかわいたときのビールは、むろんよろしい。
 ビールでは、わたしには、つまみものよりも
 薄く切った脂の多いトンカツに生キャベツが適薬である。
 風呂から上ってこれをやるのは格別。

エッセイの中で乱歩はそう記している。

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蛭田瑞穂 12年10月13日放送

食べる作家⑤幸田露伴

幸田露伴の文章に「供給会社」というものがある。

内容は、朝昼晩三度の炊事は面倒で
労働力の損失になる、
そこで、安い食事を供給する会社ができれば
非常に便利である、というもの。

そして露伴はこう続ける。

 清潔で迅速で上品で、少しの虚飾もなく、
 単に食事を要領よく出す。
 こういう店をたくさんつくればいい。
 大金を投じ、供給会社を各都市に設ければ、
 個人にとっても都市にとっても甚だ有益であろう。

露伴の言う供給会社こそ現代における
ファミリーレストランやファストフード店。

露伴がこの文章を発表したのは明治45年。
その先見の明に驚く。

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蛭田瑞穂 12年10月13日放送



食べる作家⑥坂口安吾

坂口安吾は無類の料理好きだった。

アンコウを丸々一尾用意し、身と肝を選り分ける。
残った部分は骨も一緒にすり潰して汁をとる。
この汁に味噌を混ぜ、身と肝とネギを入れて煮る。

アンコウ以外は味噌とネギを使うだけで、
一滴の水さえ使わない安吾流アンコウ鍋。

アンコウという名は安吾に通じる。
「共食いだ」と言って
安吾はアンコウを好んで食べたという。

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蛭田瑞穂 12年10月13日放送



食べる作家⑦谷崎潤一郎

谷崎潤一郎は日本橋の蛎殻町で生まれ育った。
当時、蛎殻町から人形町にかけての一帯は
洋食、中華、寿司、鳥鍋など、
さまざまな料理店が軒を並べる
東京随一の食の界隈だった。
そんな町で育ったからか、
谷崎の食に対する興味は旺盛だった。

奇怪奇天烈な創作料理が次々登場する
『美食倶楽部』という小説も書いている。

そんな谷崎を三島由紀夫は次のように評した。

 氏の小説作品は、何よりもまづ、美味しいのである。
 凝りに凝つた料理の上に、
 手間と時間を惜しまずに作つた
 ソースがかかつてをり、
 ふだんは食卓に上らない珍奇な材料が賞味され、
 栄養も豊富で、
 人を陶酔と恍惚の果てのニルヴアナへ誘い込み、
 生の喜びと生の憂鬱、活力と頽廃を同時に提供する。

谷崎の小説の、官能的な理由がよくわかる。

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