三國菜恵 10年11月14日放送



人と石/南アフリカの少年


1860年代、南アフリカ。
オレンジ川のほとりであそんでいた少年が
光る石を見つける。

それが、南アフリカ最初のダイアモンド。
のちに「ユーレカ」と名付けられる。
その意味は、ギリシャ語で「我、発見せり」。

少年の発見は、世界最大の
ダイアモンド鉱脈の発見につながった。





石について/夢の浮橋


数奇な運命をたどった石がある。

その石は、
南北朝時代に、後醍醐天皇が肌身離さず持ち歩いていた。

戦国時代には、豊臣秀吉、
江戸時代には、徳川家康の手に渡り、
「お守り」の石とされてきた。

この石が彼らの命を
本当に守ったかは定かではない。
けど、心をなぐさめていたことは間違いない。
だって、名前がとても美しいから。

石の名前は、「夢の浮橋」。
現代人の私たちは、徳川美術館に行けば観ることができる。





人と石/中島誠之助


「いい仕事してますねえ」のセリフでおなじみの
人気鑑定士、中島誠之助。
彼は、小学生たちにこんな宿題を出したことがある。


 自分の宝物を見つけて、持っていらっしゃい。


思い思いのものを持ってくる生徒たち。
彼自身も生徒に混ざり、
一番の宝物を持ってきてみんなに見せた。

それは、小さな石。
8歳のときに河原で拾って以来、ずっと大事にしてきたという。

高価なお宝はたくさん知っていても、
ほんとの宝物は石ころひとつ。

「お宝」に対する、彼の心がうかがえる。


topへ

三島邦彦 10年11月14日放送



人と石/隈研吾


栃木県那須芦野に、「石の美術館」という名の小さな美術館がある。
設計を手掛けたのは、世界的建築家、隈研吾。
予算はほとんどないが、芦野の名産である石と、
石を扱う職人はふんだんに使える。
その条件の中で、彼はコンクリートやガラスに頼らない
石造りの名建築を生みだした。
彼は言う。


 制約は母である。制約からすべてが生まれる。
 そして自然とは、制約の別名である。






人と石/畠山直哉


「石灰石」と聞いて何を思い浮かべますか。
きっと、具体的なイメージを持つ人は少ないはず。

けれど石灰石は、
セメント、鉄、ガラス、紙、プラスチック、それに、薬品や食品、
さまざまなものに姿を変え、私たちの身の回りにあふれている。

そんな石灰石の採掘現場を
日本中で写真におさめた写真家、畠山直哉。
彼は語る。


 遥か地平線まで続くコンクリートのビルや道路が、
 すべてあの山々から掘り出した石灰石を原料としているなら、
 このビルや道路をすべて擦りつぶし、
 その膨大な量の炭酸カルシウムを慎重に元の場所に返してやれば、
 最後のスプーン一杯で、以前の山の稜線は、ぴったりと復元されることになるだろう。
 鉱山と都市はまるで写真のネガとポジのようなものだ。


今、あなたがいるその街も、
遠いどこかの石灰石鉱山の映し鏡。
そう考えると、風景が少し違って見えてきませんか。





人と石/アルバート・アインシュタイン


世紀の天才物理学者、アルベルト・アインシュタイン。

このアインシュタインという名前は、
ドイツ語で「一つの石」という意味だという。

そんな彼が残した言葉は。


 私は何カ月でも何年でもひたすら考える。
 九十九回目までは答えは間違っている。
 そして百回目でようやく、正しい結論にたどりつく。


この実直さ。
いかにも、名前どおり。


topへ

坂本和加 10年11月13日放送



写真家 荒木 経惟

20代までは、
親からもらった顔。
30代以降は、
してきたことが顔にでる。
そう聞いたことがある。

50年以上にわたり
今も精力的に活動を続ける
写真家、アラーキーこと
荒木経惟は、ここ10年近く
日本人の顔シリーズと称する
膨大な数の作品を撮っている。

顔を変えるのは、
じつは風土や時代じゃない。
まわりのひとです。
愛するひと、愛してくれるひとがいるひとは
かならずいい顔をしている。

生きているひとの、
そこに表出しているものを
アタシは撮らされていると荒木経惟は言う。

荒木経惟の撮った写真には、愛がある。





事業家 リチャード・ブランソン

ヴァージングループの創始者、
リチャード・ブランソンは
16歳で「僕が校長なら
もっとうまい経営をする」。
そう言って学校を去った。

ヴァージンの起業はハタチのとき。

今でこそブランソンといえば
メディアを手玉に取るような
派手なパフォーマンスが
よく取りざたされるが、
それは宣伝効果をねらった戦略。

創業時は、来客があれば
わざとスタッフに
外から電話をかけさせ
活況を装ったこともあると言う。

成功のためなら、なんでもやる。
けれど、とにかく楽しんで、する。

楽しんでいるひとは、つよい。





ブックディレクター 幅允孝(はばよしたか)

時代が求めれば、
あたらしい職業も生まれる。
ブックディレクター、
幅允孝さんの仕事がそうだ。

依頼されて、
しかるべき場所に
「本棚」を作りに行く。
たとえば、カフェに。
病院のリハビリ施設に。

書店が品揃えなら、
幅さんのつくる本棚は、
そこに発見と一期一会がある。
好きな本を並べるだけでは
ただのおせっかいです。
そう言う幅さんの、徹底した
取材から生まれたセレクトが、
ひとと本の、新鮮な出会いを
つくっている。

世の中には、
星の数ほど本がある。
人生は、何冊出会えるかです。





クラフト・エヴィング商會×吉田篤弘と吉田浩美

クラフト・エヴィング商會の
創業は明治30年。
吉田篤弘さんと浩美さんは
現在その3代目なのだが、
扱う品物はすべて架空の世界にある。
たとえば、「堪忍袋の緒」に「舌鼓」。
それらを軽快な文章と
イラストで綴った書籍。
あるいは、先代の残した未来から届く
へんてこな古書を紹介する書籍。
それが、クラフト・エヴィング商會の商品だ。

吉田さんご夫妻は
空想をていねいにあたため、
たしかな構想にかえて、
それを仕事にしてしまった。
それも、とびきりおもしろく。

みんながそう簡単に
まねできない仕事なら
オンリーワンになれる。





だれかのなりたい職業×バービー

小学生にきいた2010年の
「大人になったらなりたい職業」の
1位は、男子が野球選手で、
女子は食べ物屋さん。
そう聞いて、ちょっと
ほっとした気分になる。

バービーの愛称で知られる
アメリカ生まれの17歳は、
ウェブ投票で、
ことし126番目の職業、
コンピューターエンジニアになった。

リカちゃんが永遠の
小学5年生であるのにくらべたら
ずいぶんアメリカ的。

でも、バービーがこれほどの
キャリアウーマンだったとは。
驚きです。





思想家×吉本隆明

たとえば、
いまの仕事が
自分に合っているのかと、
疑問に思うひとがいる。

戦後思想家の巨人、
吉本隆明さんに言わせれば、
なりたい職業と
他人から見た向き不向きは
違うものなのだそうだ。

ならば、どうしたらいいか。
吉本さんの答えは、
「両方やってみればいい」。
できれば、それが対になるように
表と裏の関係で修練すればいい。

吉本さんの言うことは、シンプル。
働くことを、こわがるな。








翻訳家 岸本佐知子


売れっ子翻訳家、
岸本佐知子さんは、
すこしあまのじゃくなひとだ。

敬愛する谷崎潤一郎の
小説を読み、最高に内容がない。
と、ほめちぎる。
内容がないのに最後まで読めて、
何度でも新鮮で発見と驚きがある。
そこが、スゴイと絶賛する。

もとより、彼女は
自由なものを書いていい場所で
なぜこんな普通の話を書くのか。
と、長らく思っていたらしい。

だからなのか。
彼女のエッセイは、抱腹絶倒の
妄想のオンパレード。もはや、
エンターテイメントといっていい。

近ごろ笑ってないあと思ったら。
岸本佐知子さんのエッセイを。
電車の中では、読めません。

topへ

八木田杏子 10年11月07日放送



近藤京子


 音痴な人なんて、いません。


ヴォイストレーナーの近藤京子はそう言って、
歌うことが苦手な人を変えてきた。


 あなた、それじゃあ、ただ上手いだけよ。


近藤京子はそう言って、
歌うことが得意な人を変えてきた。

音楽の授業では、音程をとる上手い下手で
成績がつけられていたけれど。

彼女は、音程よりも声量よりも、
気持ちが伝わることを大切にする。

想像力と身体のすべてをつかって、
歌に想いをのせるための
アドバイスはシンプルだ。


 話すように、歌いなさい。
 歌うように、話しなさい。






ハインリヒ・フォン・クライスト


ドイツ語による最も美しい散文と称された
クライストのエッセイ「マリオネット芝居について」。

その中で彼は、ある少年が
無垢な優美さを一瞬にして失う様を描いている。

少年が足を拭こうとして足代に足をのせた瞬間、
大きな鏡をチラと一瞥して、
自分の姿が彫刻のように美しいと意識する。

もう一度それを人に見せるために
ふたたび足台に足を上げると、
もはや違う動きになっていた。

こんなエピソードをもちいて
クライストは語る。


 意識が人間の自然な優美さに
 どんな混乱を惹き起こさせるかは心得ている。


魅力や長所は、意識した瞬間に、自惚れや気取りになる。

そのときに失うものはあまりにも大きい。





サトウハチロー

 
サトウハチローの「小さい秋見つけた」という詩には
子供の視点で発見した秋が描かれている。


 呼んでる口笛 もずの声
 
 お部屋は北向き くもりのガラス
 
 はぜの葉あかくて 入り日色


この歌を口ずさんでいた子供のころ、
秋はもっと手に取りやすいものだった。

落ち葉をふみしめながら、どんぐりを拾ったり
赤い紅葉を本にはさんだり。

もくもくしていた入道雲が、
薄くとけたような空をながめたり。

大人になって、
夏の締めくくりと冬の支度に気を取られていると、
秋はするりと逃げていく。

サトウハチローが50歳をこえてから作詞した
「ちいさい秋みつけた」は、
忙しい大人が
秋を見つけるための歌なのかもしれない。









島田紳助


「学ぶ」の語源は、「マネブ」。
「真似る」から派生したものだという説がある。

島田紳助がまだ駆け出しのころ。

彼は、過去の漫才をできる限り集めて、
面白いと思うものを2種類にわけた。

マネできるものと、マネできないもの。

面白いと思えて、
自分にもマネできそうな漫才だけを分析した。

なぜ、ウケるのか。
セリフが上手いのか、間の取り方がいいのか。

そこから紳助が創り上げた漫才は、
若い世代を虜にした。

大物芸人の最初の一歩は、
マネからはじまったのだ。





大平健


精神科医である大平健は、童話をつかって治療をおこなう。

心の病の原因や対処法を、
患者自身に気付いてもらうために、物語をつかうのだ。

たとえば、
老後のくらしが不安で眠れなくなった67歳の老婦人。
夫と老人ホームに入って、
新しい暮らしを始めるのが不安な彼女には、「ももたろう」。

子どものいないおじいさん、おばあさんが、
尋常ではない方法で子供を授かるこの物語。

年をとっていても希望はもてる、
老婦人がそう思えたとき、睡眠薬はいらなくなった。

不登校になった女子高生には、「ねむり姫」。

どんなに手を尽くして防ごうとしても
100年の眠りにおちてしまった眠り姫のように、
予想外の問題は誰にでも起こる。
それでも、最後には幸せになれる。

そう思えたとき、
不登校の女子高生と母親は快方にむかった。

先人の知恵がつまった童話を紐解くと、
絡まった心の紐のほどき方が
見えてくるのかもしれない。





アルフレッド・ノーベル


ノーベル賞は、ダイナマイトを実用化した
アルフレッド・ノーベルの遺言からはじまった。

という話は有名だが、
ノーベル賞に数学賞がない理由は、
あまり知られてはいない。

数学を重要な学問だと思っていなかった、
数学者が嫌いだったなど、諸説がある。

ノーベルの恋敵だった
ミッターク・レフラーが数学者だから、
という説もある。

想い叶わず生涯独身を通した彼は、
ノーベル賞が恋敵に贈られるのはたまらなかった。

だから数学賞が、存在しないのだ。

そう考えると、
ノーベル賞のいかめしさが消えて
親しみやすくなる。





村上隆


芸術に、評価基準なんてない。
そう思うのは、素人なのかもしれない。

村上隆は、美術界の歴史を読み解いて、
次の手を戦略的にうつ。

新しい、美しいだけでは、作品は売れない。
過去の評価基準の先にある新しい価値を
プレゼンテーションして、売るのだ。

彼は、こう語る。


 世界基準の文脈を理解するべきである。

 価値をうむのは、才能よりサブタイトル。


それが東京芸大の博士課程をおえたあと、
コンビニの賞味期限切れ弁当を食べて暮らしながら
作品をつくりつづけた村上の結論。

若いうちに奔放にのばした才能を、
戦略的にパッケージングしたから1億円で売れたのだ。





カラカウワ王


フラダンスは踊りながら、話している。

ひとつひとつの動きに意味があるフラダンスは、
まるで手話のよう。
踊りながらハワイの自然の美しさを称え、
恋人への想いを伝え
古い伝説も語り継いでいく。

今では癒しの象徴とされるこのダンスは、
アメリカ人の宣教師たちに
異教の踊りとして半世紀近くも禁止されていた。

フラダンスを復活させたのは、
外交に長けていたハワイ王国のカラカウワ王。

近ごろでは日本でも学ぶ人が多いフラダンス。
滅びなくて本当によかったと思う。


topへ

佐藤延夫 10年11月06日放送



莫山先生と土

大正時代の最後に生まれた書家、榊莫山先生は
「土」という字を好んで書いた。

土の二つのヨコ棒は
地面と地中を表している。
そして一本のタテ棒は、
植物の種が芽を出してくる姿、だそうだ。

わたしの土は、地の豊饒。
五風十雨(ごふうじゅうう)に野も山も、青く染まれ、と祈りつつ

ある展覧会の図録にそう記していた。
「土」という字の中には壮大な宇宙の神秘が宿っている、という。

莫山先生のように
四十年も五十年もひとつの文字を書いた人でないと、
その意味は、きっとわからない。








莫山先生と女

莫山先生は「女」について考えた。

彫刻にせよ、絵画にせよ、写真にせよ、
芸術は、二千年も女の神秘を追いかけている。
それなのに、なんで書の世界で「女」をイメージしてあかんのや。

十数年が過ぎたころ、
莫山先生の書く「女」に命が宿り始めたという。
見る人は、ひとつの文字から、女の姿を想像することができた。

わたしの女は、生の豊饒。
ふくよかな女神の笑みに、露は光って

莫山先生は語る。
「女」は夢のオブジェだと。





莫山先生と墨

莫山先生は、墨の話をするのが好きだ。

書道に使われる墨は、
煤(すす)とニカワと香料でできている。

肝心な墨の色は、煤が決める。
かつて墨づくりの名人たちは、
菜種油や松脂(まつやに)からとれる煤に執着したそうだ。
莫山先生は語る。

墨は、生まれて二十年から六十年ぐらいが働きざかりである。
ちょうど人間と同じである。

時の流れとともに墨は老いていくが、
いったん紙にえがかれると
軽く千年は光を放ち続けるという。





莫山先生と良寛和尚

良寛さんの生き方は純粋だ。
その純粋さが書に宿っている、と莫山先生は言った。

良寛和尚の生きた時代。
江戸幕府の政治は頽廃を極め
役人たちは私利私欲を貪った。
良寛はそんな世俗に背を向け
ただひたすらに経をあげ
詩を書き、歌をつくった。

莫山先生は、良寛の詩を独自にこう解釈する。

心は水のようなもの 誰にもわかるはずがない
心に邪念がわいたなら 何も見えなくなるんだな
あれよこれよとこだわれば ほんとのことは遠ざかる
こだわり心に酔ううちは 救いもくそもあるものか

そういえば、32歳ですべての肩書を捨て
野に下った人がいる。

莫山先生が良寛和尚を好んだ理由。
それは権威を嫌うあなたの生き方にそっくりだったから、ではありませんか?





莫山先生と詩

書家、榊莫山先生は、
あるときから詩と書と絵がひとつになった作品を多く作った。

これは詩書画三絶(ししょがさんぜつ)と呼ばれるもので
古くは池大雅や与謝蕪村が名作を残している。

莫山先生の場合は、
教訓めいた言葉など書かない。
他愛のない言葉を、思いつくままに添える。

  山へ ヤブレタ夢ヲ 拾ヒニイッタ。
  夢ハドコニモ落チテヰナカッタ。
  ワタシハソット ソノ虹ヲポケットニ入レテ帰ッタ。
  虹ハツブレテヰナカッタ。

優しい言葉が置いてあるから、
見る人は難しい顔をしない。ただ、ほほ笑むだけ。
これでいい。





莫山先生と夢二

竹久夢二のファンだった莫山先生。
あるとき、夢二の詩が気になった。

煙草のけむりが きれてながれる これが別れか

それもそのはず、心臓の病をきっかけに、
一日100本吸っていた煙草をやめた。
莫山先生は、夢二の言葉を噛みしめて、こう嘆く。

ああ、あ。わたしの別れは煙草との別れ、やった。
だが、夢二の別れは、女との別れ。えらいちがいや。





莫山先生と筆


白いザンバラ髪がトレードマークの莫山先生。
今から30年近く前に、
ある名案を思い付いた。

これまで羊やイタチ、馬、タヌキ、牛など
あらゆる動物の毛の筆を試したが、
自分の髪で筆を作ったらどうだろうか。

白髪混じりの一握りをハサミでちょん切り、
馴染みの筆屋に送る。

「せんせ、このゴマシオの毛、いったいなんだんね」
「わしの頭の毛ぇや。筆になりまっしゃろ。二、三本。」

そんなやりとりがあり、しばらくして筆ができた。

アトリエに並ぶ数百本の筆の中で、
抜群に可愛いけど
ひとつも主人の言うことをきかないのが、
自分の頭髪でつくった筆だそうだ。

今年の9月、莫山先生は
その筆を手に、長い長い旅へお出かけになった。


topへ

細田高広 10年10月31日放送



1. バド・パウエル


バド・パウエルが、
ジャズピアニストとして
人気になった頃。

彼のライブをある男がお忍びで訪れた。
ジャズ・ピアノの神様と言われていた
アート・テイタム。

一曲聞き終えるとテイタムは大きな声で
周囲の人にこう言ったという。


 彼は、左手の使い方を知らないね。


その声を聞いたパウエルは、曲目を変更。
テイタムの十八番を、
左手一本で弾いた。

ジャズマンが腕を競ったジャズ全盛期。
ニューヨークでは、夜ごとに音楽が進化した。








2.ジョン・コルトレーン


サックス奏者、
ジョン・コルトレーンのキャリアは
苦悩の日々から始まった。

無名時代に、
マイルス・デイビスに抜擢されてバンドに加入。
口の悪い批評家に「ヘッポコ奏者」と呼ばれ、
ブーイングも日常茶飯事だった。

そんな状況が、彼を猛烈な練習へと駆り立てた。
コルトレーンの家の前を通って、
サックスが聞こえない日はなかった、と友人たちは回想する。


 もし君が真剣なら、靴紐だって演奏できる。


コルトレーンが
そこまで言えるほど努力を積んだとき、
世間は彼を「天才」と呼んでいた。





3.ルイ・アームストロング


極貧の家に生まれた、ルイ・アームストロング。
10代の頃には発砲事件を起こし、少年院に送られる。
そこで指導員から教わったのが、コルネットだった。

そんなアームストロングが数十年後にスターになって、
故郷のカーニバルにやってくる。

大盛況のライブの最中、突如、ひとりの老人が
ステージを向かって歩き出した。
手には、タオルでくるんだ何かを抱えている。
老人に気付いたアームストロングは、
その場で泣き崩れたという。

タオルに包まれていたのは、
少年院で吹いたボロボロのコルネットだったのだ。

What a wonderful world.

多くのシンガーがカバーした名曲だが、
本当に歌いこなせるのはアームストロングだけだろう。





4.ソニー・ロリンズ


テナーサックスの巨人と称される、
ソニー・ロリンズ。
「サキソフォン・コロッサス」が絶賛されると、
スターダムを駆け上がった。

ところがその絶頂期に、
彼は突如引退を表明する。
引退後も橋の下で、
延々サックスを吹く姿は目撃されていた。
数年後、カムバックして発表した曲はその名も「橋」。

他にも2回活動休止期間があるロリンズだが、
未でも現役奏者でいる。

さすがはテナーサックスの巨人、
息つぎが上手い。





5.マイルス・デイビス


マイルス・デイビスは、
実にフェアな男だった。

黒人への差別には、
当然、正面から反抗した。


 あんたは白人であること以外に何をしたんだ?
 オレかい?
 音楽の歴史を5回か6回は変えたかな。


一方では
白人を嫌う黒人にも、
同じように厳しかった。

白人のビル・エヴァンスを
バンドに迎えたときには、
黒人仲間からの非難に憤った。


 あいつ以上のピアニストを連れてきたら、
 俺はそいつがどんな色をしてたってすぐに使ってやる。


そんな彼の元には、驚くほど多様な
アーティストが集まることになる。

マイルスの音楽が
世界中に影響を与えたのは、
ジャズを人類の協同作業にしたからだろう。





6.ハンク・ジョーンズ


評論家からも、同じピアニストからも
リスペクトされているハンク・ジョンーズ。
彼のピアノは実に雄弁だ。

ピアニストのブラッド・メルドーは、
彼のように自然体で歌うピアニストが
理想だと言っている。

そんな天性の才能を持ちながら、
ハンク・ジョーンズは実に努力家だった。

彼は言う。


 練習は、1日休めば自分に分かる。
 3日休めばカミさんが分かる、
 7日休めば仕事が無くなる。


怠け心が湧いて来たら、彼の言葉を思い出してみよう。




7.フランク・シナトラ


フランク・シナトラの好物は
テネシー・ウィスキーの
ジャック・ダニエルズだった。

「酒とバラの日々。」
「酒は涙か溜息か。」

歌にも込められた、酒への想い。

シナトラは、
周囲から飲みすぎを咎められると
こう答えたという。


 アルコールは
 人間にとって最悪の敵かもしれない。
 しかし聖書には敵を愛せよと書いてある。






8.チャーリー・パーカー


ジャズがまだ、ダンスミュージックだった時代。
チャーリー・パーカーは、
誰かのための音楽はつまらないと思った。

閉店後のライブハウスで、
仲間たちと繰り広げたジャムセッション。
観客はいない。踊れなくていい。
自分が酔える音楽かどうかだけ考える。

そうしてジャズの伝統を投げ捨てたら、
モダン・ジャズの創始者になっていた。


 自分の楽器をマスターしろ。
 そうしたら、そんなくそったれは全部忘れて、
 ただ演奏するんだ。


成長とは、学ぶことより、
それを捨てることかもしれない。


topへ

厚焼玉子 10年10月30日放送



藤村の初恋

ふるさとの馬籠(まごめ)の家には
桑畑のところどころにリンゴの木が植えてあって
隣との境に高い塀があり
その塀の向こうに同い年の少女がいた。

島崎藤村は、少女とリンゴの木の下を歩いた。
裏のたんぼ道で鳥の声に耳をすました。
谷から流れてくるせせらぎでカジカを掬(すく)うこともあった。

人目のないところに隠れて
少女をそっと抱きしめた、島崎藤村八歳の初恋。

今日は初恋の日
島崎藤村の「初恋」の詩は、明治29年の今日
文学界に発表された。








特攻隊員の恋

特攻隊員上原良司、22歳は
こんな言葉を残して特攻機に乗った。

  愛する恋人に死なれたとき
  自分も一緒に精神的には死んでおりました。
  天国において彼女と会えると思うと
  死は天国へ行く途中でしかありませんから
  なんでもありません。

好きだとも言えずに死に別れた初恋の人の
面影を追って
上原良司が沖縄のアメリカ軍機動部隊に
空から突入したのは
終戦間際の初夏のことだった。

今日は初恋の日





ミカドの恋

17歳の二条天皇が恋をしたのは
叔母にあたる藤原多子(ふじわらのまさるこ)だった。

多子の君は二条天皇の叔父にあたる近衛天皇の皇后だった人で
四つほど年上だったが
美女の誉れ高く、絵と書に秀で琴と琵琶の名手でもあったという。

とはいえ、叔母にあたる人と、
しかも皇后の地位にあった人と結婚なんでとんでもない。
まわりは猛反対したけれど
いまは未亡人なんだからいいじゃないか、とばかり
17歳の若さは無理矢理望みを遂げてしまう。

それは日本史にも残る事件になった。

今日は初恋の日





啄木の初恋

  砂山の 砂に腹這い
  初恋の 痛みを遠く 思いいずる日

石川啄木の初恋の歌は
何人もの作曲家が曲をつけている。
なかでも越谷達之助(こしたにたつのすけ)の切ないメロディは人気を博し
日本の代表的な歌曲になった。

ところで、
石川啄木の初恋は13歳。
その相手は啄木にとって高嶺の花だった節子。
だが、啄木は6年にわたる初恋を実らせ
節子と結婚している。

詩人でも詩人でなくても
人に言えない恋のひとつくらいあってもいい。
この歌を聴きながらそんなことを思う。

今日は初恋の日。





泉鏡花と年上の女

早くに母を亡くしたせいか
泉鏡花のあこがれはいつも年上の女(ひと)だった。

母のような姉のような女性、
やさしく美しく、妖艶ではかなげで
それなのに、いざというときは強い。

そんな女性はいるはずがないと誰もが思う。
けれど、鏡花の心と鏡花の書く小説のなかには
確かに存在していた。

鏡花の初恋の人は湯浅しげという
やはり年上の人だった。
その人をモデルにした小説を読むと
生身ではない美しい女がふわりと浮かび出る。

今日は初恋の日





八百屋お七

恋のために火付けをして
火あぶりになった八百屋お七と
その恋のお相手の吉三郎がはじめて会話を交わします。

 「私は十六になります。」
  「私も十六です。」

井原西鶴描く、もどかしく切なく美しい
十六歳の初恋のシーンです。





スサノオ



スサノオのオロチ退治は
英雄伝でもあるけれど、恋の話でもあると思う。

さんざん悪さをして高天原を追われたスサノオが、
突然心を入れかえて人々のためにオロチ退治をするというよりは
好きになったクシナダヒメを助けるためと考えた方が
矛盾がないからだ。

スサノオはオロチを退治した後で
クシナダヒメと結婚し、こんな歌を詠んだ。

  八雲立つ  出雲八重垣(いずもやえかき)  妻籠(つまご)みに
  八重垣つくる その八重垣を

この三十一文字の歌が
日本の歌のはじまりとなり
その後(のち)、恋人たちは歌を交わし合って思いを伝えた。
スサノオは、いつも間にか歌と恋の神さまになっていた。

スサノオを祭る島根県の八重垣神社では
縁結びの赤い糸を買うことができる。

今日は初恋の日。

topへ

小山佳奈 10年10月24日放送



「ビート・ジェネレーションの肖像」


ジャック・ケルアック、
アレン・ギンズバーグ、
ウィリアム・バロウズ。

1944年.ニューヨーク118丁目のアパートメントに
集まった若者たちがいた。
彼らはみんな未来に対する前向きな姿勢を失っていた。

華やかなアールデコの時代から
ウォール街の大暴落、
それに続いて起こった世界恐慌。
大人たちによって引き起こされた転落は
社会に対する不信感となってあらわれたのだ。

彼らは社会ではなく自分自身に興味を持った。

後に彼らは
「ビート・ジェネレーション」と呼ばれ
世界中の若者たちに
熱狂的に迎えられる詩や小説をかきはじめる。










「ビート・ジェネレーションの肖像」


「路上」というたった一冊の本で、
20世紀のアメリカの若者に神とあがめられた作家、
ジャック・ケルアック。

彼の夢はそもそもフットボールの選手だった。
しかし鳴り物入りで入ったコロンビア大学で、
コーチと大げんか。

鬱屈した想いでニューヨークを歩きまわると
そこは生まれ育った田舎町では見たことのない
まぶしさに溢れていた。

酒と、女と、ドラッグ、そして、
そのどれよりも刺激的な友人たち。

彼はあっさりドロップアウトし
狂ったように小説を書き始めた。

もしも彼がその時、コーチに気に入られていたら、
ヒッピーもロックも生まれていなかっただろう。

運命は、だいたい、ちょっとしたことで決まる。





「ビート・ジェネレーションの肖像」


孤高の詩人、アレン・ギンズバーグ。

1950年代のアメリカを席巻した
ビート・ジェネレーションの中で
いち早く売れたのが彼だった。

彼は同性愛者で、
同じくビート世代の作家、
ケルアックに一目ぼれ。

自由なケルアックに振り回されながらも
彼を出版社にせっせと売り込み続け、
それがケルアックの成功につながる。

それは「ケルアック」という名の
ギンズバーグ最高の作品だった。





「ビート・ジェネレーションの肖像」


作家、ウィリアム・バロウズ。

妻を間違えて射殺してしまったり、
幻のドラッグを求めてチベットまで旅をしたり
逸話には事欠かない戦後文学の奇才。

彼は博学だったし頭もよかったけれど、
作家になりたいなんて
これっぽっちも思っていなかった。

そんなバロウズの才能を
誰よりも惜しんでいたのは
親友のケルアックだった。

彼はバロウズが床に書き散らした文章を
拾い集めてタイピングしタイトルまでつけて
本に仕立て上げた。

友情。

陳腐な言葉だが、
誰かに対する使命感と翻訳すればうなづける。





「ビート・ジェネレーションの肖像」


かのカート・コバーンが憧れ、
今なおアメリカの若者のカルト・ヒーローで
ありつづける男。

ニール・キャサディ。

彼自身が書いたものは一篇もない。
だが彼の無軌道な生き方に、
ビート・ジェネレーションの仲間たちは
憧れ、嫉妬した。

ガムのようにたやすく車を盗んだかと思えば
ショーペンハウアーを諳んじ女をくどくニール。

それは小説のヒーローとして申し分のない素材で
ケルアックは彼との旅を一冊の本に記した。

それが「路上」
無軌道なヒーローに世界中の若者は酔い
ケルアックはスター作家になった。

そんな成功とはまるで無関心に
ニールはあっけなく死んだ。
メキシコの道の上で裸で倒れていた。

まさに「路上/オン・ザ・ロード」

ニール・キャサディは自分自身が作品だったのだ。





「ビート・ジェネレーションの肖像」


若さとは実験である。

作家、ジャック・ケルアックは、
タイプライターの紙を交換する手間が
どうにも許せなかった。

浮かんだ言葉がその瞬間に
逃げていくからだ。

かくして彼は、
トレーシングペーパーを何百枚もつなぎ
40メートルもの巻物を作った。

ケルアックは
わずか20日で17万5千字の小説を書き上げたけれど
そんな面倒くさい巻物を読む出版社はどこにもなかった。

2001年、その巻物にタイピングされた
「オン・ザ・ロード」の原稿には
240万ドルの値段がつけられている。





「ビート・ジェネレーションの肖像」


作家にとって
世に出ないことは
存在しないも同然である。

作家、ジャック・ケルアックは
ほぼ10年間、
無名であった。

先の見えない毎日の中
彼がそれでも書き続けられたのは
友人たちのおかげだった。

ギンズバーグはダリや知識人と引き合わせ、
バロウズは乞食同然の彼に
執筆できる部屋とタイプライターを用意した。

ケルアックは
世界で一番幸せな無名作家だった。





「ビート・ジェネレーションの肖像」


1967年、
ビートの作家、ジャック・ケルアックは
アルコールの過剰摂取で死んだ。

若者のカリスマとまつりあげられた彼も
晩年は忘れ去られた存在になっていた。

しかし葬式当日。
町の人は異様な光景を目にする。

何百人という若者が全米中から集まり
献花の列をなした。

それから半世紀。

ビートルズ、
ボブ・ディラン、
コッポラ。

みんなみんな、
ビートに憧れて育った。

ケルアックは言う。

「若者よ、狂え。」






Jack Kerouac by photographer Tom Palumbo from New York, NY, USA


topへ

名雪祐平 10年10月23日放送



熊谷守一 1

自分の絵は、売るためのものではない。
描きたいときに描くもの。

画家、熊谷守一はそう考えていた。
けれど、絵が売れなければ、貧しい。

4歳の息子が肺炎になっても十分な治療ができず、
命をなくした。

その死に顔を、
画家は描いたのだった。

絵を描かずに死なせた息子の亡骸を
描く自分に愕然とした。

それでも、
売るための絵は描けなかった。

画家は筆をおいた。





熊谷守一 2

絵が描けない画家、熊谷守一。

貧しさから
次々と子どもたちを病で失ったが、
売るための絵は描けなかった。

ようやく60歳近くになって、
書や墨絵にめざめ、
こんどは娘の死をきっかけに
再び“絵を描く画家”に生まれ変わったのだ。

この後、画家は自宅の門から外へは
30年間出なかった。

小さな庭が画家の宇宙になり、
そこに息づく草花や虫、
生き物たちの命とたわむれ、
一日中眺め、
画家は唯一絶対の画風を
獲得していった。





熊谷守一 3

熊谷守一の絵は、
独特である。

単純な色と線で、
対象物の内面まで表現する。

なにしろ、対象物への
愛情にあふれている。画家は言う。

 絵でも字でも
 うまく描こうなんて
 とんでもないことだ。

名誉やお金にはまったく無頓着。
文化勲章も
「これ以上人が来るようになっては困る」
と辞退した。

97歳の死の直前に描いた名作『猫』は、
その自由で、のびやかな猫の表情が
まるで熊谷の自画像のようにも
思えてくる。





アンデルセン

童話の父、アンデルセン。

若い日には、
オペラ歌手をめざしたり、
バレエ学校にも在籍したものの
失敗と挫折を繰りかえした。

その経験が、のちの
『みにくいアヒルの子』を生んだ
ともいわれる。

作家として大成功し、
まさしく美しい白鳥となったアンデルセンだったが、
女性に対しては醜いアヒルのように
モテることなく、生涯独身でおわる。

葬儀は、デンマークの国葬をもって
おこなわれた。

女性との縁に恵まれなかったが、
葬儀には王族からホームレスまで、
もちろん子どもたちも参列した。

たしかに、アンデルセンは
たくさんの人々から愛されたのだった。
そしていまも、
世界中の子どもたちを夢中にさせている。





ディオゲネス

ギリシャの哲学者、ディオゲネス。

みすぼらしい路上生活を送り、
どこでも平気で物を食べた。
そんな彼を見て、
人々は「まるで犬だ」とののしった。

ディオゲネスはこう言い返した。

「人が物を食っているときに集まってくる
 おまえらこそ犬じゃないか」

食べることがおかしなことでなければ、
どこで食べてもおかしなことではない。

それが彼の哲学。

さて、現代。
道ばたで、地下鉄の中で、
物を食べている人々も哲学、
しているのだろうか。





エルンスト・ルスカ

ノーベル賞の条件。
それは長生きすること。

功績をあげてからの最長記録は
55年後の受賞。

その1人、エルンスト・ルスカは
25歳の年に電子顕微鏡を開発し、
80歳の年にノーベル賞物理学賞を受賞した。

今の研究開発が
未来のノーベル賞かもしれない。

みなさん、長生きしましょう。






ムンク


孤独と不安。

それらを絵で表現するとしたら、
どんな色だろう。
どんな形だろう。

1つの見事な答えがある。
ムンクの『叫び』

不気味な赤い空。
ミイラのような男のゆがんだ表情。

自然をつらぬく、けたたましい、
終わりのない叫びに耐えかねて
男は耳をおさえている。

なぜ、ムンクには叫びが聴こえたのか。

 病と狂気と死が、
 私の揺りかごを見守っていた黒い天使だった。

そんなムンクの孤独と不安が
世界の叫びと激しく共鳴したのだろうか。

ムンクの『叫び』
それはまるで1枚の音。

topへ

薄景子 10年10月17日放送



本のはなし 五味太郎


読むというより、中に入っていっしょに遊ぶ。
そんな絵本を次々生みだす五味太郎。
彼のエッセイが名門私立中学の
国語の試験に出たことがあるという。

作者の意図を次の4つから選びなさい。
全体の論旨を50字以内でまとめなさい。
出題はぜんぶ五味さんの文章がらみだった。

試しにそのテストをやってみたという五味さん。
当然100点かと思いきや、フタをあければ68点。
85点が合格ラインの入試に、
不合格という結果になってしまった。

作者本人だぜ、たのむよ、中学に入れてくれよ。
とこぼしつつ、
この気分を50字以内にまとめてみよう!
と洒落で流すユーモアセンス。

どんなことでも面白がれる、五味さんの器は無限大。


topへ


login