大友美有紀 12年10月20日放送


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小川三夫「不器用な言葉」2

宮大工・小川三夫は、まず仏壇造りの修行から始めた。
親方の家に住み込み、家事を手伝い、赤ん坊の世話もする。
給料ではなく、1日100円をもらっていた。
仕事はできない、金はない、まわりとの環境が全く違う。
気持ちがすっかりひねくれていた。
帰省した時に母親が自分にだけ出してくれた
鳥もも肉を皿ごと投げ返した。

 おかげで自分と言うものを見たわな。
 しかし、後になればひねくれるというのも
 いいことだと思うんだ。
 やはり人間が強くなるもとだよ。
 ただ、ひねくれっぱなしは、嫌われる。
 自分自身でなおさなくちゃあかん。

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大友美有紀 12年10月20日放送



小川三夫「不器用な言葉」3

1年ほど仏壇造りの修行をした小川三夫は、
ようやく法隆寺棟梁の西岡に弟子入りする。
ここでも言葉でストレートには教えない。
あるとき小川は西岡の息子に誘われて浄瑠璃寺を見に行く。
帰ってくると棟梁はそんな建物を見に行く必要はない、
という顔をしている。口には出さないけれど怒っている。

 その時の俺は未熟だったから棟梁の真意がわからなかった。
 今になってみると見る目がないのに
 見に行ったってしょうがないという怒りだったとわかる。
 見る目がない時にものを見に行くと、
 人の言葉を借りて見るだけだな。
 本やなんかに書いてあることを評論家みたいに言うだけだ。
 思ってもないのにな。

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大友美有紀 12年10月20日放送



小川三夫「不器用な言葉」4

宮大工・小川三夫は、仏壇造りの修行を経て、
法隆寺棟梁・西岡の内弟子になり、一人前の宮大工に成長する。
そして独立。鵤工舎(いかるがこうしゃ)を設立。
弟子を育成しながら社寺建築を続ける。
十年という年月を修行の目安にしているという。
修行中は、食事も一緒、仕事も一緒、
寝るのも刃物研ぎも、みんな一緒だ。

 一緒に暮らして、一緒に飯を食ってるから、
 言葉で言わんでもあいつが何を考えているかがわかるんや。
 おたがいを見て、こいつはこういうふうなやつだと、
 気づいていかなければいけないんだ。
 そうしていれば、今日あいつはちょっと調子悪いとか、
 おたがいをいたわる気持ちもちょっとずつ出てくる。

子どもに個室をつくるから、みんなだめになってしまうと小川は言う。
日ごろなんでもない時にふれあっていること、それが一番の
いい教育だと。

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大友美有紀 12年10月20日放送


緋佳
小川三夫「不器用な言葉」5

宮大工の仕事は何世紀も越えて続いていく。
だから見えないところまで気を配って丁寧にやる。
同時代の人には見えないけれど、
200年後、300年後解体した時に、その時代の大工たちが
ああ、こういう丁寧な仕事したんだなと
そのときわかってくれればいいという。

 そういうところはだれも見ていないよ。
 目に見えないところだからかまわん、
 そうなってしまうわけだな。
 それではいかんのや。
 たとえば、草むしりでも
 いまの世の中では見えるところだけをやる。
 そういう草むしりをしろといっているように思う。

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大友美有紀 12年10月20日放送



小川三夫「不器用な言葉」6

宮大工の仕事には、寸法通りにきちっと仕上げただけでは
だめなことがある。
たとえば柱の真ん中に別の木を通すために穴をあける。
木というのは芯を通って穴を空けると、芯にむかってふくらむ。
スムーズに入れるために「ヌスム」と言う技がある。
木の性(しょう)を見ていくぶん余計に掘っておく。

 世の中にもこういうヌスミみたいなものが
 必要なのと違うだろうか。
 ぎくしゃくしないように、ちょっと無理が出ても
 納めるようなゆとり。

それは自分のほうが引いてもいいと言う余裕。
今は、相手にそれを求めるだけだと、宮大工・小川は言う。

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大友美有紀 12年10月20日放送



小川三夫「不器用な言葉」7

堂や塔は幾重にも材を組んで積み上げて行く。
ひとつひとつの材の寸法のわずかな違いが、
積み重ねれば大きな違いになってしまう。
けれども、いまの法隆寺の五重塔や薬師寺の東塔は、
1個1個の木材はみんな不揃いだ。
木の癖に沿って割ってつくっているから、みんなばらばらだ。

 ばらばらなんだけど、大事なところでは
 水平や垂直が通ってなければならない。
 不揃いの部材で組んだ法隆寺の五重塔は
 1300年も建っているんだ。
 1本1本支え合って総持ちで立っているんだからな。

宮大工・小川三夫は弟子も、
大勢育てるときは不揃いがいいと言う。

 腕も、考えも同じくらいというのが集まっても
 ろくなことはない。
 不揃いでなくちゃあかんのや。
 いいのもいる、悪いのもいるっていうのがいいんだ。
 総持ち、いい言葉だな。みんなで持つ。
 不揃いこそ、社会のかたちとしては安定感があるし、 強い。

不揃いを扱うと言うのは時間がかかるし、余裕がないとできない、とも言う。
人を育てるのに急いだらあかんでぇ、と。

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古居利康 12年10月14日放送



もうひとりのわたし 平井太郎の場合

平井太郎は、20代のほぼ10年間、
いろんな職場を転々とした。

印刷工。図書館の貸し出し係。
英語の家庭教師。タイプライター販売員。
新聞記者。化粧品会社の宣伝部。
映画の弁士までやった。

しかし、彼には志があった。
探偵小説という志が。

『二銭銅貨』という短編で
デビューしたとき、平井太郎は、
「江戸川乱歩」になった。

探偵小説の祖、エドガー・アラン・ポーの
名をいただいた。「おれは日本のポーになる」、
という強い意志がそこにあった。

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古居利康 12年10月14日放送



もうひとりのわたし 長谷川海太郎の場合

長谷川海太郎は、
まず、「谷譲次」という名前で、
米国に生きる日本人、
当時メリケンジャップと揶揄的に
呼ばれた男たちを主人公にした小説を書く。
米国に留学し、全土を放浪した経験が
作品に生きた。

次に、「林不忘」という名前で、
時代小説を書く。主人公『丹下左膳』は、
隻腕隻眼のニヒルなヒーロー。
作者よりも有名になる。

それだけではなかった。

「牧逸馬」という3つめの名前で、
こんどは欧米の犯罪小説の翻訳をやったり、
昭和初期の都市風俗小説を書いたりした。

3つの名前を自在に操り、
大衆文学界を縦横無尽に走り抜けた快男児。

その生涯、たった35年。
35年で3人分の人生を生きた。

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古居利康 12年10月14日放送



もうひとりのわたし 津島修治の場合

津島修治が「太宰治」になるにあたっては、
紆余曲折、幾春秋あった。

旧制弘前高校にいたころから、
同人誌に小説を書いていた。
「辻島衆二」という、
本名とほぼ同じ音をもつ名前を用いたかと
思えば、「比賀志英郎」になったり、
「小菅銀吉」という、掏摸の親玉じみた
名前もなぜか使った。

「太宰治」という筆名は、
『列車』という短編で初めて登場する。

この「太宰治」の由来が、
諸説ふんぷんあって、定説いまだ定まらない。

いわく、京大教授でフランス文学者、
太宰施門に由来するのではないか。
いやいや、太宰府天満宮からさ。
あのね、弘前高校の同級生に太宰友次郎、
ってやつがいてね・・。

ここだけの話、津島修治って、
「ツ」と「シ」と「ジ」でできているから、
東北訛りが出やすいんだ。
「ツスマスンズ」・・。
などと言い出す者もあらわれ、
ドイツ語で現存在を意味する
「ダーザイン」だの、ダダイズムの駄洒落だの、
どうも人騒がせなことになるのも、
太宰らしいといえば、らしいのかもしれない。

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古居利康 12年10月14日放送



もうひとりのわたし ヘンリー・ジェイムス・ブラックの場合

ヘンリー・ジェイムス・ブラックは、
1858年、オーストラリアで生まれた。

父は、日本初の英字新聞
「ジャパン・ヘラルド」の記者だった。
ブラック少年は、7歳のとき、来日。

18歳で奇術師の弟子になり、
西洋奇術を演じるようになる。
その後、講釈師を経て、落語家になり、
「快楽亭ブラック」を襲名。

碧い眼に似合わぬべらんめえ調で
クマさん八ツァンを演じた。
その不思議な存在感は、
明治の寄席で異彩を放っていたという。

日本人女性と結婚して帰化。
本名を「石井貎刺屈(ぶらっく)」として、
いまは横浜の外人墓地に眠る。

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